「もしすべてがバラなら、なにひとつバラではない。」
この文章は哲学者ルイアルチュセールが「精神分析講義」の中でとりあげていた表現です。
ルイ・アルチュセールが言うには彼の師匠のジャン・ギトンが言っていた名言だそうです。
彼は、精神分析の領域と心理学の領域を差別化するのは何かと講義でとりあげていました。
心理学と聞くと同じように感じる。
でも違う、ということをこの一文で表しています。
少し、この一文をおってみます。
ルイ・アルチュセールの師匠ジャン・ギトンの名言
もしすべてがバラなら、なにひとつバラではない。
これはバラではなくても通るのですが、このままバラで例えてみます。
私が花をみるときに、すべてがバラだと見ることにします。
すると、すべてがバラなので他の種類の花、タンポポとはすみれとか、そういったものの種類が消えます。
花の種類が消えてしまう。
花の種類が消えてしまうので、バラという種類がなくなってしまう。
つまり、すべてをバラと呼んでもよくなってしまうということです。
そうなると、わざわざ一つを選んでバラと言うことはなくなって、花がバラということになります。
今までバラという種類として特徴づけられていたものはなくなってしまうからです。
では、バラがなくなったとして、花は残っているとします。
次に拡大解釈したものを例にあげてみましょう。
もしすべてが花なら、なに1つ花ではない。
花の種類が消えてしまったので、すべて花になってしまった。
そして、次に花ではない状況を考えてみます。
すべてが花とみているときには、木とか、はえてるものを花としてみています。
すると、植物を花と呼んでもよくなるということです。
もしすべてが植物なら、なに1つ植物ではない。
そうなると、動くものも植物だとなってきますよね。
だんだん何もかもがなくなってきました。
次に、自分にあてはめてみましょう。
まずは性別から。
もしすべての人が女性ならば、誰一人女性ではない。
意味として、男女を区別するものがなくなるから、女性がいなくなるということ。
私は人だということになる。
もしすべてが人ならば、誰一人として人ではない。
この世の中には人と人ではないものを区別するものがなくなったということです。
どこまでいくんでしょうかね。
もしすべてが宇宙ならば、何一つ宇宙ではない。
どこまででも続きそうです。
さて、ここで振り返ってみます。
私たちはどのように区別をしているんだろうと。
ジャン・ギトンの名言から-区別とは何か。
私は当初、本を読んだときに、精神分析と心理学の差異なんてわからないと思いました。
でも、この態度でいくと区別する意味がなくなってしまいます。
区別は、カテゴライズするといいます。
そのものを枠組み(カテゴリー)に当てはめる、というような言葉の使い方です。
その逆がディメンショナル(スペクトラム)という虹のようなグラデーションです。
私は男女の区別がつくけれど、それはそのことを知っているからです。
知ると区別ができます。
でも、さらに知ろうとしたときに、それぞれを分けている境界線が気になります。
境界線をたどっていくとその境界線が消えてしまうこともあります。
そのときにディメンショナルの考えに移ります。
その場合、区別はなくなって、混沌とした世界があらわれます。
でも、私たちは区切っているのだから、その混沌とした世界を分析してまた区切っていきます。
混沌とした世界は言葉では伝えられないので、私たちはまたそれに名前をつけます。
ディメンショナルとカテゴリカルは相互作用しています。
まず、カテゴライズされているそのものを考える。
バラとは何か。
私たちはバラを知っているからそう呼べる。
アルチュセールは「私たちはどうやって現実にある差異を根拠づけるのでしょうか?」という問いを立てています。
バラがあるはずだ。
そうやって、バラとバラではないところの境界線を探す。
それと同じように精神分析の領域と心理学の領域を差異化しているところをアルチュセールは探っていったようです。
ラジオではルイ・アルチュセールの名言といっていますが、正しくは彼の師匠のジャン・ギトンがアルチュセールに述べていた名言です。