私とは何か。
それを考える中で、ヒュームは「人間とは知覚の束である」と考えました。
デイビィド・ヒューム(1711~1776)イギリスの哲学者です。
知覚の束とは、五感による感覚が集まったものです。
五感には、聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚があります。
ヒュームは「人間とは知覚の束」だと表現し、私とは今の瞬間、これらの感覚が集まったものにすぎないと述べました。
現代社会は複雑性が増しています。
仕事での私、家族での私、インターネットで作り上げる私、といった様々な自己を私たちは持っています。
分割可能な私を見ていく上で、「知覚の束」としての私を見ていきましょう。
知覚の束とは
ヒュームは、経験論を大成させた人物として知られています。(哲学と宗教全史 参照)
経験から受け取る知覚の集合が、人間の心だと言うのです。
詳しく見ていきましょう。
知覚が束になった今の瞬間だけが私だと考えます。
この前も後も私ではなく、過去の経験は私に影響をおよぼすだけだと考えます。
過去の経験が私に影響を及ぼすとは
人間の細胞は変化しています。
一か月もしたら、古い細胞はすべて新しく入れ替わります。
すべて同じ細胞の私ではないのですが、それでも私たちは今の私を私だと感じるのです。
ヒュームが生まれる少し前、17世紀にホッブズが考えたテセウスの船という思考実験があります。(続哲学用語図鑑 参照)
セテウス「航海にでるぞ。あっ、津波だ。」
航海にトラブルはつきものです。
帆がやぶれてしまいました。
セテウス「帆の部分だけ新しくしよう。」
帆だけ新しくしましたが、他の部分も壊れてきました。
セテウス「船の板も張り替えだ。」
3年後にはすべての部分が新しく交換されました。
はたしてこの船は、はじめのセテウス号と同じなのでしょうか?
ヒュームの見解によれば、過去の経験が影響を受けただけ、と言うことになります。
つまり、答えははじめのセテウス号と同じではない。
そう推測できます。
(同じく自己同一性を問う思考実験に、「スワンプマン」があります。)
では、そのように考えるヒュームは、私を何と見ていたのでしょうか。
私という実体はない
その回答として、私という実体はない。
ヒュームは私という実体はないものとして考えました。
近代哲学は、デカルトによる自我の意識の発見から始まりました。
ヒュームはこの私を疑ったのです。
ヒュームの考えによれば、私は物質的に存在しないし、見ているもの自体も物質的には存在しません。
ただ知覚の束だけがあるのです。
私は存在するじゃないか!
と思うかもしれません。
しかし、存在すると思っている知覚があるだけで、それらの知覚は今に影響を与えるだけです。
その知覚は過去の知覚であり、存在しません。
過去の私は私ではないのです。
このヒュームの理論に反対する説は、生得観念です。
私たちが当たり前に持っているだろうと思うことです。
短い、長いであったり、時間や空間というような感覚です。
生まれながらに観念を持っているとは、過去の知覚も私だということ。
つまり、自己が分割不可能な存在であることです。
セテウス号の話に戻れば、はじめのセテウス号と後のセテウス号は同一なものだと考えることになります。
私たちはどちらも考えます。
全部新品になってしまっても、セテウス号に面影をみればそれはセテウス号だと言う。
初めの船を見て、その経緯を見ずに新しいセテウス号をみれば、それはセテウス号ではないと言う。
人に当てはめても同じです。
一日一日の成長を見ていると、その人だと実感する。
しかし、数年ぶりにその人に会うと、ほんとにその人なのか疑問に思う。
生得観念の考え方と比較して、詳しく見ていきます。
知覚の束から人間の心を考察
私は生まれながらに観念を持っているという説は、二元論につながります。
心と身体が二つあるという考え方です。
それは継続している身体をもっている私が存在していると考えるからです。
そして、ヒュームは一元論です。
その瞬間の知覚だけがあるという考え方であり、私の実体はないと考えます。
⇔
一元論=心だけがある。(身体だけという説もあります)
