おはようございます。けうです。
夏目漱石の「私の個人主義」を読んでいます。
「文芸と道徳」の講義を読んで思ったことを述べていこうと思います。
道徳とはどういうものか、文芸とはどういうものか、そしてその二つの関係とは?
ということを題に語っています。
結論としては、文芸は今の道徳を伝えるものだ、ということを私は読み取りました。
まず漱石は道徳に関して、昔と今と違うということを話しだします。
道徳の今と昔
漱石は言います。
昔は移動手段も限られていたから、ある人物を見るのも伝え聞いた通りにみていた。
道徳も教えられたとおりに解釈していたし、昔はこれ!といった道徳があった、と。
「-その昔の道徳はどんなものであるかというと、貴方々もご承知の通り、一口に申しますと、完全な一種の理想的の形をこしらえて、その型を標準としてその型は吾人が努力の結果実現のできるモノとして出立したものであります」
つまり、完璧な道徳があって、みんながこの通りにできるのだとみんな思い込んでいた。
なので、昔はこの規則から破れば切腹しなければいけないという現実があった。
今のような科学的な観察がなかったので、
「つまり、人間はどう教育したって不完全なものであるということに気がつかなかった。」
なので、完璧なものから外れれば切腹と言うことすらしていた、と。
けれど、今の世の中になると、みんなは科学的な見方を身につけます。
例えます。
漱石が例で言うには、文壇上でおならをしました。
もし科学的な見方をする人はそのギャップに笑ってしまうだろうし、道徳的な見方をする人はそのことに腹を立てるかもしれない、と。
そして、これはただ同じ行為に対する見方が違うからだと述べます。
昔の道徳観で見れば怒るだろうし、今の道徳で言えば笑うのだ、と。
芸術を視点から見る
人はいろいろな見方を身につけている。
昔の道徳という規範という見方もあれば、人間として仕方がないよ、という見方もする、と。
では、こうなってくると芸術というのは何か?という話を漱石は説きます。
みんなが違った見方をしてきているけれど、「文芸と道徳」というように、文芸と道徳は切り離せないものではあると思う。
でも、人の見方は多様になった。
そこに、文芸から道徳を説いたとしても人は道徳を見てくれなくなっている、と。
どのような見方をされるのか、多様な視点がもたれるようになった、と。
つまり、私が道徳を書いたと意識した文芸は、昔の道徳を持ち出したと同じようなことになり、それは絵に描いたもののごとく価値を失ってしまうということ。
これは道徳です、といって昔のように提示させられると、人は不信感と共にその文芸をみるようになる、ということを漱石は物語ります。
つまり、昔のように模範とした道徳を打ち出す文芸の時代は変わっていって、これからは意識しないところに今の道徳を文芸で感じさせる時代ではないか、と。
けれど今の道徳を人に意識させるものは、昔の道徳を持ち出せない、と語ります。
社会が道徳を変える
社会が道徳に関する価値観を変えている。
ならば、文芸もそれに伴って、社会を映し出して人に道徳を感じさせなければいけないと漱石はいいます。
昔の道徳などは、著名なものがありますよね。
「礼」などをたくさん綴ったものや、黄金律のような規則があります。
その規則は規則として、知識として知るのはありなのですが、今の私たちの道徳観からすればまた違うものだという事。
時代と共に、時代の道徳というものを映し出すのが芸術というものではないか、と漱石は言っているのだと私は読み取りました。
芸術ではなない例
例えば、漱石はこのような例をだしました。
ある知人が歌の発表会に出て歌を披露しました。
漱石は、なんてひどい歌なんだと思ったそうです。
これは芸術ではない、と。
その後に知人は言いました。
とても緊張した!と。
「-何とか負惜しみでも言いたいくらいの所へ持って来て、人の気が付きもしないのに自分の口から足がガクガクしたと自白する。」
この場合は芸術で描かなければいけない道徳があらわれていないと、漱石は批判します。
芸術なのに、見方が個人の気持ちや価値観だけを意識させるものになってしまった、と。
でも、芸術はただその見方だけをしていて伝わるものではない、ということです。
世間の道徳はもちろん変わってきている。
ただ各人の視点にその道徳が映るのをまかせるのではなくて、芸術というのは自然にその今の道徳を感じさせるものなのではないか、と漱石は伝えているのです。
なので、この人は芸術品を発表してはいなかったと心持ちから見えるという批判でもあると思われました。
終わった後に芸術を語るのではなく、心持ちをかたっているからです。
芸術に関しては知人は思うところがない、と。
文芸が伝えようとする道徳
人は科学的になっていろいろな視点を身につけた。
でも、芸術は今の道徳を伝えようとする。
その場合は昔ながらの模範的な道徳というのは受け入れられていないし、違った見方がされてしまう。
これは道徳、と見られていない。
それならば、今の道徳に照らし合わせたようなものを感じさせるのが芸術というものなのではないか、と。
漱石が言う言葉から、文芸というのは時代によって移り変わっていくもの。
移り変わっていくから、その時点時点の道徳を描きださなければいけないもの。
ということは、昔の道徳を意識しながら書くとその作品には昔の道徳しか描かれない。
昔の道徳しか描かれないとなれば、今の道徳を描いていないとして、そこに今の道徳の価値はないということ。
これらを読み取れます。
完璧な小説や、完璧な道徳や芸術というものがあれば、それはそれだけ読めばいいのではないか、という考えの批判だろうと私は読み取りました。
古文は善いもので、私たちに昔の感性、かつ今の私ならどう感じるのかということも与えてくれます。
でも、今には今の道徳があって、それを伝えられる作品はまた芸術の域に達するのだろうなと感じました。
なので、昔の作品だけではなく、今の作品にも価値がでてくるのだな、と。
今年の芥川賞はこれ!
今年の〇〇賞はこれ!
と出たりしますが、それに今の道徳の価値が入っているという事。
そして、今も描きだすためにはいつも摸索しなければいけないし、意識してはいけないのだ、と。
意識することで、それは昔の道徳になってしまうのだなと思います。
無意識に道徳を伝えようとしている。
それは「利他」をまた思い起こされます。
>>利他とは何か。
意識しないところに利他があるのと同じく、意識しないところに今の道徳が描きだされているのだな、と私は思いました。
では、お聞きいただいてありがとうございました。