おはようございます。けうです。
「はじめてのウィトゲンシュタイン」を読んでいます。
ここでウィトゲンシュタインの前期と後期の大きな違いというのを筆者の古田さんは「像」に対する捉え方だと言っていました。
これと私は記憶が結びついたので話していきたいと思います。
ウィトゲンシュタインの「像」
まずウィトゲンシュタインの前期の像は模像のことです。
プラモデルとか、そのものがあることを指します。
写真とか、映像とか、心的な絵とか。
前期の像=人がときに実際に頭に思い浮かべるイメージそれ自体
後期の像=何かのイメージで物事を捉えるということ(何かになぞらえて物事を把握するということ)
例えば、私が「人間とは月のかけらのようなものだ」と言ったとします。
前者だと、月のかけらそのものを思い浮かべます。
そこらへんの石を頭に思い浮かべるかもしれません。
でも、後者だとそのもののイメージを想像しだします。
具体的な絵がないのです。
絵がないまま、月のかけらというイメージだけを膨らませるなら宇宙に浮かんでいるなにかキラキラしたイメージかもしれません。
その絵を描いて!といわれたときに、明確な絵が描けません。
石の絵ではなく、宇宙の想像を描くかもしれません。
これがウィトゲンシュタインの後期の像です。
私はこの違いを理解すれば、私がなぜ記憶力が悪いのかを理解できるのではないかと思ったんです。
もし私が模像と言葉を明確に結び付けられる人だったら、テスト問題で月のかけらという空欄があったとしたら、そこに石をイメージした〇を書けばすむかもしれません。
私はその石の模像をイメージしたのであり、そう覚えているのだからそう書けばいいんです。
でも、私は月のかけらについて膨大なイメージが浮かび上がりました。
それは一つの模像を指しません。
いろいろなものが考えられます。
ただ〇として空欄に書くと、自分でも間違いのような気がする。
それは一つの意味として月のかけらを決定づけることが難しいと私は思っているのです。
なので、いくつも考えが襲ってきて、私は小さな空欄にその答えをかくことができなくなります。
なので、この場合、言葉としてそのものを表せなかった。
ただ全体のイメージだけがそこにあったのだと示唆します。
前者はテストで正解をもらいます。
月のかけらイコール石という空欄を埋め込んで正解!
後者は考えていますが、その考えたことにより空欄を埋めることができなくなりました。
なので不正解。
私は文章を暗記するときにこのようにしているのではないかと思ったのです。
言葉として覚えていないか、そのイメージをつなぎ合わせることができていないか。
記憶の達人の記憶の仕方
よく、記憶力の達人が、記憶をよくするためには数字にあるイメージをつけるといいといいます。
1と言うのをイチゴをイメージして、そのイチゴが動き回っているところが1。
明確に1イコールイチゴというのを頭の中に思い描きます。
二だと人参かもしれませんね。
二の人参をイメージして、そのなかで、いちごと人参のストーリーをつなぎあわせていくと数字が覚えられるといいます。
自分の中で一つの固定化された映像を思い描くと、人はエピソード記憶にすぐれていると言うのでその一連のストーリーからその文字羅列が思いおこされるのだ、と。
1つのものに対して結びつきを強くした模像だと、枠に答えが描けるようになります。
その場合、その用語そのものも暗記した!と言えます。
例えば、歴史の年代を語呂合わせで覚えてしまおうとも言われますよね。
1192つくろう鎌倉幕府とか、794うぐいす平安京とか。
でも、歴史の実際は違うとも言われています。
その年代の前後が実際に成立した年号だよ、とか、歴史解釈も確定はしていない。
でも、テストではそのようにかかないと不正解になるし、人に伝えるのにも、そのしっかりとした模像でなければ伝えることが難しくなります。
私が客観的に存在している情報を自分のものとして知識にしたときに、そこに意味の変換がおこっています。
赤ちゃんという言葉がある。
生後1歳までの子を言う。という定義がまずあったとして、それをそのままテストで書けば正解かもしれない。
でも、私が母親を経験して赤ちゃんに触れたときに、赤ちゃんのイメージが私なりの知識になったときに、私は正解としての赤ちゃんを書くときに、私のイメージとの違いを意識することになります。
記憶と像との関係
ここまで来て、記憶に戻ってみます。
私は記憶力が悪い。
それはどういうことか。
1つの用語を明確に言い表すことが苦手だ。
意味を確定させていって、赤ちゃんイコール一歳前後とすることに違和感を覚えてしまうから。
でも、正解としてはそうあるし、そう言えなければ人とスムーズなコミュニケーションができない。
それは意味を確定させている私とでないといけなくなる。
では、なぜ記憶力が悪かったのかと言うと、独りで会話をしていたから。
つまり、独り言ですんでいた。
私は私の中でその広い意味でのイメージを持っていて、そのものを確定させていない。
確定させてなくても、自分の中だけだとそれでよかったということ。
なので、言葉を覚えるということは、言葉をある模像の結びつきにすることなのではないかと考えてみました。
だから、私は記憶力が悪いというか、その言葉自体を出すことが難しいのだと。
月のかけらときいたときに率先してイメージだけが襲ってきて、それを表す用語が思い浮かばない。
その用語を探し出すときに、そもそもの用語を忘れてしまっているかもしれない。
それは、自分との会話をする中では、それで事足りていたから。
確定した用語を使うと言うことは、社会性をおびるのではないかと思いました。
他者に伝えようとする気持ちが強い時に、記憶はある一言で説明できる言語と結びつく。
モンテーニュと記憶力
だから、私はもしかすると、このまま記憶力が悪いといわれる状態のままかもしれない。
私は哲学者モンテーニュが記憶力が悪いと本人が嘆いていた、いや、嘆いていたかはわからないんですが、その理由はイメージが膨大すぎたのかな、と推測します。
現にかれは初のエッセーといわれる本の形式を書いていた。
本を書けるイメージがたくさんあった。
ただそこに模像がなかった。
彼は率先して忘れようとしたともいいます。
情報を忘れて、そのものを自分だけの知識にしようとした。
だから、模像の記憶を忘れるということがオリジナリティに繋がったのかなと思いました。
逆にサヴァン症候群の人は映像がそのままインプットされるといいます。
なので、模像をそのまま取り出せるので、曖昧なイメージを経由しないからすごい記憶力なのかもしれない。
さらに言えば、言葉が言葉を覚えやすいのはまずは自分と世界と関連付けて、石という言葉を簡単に使えるようにする。
猫、犬とかも覚えるときに絵を使用して、そのまま模像として表せられるようにしたのかな、と思いました。
アウトプットを良くするといいと言うのも、私のイメージを一度は一つの模像にするから。
言葉と模像として、人に伝えやすくするし、その場合単語を覚えるのだと言うことかな、と。
記憶力は社会性でもあるのかな、と思いました。
では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。