ヒュームが他の説を否定する根拠をみていきましょう。
二元論の心と身体には因果関係の法則が働いていると考えられます。
心と身体の結びつきがある、と。
このことの否定を見ていきます。
ヒュームは因果関係の法則を否定した
ヒュームは因果関係の法則を否定しました。
因果関係の法則は、「原因⇨結果」がある一定の条件下で行われるということです。
因果関係は様々なところで成立しています。
二元論では、因果関係の法則は人の心と身体をつなぐ根拠の一つです。
心が指示を出したから、法則にのっとって身体がそれに従います。
では、ヒュームの因果関係の法則の否定をみていきましょう。
まずはプロポーズやゲーム、仕事などの挑戦です。
100回やって失敗したとしても、101回目は成功するかもしれないという発想です。
心が揺れ動くかもしれませんね。
挑戦における因果関係の法則は否定できます。
これを教育にも応用します。
1+1=2
2+2=4・・・・・・
101+101=2
100までの足し算のルールを教えたとしても、子どもは101回目は違うと考えているかもしれません。
教育における因果関係の法則の否定です。
科学でもみてみましょう。
炎は熱い。
氷は溶ける。
光は一番速い。
これらは因果関係で説明されています。
けれど、科学の進歩によりそれが覆されることが起こりえます。
光より早いものを発見する可能性もあるということ。
科学は、パラダイムシフトという常識を覆す出来事を繰り返しています。
万有引力の法則だったり、地動説だったりです。
常識を覆すような出来事は、今までの因果関係の法則を否定します。
私たちが科学的に因果関係が成り立っていると思うものも、それが思い込みだったという事例があるのです。
因果関係の法則の否定は昔の話ではありません。
今現在も、新しい発見があると過去の因果関係の法則を否定します。
では、人間を知覚の束として具体的に見ていきましょう。
知覚の束をストーリーで見ていく
人間を知覚の束だと考えたときに、人間の生得観念を否定します。
生得観念は継続しているからです。
生得観念を言いかえてみましょう。
人間に生まれつき具わっている物事に関する考え方です。
生まれつき具わっているものが私にあると想定すると、私は分割できません。
この個人に関する考え方を分割可能か分割不可能かで見ていきます。(江戸とアバター(2020)参照)
⇔
私の実体はない=分割可能な分身主義
私の実体はないと考えることは、私は分割可能であるということです。
分割可能な私をアバターと結びつけて考えてみます。
『江戸とアバター』という本の中で、筆者はアバターについて説明します。
「『アバター』。それはネットワーク上の仮想空間におけるユーザーの分身のことだ。」
一般的には、このような意味で使います。
筆者はアバターに多くの多様性を見ました。
「アバターは自分のなかに存在する複数の分身であり、そのアバターがネットワークのように連なって、自分の個性を形作っている。」
仮想空間だけではなく、私の分身をアバターと呼んでいます。
私たちは日常のようにインターネットを使い、その中で分身を使いこなします。
分割可能な私だと、その瞬間、瞬間は私であるということができます。
ネット上の私も、家族としての私も、仕事での私も、それぞれが私であると言えるのです。
分割不可能な私がいるのではなく、その分身も私だと考えます。
それを分身主義と言います。
西洋では分割不可能な私という個人主義的な傾向があり、日本では分割可能な私と考える傾向があると筆者はいいます。
それは、西洋ではインスタグラムという本人の写真や本名を反映させるプラットホーム人口の比率が高い。
(反映させることで自己同一性を示そうとします)
それに対して、日本はツイッターという本名や写真を伏せることができるプラットホーム人口の比率が高い、という対比にも表れているかもしれません。
(分身の私を出現させます)
では、日本に馴染みの深い分割可能な私をみていきましょう。
落語から見る分割可能な私
「江戸とアバター」ではある落語を紹介していました。
それを現代風に簡単に説明します。
太郎「おや?あそこに倒れているのは花子だ!急いで花子を呼んでこよう。」
太郎は花子を急いで呼びにいきます。
