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「無知の知」が間違いで「不知の自覚」とする理由。

おはようございます。けうです。

 

最近、哲学ブログをがんばっています。

昔のリライト記事を毎日投稿しています。

リライトしていて昔の自分はこんなところの考えが浅い。

こんなところと変に結び付けをしていて、読者が混乱するような個所がたくさんある。

そんなことを発見しつつリライトすると、時間がかかるし、書き終わった後は頭を使った!という感じがします。

 

今日はソクラテスの「無知の知」を井出治明さんがどうして「不知の自覚」にしたのか、詳しく言葉で語ろうと思います。

「無知の知」と「不知の自覚」の違い

昨日の夜中のツイートでこのように私は言いました。

「知には段階があるとする。

まずは情報として得る。

そこから知識になる。

知識からわかった!になるのかな、と。
知識になるには情報を得なければ、それは知識じゃなくて情報のまま。
一段階目を通るから、客観から主観的になって次の段階に行き、知の主体になるのかな、と考える。

情報⇨知識⇨わかった。」

というツイートです。

これは昨日UPしたソクラテスの「無知の知」から考えたツイートです。

では解説していきます。

 

ソクラテスの「無知の知」というのは私が知らないことを知っているという意味です。

ニュアンスの受け取り方としては、一見これであっていると感じてしまいます。

ただし、解釈していくとこの訳し方だと矛盾が生じてしまうんです。

 

無知というのは知らない事ですよね。

そして、それを知ることを無知の知という。

つまり、この時点で知ってしまっていることを表しているんですよ。

あなたは無知の知を知っているとどうしていえるのか?

というようにまた問うことができるんですよね。

ここにその言葉の矛盾が生じてしまう。

 

だから、まずは「無知の知」の知の部分を自覚、とします。

「無知の知」の知は自覚。

自覚とすると、自分から自然と湧き上がってきて思い出すというニュアンスなんですよね。

この時点で、知っているとは言っていない。

実際に物語でも、ソクラテスはアポロン神殿の女神に「汝自身を知れ」というようなことを聞いて自分自身で自覚するんです。

知っていると思っていたことは知らない事だったのだと自覚するんですよね。

 

そして、この自覚という言葉を使う時に私は思い出すという言葉を今、使いました。

自覚するというのは、その何かが私の中にあったということ。

元からあったんだけど、それを自覚したんですよね。

だからまったく知らない事でないんです。

無知という知らない事ではなくて、ちょっと記憶の奥にはあった事柄なんです。

だから、そのちょっと記憶の奥にあったことを引っ張り出してそれを自覚した。

なので、無知と訳するのも違ってくるんです。

ちょっと知っていたと思い込んでいたことなので。

だから無知という部分を、不知にします。

「無知の知」の無知の部分は不知

知識がなかったのではなくて、知に至っていない事、明確に自分のものとしていなかったものにたいして、不知にしたんです。

なかったわけではない。

 

例えば、私はよく情報と知識を分けます。

情報というのはこの客観的に書き表されたことです。

みんながみんなその文字を読める状態。

言葉にだして言う言葉や、ただのインクの染みとしてある言葉。

それが情報なんです。

そのまま読んで、といわれてみんながそのまま読むであろう事柄が情報。

 

その情報が自分の中で知識になると、自分独自で説明ができるようになります。

説明できるようになると、その情報は客観性をはなれて主観的なものになります。

なので、情報から知識に移ったと、私はみなします。

 

この情報の部分。

これを知識になっていなかった事柄とすれば、これが当人にあった状態を不知の状態とします。

このことを自覚させられることを「不知の自覚」。

 

元から自分にあった情報を、それが自分のものになっていなかったことを自覚するんです。

ただ目にしただけの状態だった、と。

 

そして、そのように「不知の自覚」を捉えるのなら、一番初めの状態というのを何か情報を得ている状態が一番初めにすでにあるという状態を示します。

つまり、何か目にしたり、情報がある。

ショーペンハウアーでいうなら材料を持ち歩く、ということかもしれない。

目でみたり、本を見たり、そのようにした材料が私の中にある。

この状態を私は気がつく。

そして、それが材料であることを自覚して、自分の中で話せる状態にまで押し上げる。

それを知識にすることを促すのが自覚。

ただ知れ!とは言っていない。

これだと他人が私を促すかたちになるんです。

ということは、促されているときに私はもしかしたら初めの第一情報とか、第一の材料とかを得ていないかもしれない。

知れといわれたときに情報として入ってくる。

その場合に自覚にならない。

 

だから、何も情報なり材料を持ちあるいているだけの状態だと自覚をすることが「不知の自覚」なんですよね。

 

そうやって解釈したときに、「無知の知」というその言葉自体を私はもしかしたら、情報としてただ持ち歩いていたのかもしれない、と思いました。

そして、それはまだ続きます。

私はそのことを知識にした。

ただ、もっと他の解釈があるかもしれない。

知識になったと思った時点で、私はそれを客観的に言葉にして言えるかもしれない。

こうなったときに、またそれは情報になるんですよね。

私が実感を伴わなくなっているかもしれない。

私は忘れていて、その知識はまた情報にあるかもしれない。

そして、その知識が情報になったものがまた自覚されてさらなる知識になるのかもしれない。

「不知の自覚」がずっと続く状態。

「無知の知」と「不知の自覚」まとめ

哲学に真理なんてない、という言葉は有名なんですけど、この知識が本物になったり、わかったものとなるのはまだいまだ来てはいないんですよね。

客観的に書き記されることで、またそれは情報になるから。

それを知識にできるのは、自分だけだからなんですよね。

だから、「不知の自覚」ができるのもおのずと浮かんでくる自分だけになる。

 

ソクラテスは思想を文字にして残すことを嫌いました。

でも、私は情報として客観的に残しておけるならば、それは他の人にとっての材料や情報になる可能性もあるから、残しておきたいな、と思いました。

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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