「現代に生きる人間の倫理」
第2節「科学・技術と人間」
2.哲学者フランシス・ベーコンと「知は力なり」
>>科学革命とは何か
ヨーロッパの中世思想への批判運動
これらの運動は中世の思想(スコラ哲学など)を批判していきます。
過去の伝統にとらわれない新しい学問の方法を探求した一人が哲学者フランシス・ベーコン。
ここでは、哲学者のフランシス・ベーコン(1561-1626)について話していくよ
文化背景を見ていくと、それは合理的にも感じられる
- ベーコンの「知は力なり」
- ベーコンの思想
フランシス・ベーコン「知は力なり」
フランシス・ベーコン(1561-1626)は、中世のアリストテレス哲学と結びついていたスコラ哲学を批判しました。
スコラ哲学といえば、「哲学は神学のはしため(神学>哲学)」で有名。
死後の世界や宇宙の外側など、人間の理性が到達できない問題は神学として、哲学では扱えないものとしてきました。
つまり、宇宙の問題は神の問題だから人間に扱うことが不可能だ、と。
これにベーコンは批判します。
- アリストテレス哲学の非生産性に嫌悪を感じていた。
(当時は科学と技術を分けていて、技術は奴隷がやるものと蔑ろにされていた) - 人類の支配権は知識の中にある。
- 自然哲学とその研究方法を変えることで、人類に有益な発明や発見をもたらし、人類の福祉を向上できる。
- 中世の人々は「意見においては自然を支配しているが、必要に際しては自然の奴隷(ベーコンp86)」
- 「自然>人間」⇒「自然<人間」の価値転換
ベーコンは中世のスコラ哲学を生活には役立たないと考えたのです。
つまり、「初めに真理ありき」で世界を説明しようとする中世の哲学や神学とは反対に、経験や実験による事前のしくみの理解(自然の征服)から人々の生活を向上させようとしました。
といっても、ベーコンはお肉は冷やすことで腐らないことを証明する実験の途中で肺炎にかかってしまった
「知は力なり」
「知は力なり」の力は、権力や幸せ、生活能力などの意味があります。
知は力なり⇒生活の向上は教義からだけではなく、経験や実験による自然のしくみの理解(自然の征服)から得られると考えた
(哲学用語図鑑p100)
ベーコンは知識の有用性を基礎として、学問を再建しようとしました。
逆に知が力と結びついたものの見方として「〇〇学は(生活に)役立たないからやらない」という解釈もでてきたのかも
ベーコンの思想
ベーコンはアリストテレスが論理学で説いた帰納法を再解釈しました。
帰納法
ベーコンが説いた帰納法⇒個別の事実や経験から一般的な法則を導く方法
帰納法では経験(実験)によりできるだけたくさんのサンプルを集め、一般論を導き出します。
例えば、
- あのウサギはニンジンが好き
- このウサギもニンジンが好き
- そのウサギもニンジンが好き
というサンプルをたくさん集めます。
そして、それゆえに「ウサギはニンジンが好き」という一般論が出てくるのです。
アリストテレスの学問はその方法が抽象的であり、新しい発明や発見に対して全く無効であるとベーコンは考えました。
なので、帰納法によって新しい発見や発明をできるようにしたのです。
学問の正しい姿とは、人間の精神と自然の事物とが密接に交わっている状態をいうのであり、そういう時代は、人間の堕罪以前の原初時代に存在したというのがベーコンの確信であった。
-『大革新』(ベーコンの著作)は、人間と自然とが密接に交わっていた原初の時代の精神に復帰し、学問が新たに出発しなおすことをめざしたものである。(ベーコンp136,137)
例えば、デモクリトスは原子論を説いてる
イドラ
なぜ前の哲学に戻る必要があるのかと考えた時、そこにはイドラがあるとベーコンは考えました。
イドラ⇒思い込みや偏見
新しく唱えた帰納法(経験主義的)でも、イドラがあると正しい知識の修得を妨害すると考えたのです。
- 種族のイドラ⇒人間という種族に共通にそなわった感覚による偏見
(目の錯覚や擬人化など) - 洞窟のイドラ⇒育った環境による、狭い考え方からの偏見
(個人的な体験、家庭環境や読んだ本など) - 市場のイドラ⇒人が集まるところでの聞き違いや伝言ミスによる偏見
(インターネット情報やうわさ話など) - 劇場のイドラ⇒有名人や偉い人の言葉を信じてしまう偏見
(人気番組、偉い人の言葉など)
ベーコンはこれらが正しい知識の修得を妨害すると主張しました。
ベーコンの時代背景
ルネサンスから科学革命までの間にあたるベーコンの時代。
この時代の特徴を「動物裁判」から抜粋します。
動物裁判は、動物に人間の法を適用する。
これを平気で実践しみまもることのできる感受性は、‐その時代固有の感受性以外のものではありえないであろう。
それ以前の、動物や自然の霊力を真剣に畏怖していた時代には、それはだれにもうけいれられないだろう。
また、それ以後の、風景を自然社会の論理から解きはなち、風景をそれにむかいあう個人が風景のためにのみ愛好・描写する時代、そして科学的客観性で自然をみて解釈しつくそうという時代にも、それは存続しえないのである。
(動物裁判p178)
つまり、時代による自然観の大きな転換があった時期だと考えることができます。
「未来の時代のために、より純粋な真理の種子をまき、その大事業を開始するという役割をはたすことができるならば、わたくしは満足する」
(ベーコンp177 ベーコンの言葉より)
でも、私生活は愛に恵まれなかったとも