おはようございます。けうです。
昨日はブログ記事ジョン・ロックの思想を整理して、その後にルソーの説いた社会契約説を勉強していました。
ルソーは社会契約説の中で一般意志を説いています。
今回、東浩紀さんの「一般意志2,0」を読んでやっとルソーの一般意志が解釈できたのでそれを説明していきます。
ルソーの説く一般意志というのは、無意識とか、均されたみんなの望みとか、データベースとして解釈されていました。
私はずっと一般意志について謎だったんですよ。
よくルソーの一般意志は全体意志とは違うと言われていました。
まず全体意志を説明します。
全体意志と一般意志の違い
全体意志というのは一人一人の意見が寄せ集まった総意の意味です。
Aさんがこのアビリーンという都市に行きたい!
Bさんもその旅行っていいね!
Cさんもいいね!
というように個人の欲望が合わさって行って、一つの結論としてアビリーンに行くことが決定される。
こういったことが全体意志です。
そして、それとは違う一般意志というのは、そこにアビリーンに行きたくない!
という視点もいれなければいけない。
そんな全体意志を超えて調和したものが一般意志らしいんですよね。
教科書などで「話し合いをしなければいけない」と書かれている一般意志とは何なのか、と。
一般意志は人を超越したもの
一般意志について記事を書くために「一般意志2,0」東浩紀さんの本を読みました。
そこで納得できたのですが、一般意志というのはルソーが想定していた時代ではそれを唱えるためには人間を超えた超越的な視点が必要で、それを唱えられるのは神的な人とか、天才だとかでしかなかったようです。
そして、話し合いを必要としないものだとルソーによれば定義されていたようです。
コミュニケーションは不要だ、と。
ちなみに、さきほど全体意志を表しましたが、あれはアビリーンのパラドックスという例で説明しようと出しました。
アビリーンのパラドックスというのは、本当はみんながアビリーンという都市に行きたくなかったのだけれど、みんなが賛成してしまったので、結局全体意志がアビリーンに行くことになってしまったという例です。
でも、一般意志は違います。
本当に生きたい?というような、人との会話を必要としません。
超越的な視点から本当は「アビリーンに行きたくないんでしょ?」、
というような無意識を見抜いて、結論ではアビリーンに行かない、という本心を選択します。
だから、超越的なんです。
無意識の選択がでてくるからです。
けれど、東さんは今のインターネットの時代になったからこそ、この一般意志は可能なのではないかと語ります。
インターネット時代に登場する一般意志2,0
どういうことかと言えば、イメージとしてはグーグルです。
私たちは何も意識せずにインターネットを使います。
そして、勝手にアルゴリズムによって私の行動は分析されています。
大量な量の無意識のデータがグーグルに集まっていきます。
この無意識のデータを集めたものが一般意志だと捉えます。
これを集積知とも言うそうです。
集積知とは
集積知は大量に集まった無意識の知のデータです。
このデータは分析によるとかなり真理ともいえるものを導き出すのだとか。
東さんは言います。
「一般意志とはデータベースのこと」「一般意志は<均されたみんなの望み>」
「一般意志の成立のためにはそもそも政治からコミュニケーションを追い出すべきだ」
「一般意志への従属は人間への依存ではなく事物への依存であり、だから強固でよいものなのだ」と。
「一般意志は数学的扱いだ」と。
このようなイメージで一般意志を捉えます。
集積知はただ人間がいるだけで、個人が意図的に調べなくてもデータによって平均体重がわかったり、平均身長の数値があらかじめきまっているようなものです。
三人寄れば文殊の知恵というように、ただ人が集まるだけでよりよい真理になっていくという感覚です。
そして、データとしても集積知は実際に真理に近づいているのだとか。
グーグルの企業理念のような「世界中の情報を体系化」する、ということに近い、と。
一般意志はGoogleの集めている集積知だ、と捉えます。
恐怖政治に使われた一般意志
私はルソーを哲学から読んでいて、自己愛を説いたり、社会ののけ者になれていたり、コミュニケーションを嫌ったりしているルソーがなぜ一般的に言われているような、一般意志を説いたのか。
従来の一般意志は話としては話し合いは大切だよ!というニュアンスで説明されていることが多かったのです。
そんなコミュニケーション嫌いがなぜ一般意志を説けたのかと私は思っていましたが、東さんの説明を聞いて、一般意志が腑に落ちました。
そして、それもしょうがないんですけど、歴史的にはロベスピエールに一般意志が使われていました。
ロベスピエールは革命家で、フランス革命の中心人物の一人です。
かれは国民主権を掲げました。
ルソーも説いていた国民主権。
これならば、ルソーも説いているし、その前のロックも説いている。
国民主権という理念によって、絶対王政が覆せるって思ったようです。
革命を肯定します。
そして、ロベスピエールは一般意志として国民主権をかかげます。
そこから恐怖政治が始まります。
裁判を単純化して、革命に反対した人を2ヵ月で1500人も処刑してしまう法案を成立させたりしていました。
ルソーの一般意志では、超越的な視点を持つ一般意志なので、そのときの反対がいくら多くても、ロベスピエールにすれば国民主権を掲げていれば正解!という形になっていました。
でも、この国民主権というのもまだ一般意志ではなかったということなんです。
それを絶対的なものだと掲げてしまうことで、絶対王政のような恐怖政治が復活してしまったからです。
このことを考えると、一般意志に人が手を加えると、全体意志になってしまうのだと考えられます。
コミュニケーションを通して人の意見を無理に変えさせようとするような。
関係としては利他とか善に似ています。
ルソーは人は意識することで自己愛が出てきてしまうと説いた人です。
どんなに人が良いことをしても、例えば子どもをとっさに井戸から救ったとしても意識すれば自己愛がでてくる、と。
そこに意識を介入させることで、それは偽善のようになってしまうんです。
私は子どもを助けないでいると、後で人に何か言われるかもしれないし、私の中で嫌な気持ちが残るから助けるのだ、と。
だから、とっさの自動的な行動だけが利他になったり、善になったりするのだと言うことができます。
意識せずにとっさに身体が動いたとすることが利他とか善といわれる行動なのだ、と。
まさしく一般意思の無意識ですよね。
一般意志も意識することで全体意志になってしまう。
一般意志-まとめ
そして無意識を説いたフロイトは言うそうです。
無意識には否定がない、と。
勝手に現れる。
アビリーンに行きたいといいつつ、行きたくないことも現れる。
子どもを助けたくないと思いつつ、助けると言う行動に現れる。
自分が嫌いだと意識では思いつつも、そんな自分を考えていることは自己愛だ、と。
両方現れてくる、と。
ルソーは理性の力を信じることができなくて、人の本能に信頼を置いていた。
またそんな一般意志が今、見直されているそうです。
では、お聞きいただいてありがとうございました。