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病気の発生と自己

病気の発生と自己

 

精神病が取りざたされることもある現代。

統合失調症の中で自閉症が言われだしたのは1950年代ごろになります。

この病気の診断の発生を調べた経緯として、病気とナチスの政策が一致していたのではないか、という言葉を聞いたからです。

病気とナチスの優生学

病気の基準だと、おそらく、本人が困るからですよね。

足を骨折して歩けないから病院に通うとか、風邪で体が動かないから休むとか。

でも、精神病というのは外的なダメージではなくて、しかも本人が自覚していなくてもつけられることがあります。

その場合、なぜそれがつけられるのかというと、社会が困るから。

 

現にアスペルガー医師がアスペルガーという病状を発表したとき、自閉症な子と自閉症ではない子というレッテル貼りがされたそうです。

そして、社会的に適合できない子を施設にいれて殺害してしまっていたという事実もあるそうです。

 

このナチスの優生学に基づいた考え方は、今でも残っています。

健康な体であるべきだ、とか、危険な人物を隔離する、だとか。

 

そう考えたときに、病気の基準はなんだろうと思いました。

本人ではなく、周りが決める時ですね。

それは周りの人が心をいためたり、苦労をしたりする場合に名づけられます。

 

では、その周りという基準はなんだろうと思いました。

「私」を認識する私でないもの

例えば、自己を認識するとき。

赤ちゃんの頃に鏡をみることで自己認識をします。

これが自分だ、と。

一歳頃にここで「私」をつくり上げます。

では、その私と自分を認識する「私」はなんなのか、ということが問題になります。

私はそこで出来上がったのだから、私でないものが私と名づけているのだ、と。

 

この私でない物だけど、一番初めに私と名づける認識。

それが哲学で言われるような「空白の自己」とか「無人島の自己」だとか言われます。

無人島には誰もいませんよね。

でも、無人島に自己がいる。

そして、その自己は誰にも人扱いもされません。

ただそこにいる。

 

そう考えたときに、ある漫画を思い出しました。

Webで配信されていた漫画なんですけど。

 

ある男の子が顔に傷をおって、そのせいで友だちができませんでした。

周りの人といても孤独で、周りの人がいるから余計に孤独だったと言います。

その男の子は宇宙に憧れを抱いていて、宇宙飛行士になれました。

そんな中、月で一人の擬人化された宇宙人に出会います。

擬人化というのは、見た目がほぼ人間だったんです。

 

その宇宙人は一人ぼっちだから、男の子に友達になって欲しいといいます。

そして、2人は友だちになって、いろんな話をするんです。

そんな中、男の子は孤独だったことを言うんですが、宇宙人の方がさらに孤独だったというんです。

自分がわかっているけれど、話す相手がいない。

自分を認識しているという時点で私と私でないものが出来上がっているけれど、その他の人物がいない。

そのことがもっと孤独だったと言うんです。

 

大勢の中で孤独だと感じるのか、まったく人がいなくて孤独だと感じるのか。

私はなんとなく、宇宙人の方が孤独だったのではないかと感じました。

 

初めに何かしらの自己がいて「私」を認識する。

生得的に他者を求めている。

もしくは、他者としての「私」を認識するようになっている。

「自己」認識の発生の実験

興味深い実感があって、あるチンパンジーを他者がいないところで生育すると鏡の自分を自分だとは思わなくなるそうです。

他の実験もあって、チンパンジーを他者が見えるけれど、触れない状況でそだてても鏡の自分を自分だと思わなくなるようです。

他者がいるから自己を認識している。

なので、宇宙人も何かしらの他者が初めに存在していたから自分と他という区分けができたのだと考えられます。

 

では、それが生得的なのか、そうではないのか、といった話でさらに興味深い話があります。

遺伝子にもう他者が組み込まれているのではないか、という話です。

私たちは遺伝子を受け継いでいます。

その遺伝子に他者情報とか、母親の情報だとかが組み込まれていて、その他者認識があるのではないか、という話です。

 

こうなってくると、遺伝子以前はどうなのか、ということを問うことができなので、遺伝子からみた場合には私でない物が初めにあることになります。

病気が困るというのは「私」でないもの

病気からずれましたけれど、病気も他者が困るから病気だと定義される場合を考えます。

この場合自分が自分の所有している体が機能しなくて困るから病気と自分で診断することができている状態。

そして、それを他者とすればわかりやすいんですけど、自分の中の自分を客観視する自分を他者だとすると、その病気で困るのはまたその他者ということになるのかな、ということを考えていました。

 

自分が困る、自分が孤独だと感じる、こういうのは元々人間の認識が「私」でないものから始まっているからなんですよね。

 

それでも、その病気に対処しようとか、病気を治そうとするとき、自分がでてきます。

他者に困るから病院に入って、といわれるより、そこは自分で判断して自分が困るから病院に入るといった方が自然ですよね。

 

そして、私は自分の感覚に鈍感なところがあって、その場合、自分の中の他者なのか、自分の中の「私」という感覚が薄くなってしまうということですね。

そうした場合、感覚に気がつけないと病気をこじらせてしまう可能性もあるということ。

そして、その病気というのはこじらせると社会性にひびくことが考えられます。

身体が動かなくなる、とかですね。

そして、そういう医療の一つとして話すことで解決する場合もあると聞きます。

この場合の話すというのは、他者と自分との比較をして、自分の中の「私」をしっかりと認識する効果があるのではないかと思いました。

人は他人との比較で自分を感じますよね。

意識はトラウマという話もしていますが、意識を持つということは社会性を帯びることになるのかな、とも思いました。

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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