NO IMAGE

家族的類似性とは-「本質」がないことを説明する。

おはようございます。けうです。

 

「はじめてのウィトゲンシュタイン」を読んでいます。

今日は「家族的類似性」を解釈していこうと思います。

家族的類似性とは

プラトンのイデアという考え方があります。

それとの対比で考えます。

イデアとは

人はポメラニアンを見たときに犬だと思う。

柴犬をみたときに犬だと思う。

ゴールデンリトルバーを見ても犬だと思う。

きっとこれには何か犬と言う本質がある!

と考えるのがプラトンのイデアです。

家族的類似性とは

しかし、家族的類似性を見てみます。

私たちは犬だといわれて初めて犬だとみなすような犬がいる。

ブルドックは犬だ。

チワワは犬だ。

初めみたときに私は犬だとは思わなかった。

だって犬っぽくない。

このような現実に即した体験がかさなったものが家族的類似性です。

 

家族の形態はさまざまで、遺伝によってつながっているわけでもありません。

おじいちゃんと娘の遺伝子が継続していなくても家族です。

似てる、似てないもあって、誰かにいわれて家族だよ、といわれたことで家族なんだと思います。

そこには初めから家族があったわけではない。

父と子には何かしらのつながりがあっても、子と祖母にはないかもしれない。

外面的にみても、言われないとわからない。

実は引き取ってきた子でね、と私が説明をうけて初めて家族なんだということを納得したりします。

このように相手の目線を受け入れることによって家族の意味がなりたっている。

そのときに、共通する本質なんてものがない、となるんです。

言われてその意味をうけいれているだけなんです。

家族的類似性と「意味の場」

私はこの家族的類似性を解釈したときに、マルクス・ガブリエルの意味の場と重なるなと思いました。

ガブリエルの意味の場は私がそのように思っている意味の場が存在してる。

そして、他者と話すことによって、他者の意味の場との交わるところで会話の理解がされている。

なので、お互いのおおきなくくりはないと考えています。

例えば、娘は果物にいちごやすいかやぶどうやチョコレートをいれていたとします。

私は彼女の言葉を耳にして、彼女は果物についてこのような好きなものっぽい解釈をしているんだなと理解します。

といったときに、私は私の思っている果物がないときはチョコレートを持っていきます。

ここでそうすることによる共通の意味が通っているんです。

しかも、ちょっとチョコレートを考えてみます。

カカオの実は木からとれますよね。

で、加工がしてあるからチョコレート。

でも、パイナップルとか加工してあってもパイナップル砂糖づけとかだと私はぎりぎり果物と思うかな、と。

なので、彼女が果物!

といったときに、私と彼女の「果物」が作り上げられます。

 

でも、これは学術的に言えば「本質」ではない。

といわれるかもしれない。

なので、私はこう説明します。

言語は日常の言葉からうまれている。

発生の元が日常なのだから、学術的な「本質」には従う必要がない、と。

 

なので、私の意味の場は正解不正解は関係がない。

ただ娘と私の意思疎通ができればいい。

「本質」があるとおもっていたものに対しての解釈

そして、この「本質」がないということについて、私は今までの見方の一部を改めたいなと思っていることがあります。

ショーペンハウアーは自分が考えたものはすでにそこにあるといいました。

世界中の偉人をたどれば、自分の考えが初めて何てそんなことを思うのは軽率だ、と。

続けて、でも、先人が同じことを思っていた。

そうそれだけで、その論に説得力が増すし、考えた人にとっては価値があるのだ。

とショーペンハウアーはおそらく(私の解釈では)言っていました。

ここに「家族的類似性」を持ち出します。

 

私は他の偉人と同じ意味だと感じた。

はたしてそれは本当に同じ意味なのだろうか、と。

その偉人と私の価値観は違う。

世代も違う。

世代も超えているのに、何一つ同じと言うことはありえない。

では、どこかが違っているか、それか私が同じだと思い込んでいる先入観がどこかにあるはずだ、と考えます。

ショーペンハウアーがいったその意味はたどった人にしかわからないと言われるような意味。

それすらが「本質」といわれていたものにくっついていいんだ、と。

 

このように考えるとすれば、

私はウィトゲンシュタインとマルクス・ガブリエルが同じことを言っているのではないかと思ったけれど、違いを探せばあるはずだ、ということを思いつきます。

まだ読み込んでいる途中なので、きっぱりとは言えないのですが、ウィトゲンシュタインは「家族的類似性」の中のものは発想でもいいといいます。

そうなれば、本当に存在していなくてもいいんだ、と。

家族的類似性と意味の場の違いは「存在」?

それに対してマルクス・ガブリエルは、発想は存在するんだ、と。

空想上の生き物ととらえられているユニコーン。

そんなユニコーンは存在すると言います。

この存在に対する両者の捉え方は違っているんだろうなと思いました。

二人とも自分の言説の正しい不正解は問わないし、コミュニケーションによって意味の場が交わったときにお互いの理解が通じると言う。

あえて言うならばウィトゲンシュタインが言語に限定しているとすれば、マルクス・ガブリエルはそれを超えて存在にまで拡張している、と考えればいいのかな。

ここはもう少し考察したいところです。

 

そして、私の考えは私にしかない、ということを改めて認識するにいたります。

情報は客観的にある。

それは辞書のように、言葉によって規定されている。

ただし、それは日常言語の中でみられたある人がみた一定した規則を限定させたものである。

また私たちがその意味を把握して、日常においてその用語を使いだしたとき、その用語の意味は私だけの知識になる。

私は知の主体であって、私が獲得している知識は私にだけしかわからない。

だから、私が発言する意味があるし、私が言っていることはいつも独自性をおびる。

それはあなたの言っていることが当たり前だと言われたとして、

その当たり前だと思っていることが一つの先入観であるということ。

 

実はその捉え方ができているのはあなたでしかいないのに、あなたはそれを当たり前だと認識する。

そして、それが大多数だと錯覚して、世界はそうであると思い込む。

ここは私は一般人だと言うような思い込みによる主張によって、自分は何ものでもないと訴えている。

人は群れたがることがあるので、その場合は少数者を排除するかもしれない。

でも、本質なんてないんだ!としたときに、その当たり前を疑える。

私にはオリジナリティがないと言うのは思い込みなのではないか、と。

なにか先入観、思い込みというものに捉えられているだけなのではないか、と。

このように思ったときに哲学の道に入る。

その場合に何か具体例をだすことで、あなたと私の意見の相違が明確になる。

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

 

 

NO IMAGE
最新情報をチェックしよう!
>けうブログ

けうブログ

哲学を身近に