花子「どうしたの?」
太郎「あそこに君が死んでいるんだよ。」
花子「ええっ、私が!?」
太郎「昨日の夜何してた?」
花子「よく覚えてないんだけど、友達と遊んでからあそこの道は通った気がする。」
太郎「覚えてないんだろ?」
花子「覚えてない。私って死んでいたのかな。」
太郎の話を聞くうちに、だんだんと花子は自分が死んだつもりになって、死体を抱きしめます。
花子「抱いている死体は私なんだけど、じゃあ抱いている私は一体だれなんだろう。」
落語では「粗忽長屋(そこつながや)」というそうです。
筆者はこの噺は「バーチャル」と「リアル」を問いかけていて、自分の視点が変わる様子が見られると述べていました。
花子は死体を抱く私も、その死んでいる私も、両方を私だと見なしています。
外国の人にこの落語を話すと、「胡蝶の夢」を連想したそうです。
「胡蝶の夢」とは夢で蝶になっていた自分が目を覚ますと、自分が蝶なのか人間なのかわからなくなる話です。
胡蝶の夢では、この世界が夢であろうがなかろうが、与えられた今を思う存分に楽しむべきだという荘子の思想が説かれています。
私たちは現実の私よりも、ネット上での私の方が自分らしいと感じることがあります。
荘子の思想からは、そのどちらも自分だと認めて楽しめばいいという解釈ができます。
日本の落語には視点が変わる様子の話が多々あるそうです。
西洋では思考実験の話はよくありますが、落語ではその不思議さを味わいます。
筆者は個々に多様性があるという考え方の広がりから、個人主義から分身主義へ現代社会はゆるやかに移行しているのではないかと問題提起しています。
実物に触れる機会が減っているからです。
その問題提起の一方、この分身主義の考え方は社会を生きやすくさせます。
愚行権と絡めて見ていきましょう。
愚行権とは
私たちは日常でも非合理的なことをよく実感することがあります。
例えば、振られてしまったり、何か事故を起こしてしまったりしたとき、私は悲しむべきだと思い込みます。
しかし、その気持ちがずっと続くわけではなく、お腹が空いたり、笑ったりします。
他の人から見れば「愚かで、過ちである」と評価・判断されることを思います。
筆者はこれと関連付けて「愚行権」を説明します。
「愚行権とは、自分ではこれがいい、と判断していることで、生命や身体など、自分の所有に帰するものは、他者への危害を引き起こさない限り対応能力をもつ成人の自己決定に委ねられるべきだ、という考え方だ。」
つまり、他人から見たら愚かなことを、ある程度できる社会の方が生きやすい社会だと言うことです。
「愚行権」はジョン・スチュアート・ミル(1806~1873)によって唱えられました。
ここで筆者が言う愚行権はただ迷惑をかけなければ何をしてもいいという発想ではありません。
そのときに湧きおこった感情を否定するのではなく受け止めるという発想です。
自分の立場や身分を考えたときに、そのときに不謹慎だと思えることをしても罪悪感を感じないのは、分割可能な私です。
そして、それは自分自身を許すだけでなく、他者に対しても寛容になります。
「目に見えるだけがすべてではない、自分の常識だけが絶対なのではない、このひとには私の知らない面がある」
そう思うことは人への配慮と深慮、想像力と知的好奇心を伸ばします。
知覚の束ーまとめ
ヒュームは「人間とは知覚の束である」と考えました。
知覚の束とは、五感による感覚が集まったものです。
知覚が束になった今の瞬間だけが私だと考えて、過去の経験は私に影響をおよぼすだけだと考えます。
私という実体はないのです。
人間の心を扱う哲学から見ると、ヒュームは心の一元論を説きます。
因果関係の法則を否定することによって他の説を否定しました。
ヒュームの心の一元論は、現代哲学にヒントを与える古くて新しい考え方です。
知覚の束をストーリーでも説明しました。
日本文化の落語に見られる視点の入れ替わりという観点から、分割可能な私を見てきました。
分割可能な私は日本には馴染みやすい発想だと言われています。
筆者は個人主義から分身主義へ移行する時代になったのではないかと問題提起します。
そして、分割可能な私を意識することは、生きやすい社会につながります。