「現代に生きる人間の倫理」
第4節「社会と個人」
2.ベンサムと「最大多数の最大幸福」
>>1.アダム=スミスと「見えざる手」
社会契約の系譜の哲学者たちは、カントのように悪人でもたがいに正義を尊重できるような社会の仕組みを考えるが、ヒュームやスミスの市民社会論の系譜の哲学者たちは、市民社会の仕組みのうちに、人々を善き者とするメカニズムがそなわっていると考える。社会そのものが、人間に正義の価値を教えるのである。
「正義論の名著」p116
法律が主として意を用いるところのことは安全ということである(と、ベンサムは考える)。‐安全は社会生活にとって、そして適度の幸福にとって一つの必要条件である。それに対して平等は、ベンサムの考えによれば、むしろ一種のぜいたく品であって、立法行為によって平等を促進させるのはそれが安全をさまたげないかぎりにおいてである。自由ということについていえば、それは法律の主要な目的ではない。それは安全の一分枝であり、しかも法律が刈り込みをせざるをえない分枝である。いいかえれば、個人の自由は法律によってある程度制限される。
「ベンサム」p124
- ベンサムと「最大多数の最大幸福」
- ベンサムと現代社会への影響
参考文献 「ベンサム」(山田英世)、「正義論の名著」(中山元)
ベンサムと「最大多数の最大幸福」
ベンサム(1748-1832)は産業革命の真っただ中に生きていました。
アダム=スミスの時代背景と同じく、イギリスの光(民主化、経済発展)と闇(格差と貧困、植民地問題)の両面をみていたのです。
ベンサムはブルジョアジー(特権階級と無産階級の間である市民階級)の立場でした。
快楽は善、不快は悪
ベンサムはヒュームに影響を受け、快楽は善、苦痛は悪だと考えました。
- 功利性⇒幸福をもたらす性質のこと
- 功利性の原理⇒最大多数の最大幸福の原理
「個人の快楽を増大させることができるすべての行為を是認し、これを削減するすべての行為を否認すること」
ベンサムは個人の快、その個人がつくりあげる社会の快、が多くなることが道徳的に善だと考えたのです。
自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。
われわれが何をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするであろうことを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。
「正義論の名著p137」
ベンサムは「快楽は善、苦痛は悪」という一元的な明確な原理をうちたてました。
「人間が理性的存在である以前に行為的存在であること、人間は先天的衝動および後天的衝動を持つ生物である」(ベンサムp97)と考えます。
行為の原因のかわりに理由を持ってくるのは誤りだと考えるのです。
ホッブズも人間をどんぐりの背比べ的な存在とみていたよね
快苦の制裁4つ
快楽と苦痛の制裁には4つのものがあるとベンサムは考えます。
4つの制裁を人々が想像することによって、みずからの行動を律すると考えたのです。
快楽と苦痛の制裁4つ
- 物理的源泉
例:身体的な苦痛や、何かにみとれる快楽 - 政治的源泉
例:国家権力(法)に罰せられたり、勲章をもらったりする - 道徳的源泉
例:村八分になったり、厚意を受けたりする - 宗教的源泉
例:天国や地獄を想定したり、バチや幸運を想定したりする
ベンサムは道徳心よりも、各人が行為の前に快楽計算を行って、快楽が差し引きでプラスとなるように行動するという計算高い心を重視していたのである。
「正義論の名著p140」
人は賢いから自分の快楽と苦痛を想定して行動する
立法者は、個々の事例について判断するのではなく、ある法律を施行することで、社会の幸福が増大するかどうかだけを判断する。その判断の重要な基準となるのが、快楽計算である。
「正義論の名著」p141
快楽計算と最大多数の最大幸福
ベンサムは快楽計算によって、快楽と苦痛の数量化を試みます。
快楽計算7つの基準
- 強度
- 持続性
- 確実性
- 遠近性(快楽が早く獲得できるか、時間が必要か)
- 多産性(快楽がさらに快楽を生んだり、苦痛がさらに苦痛をうむことの程度)
- 純粋性
- 範囲(人々の数。個人は等しく1人と数えられ、誰もそれ以上には数えられない)
ベンサムはこれらをただ眼中にとどめて、快楽計算をするのがよいと考えます。
ただかれの方法の重要な特徴は、快楽の苦痛の質の差には目もくれずに、徹底的にそれらを量に還元して、計算可能なものとして理解しようとした点である。倫理学や政治学を厳密な科学にまでしたてあげるには、それらを快苦の量の計算を基礎とする学問にしなければならないとベンサムは考えたのである。
「ベンサム」p103
ベンサムと現代社会への影響
ベンサムは、行為の原因は事実そのものではなくて、事実の期待「おそらくそうなるであろうというみつもり」だと考えました。
行為をする前に、「快の観念」が現実の動機になると考えます。
例えば、先ほどの4つの制裁(サンクション)を基準に快苦を想定して行動するのです。
(パノプティコンに)収容されている人びとは、いつも監視されているという可能性を認識し、見られていても構わない主体へとみずからを構築する。
「みずから権力による強制に責任をもち、自発的にその強制を自分自身に働かせる。
しかもそこでは自分が同時に二役を演じる権力的な関係を自分に組み込んで、自分がみずからの服従強制の本源となる」(フーコー『監獄の誕生』)
「正義論の名著」p143
そして、そのようになるには人々が賢い(知識や判断力を持つ)ということが前提です。
ベンサムは人々(特に貧困者)が善良な王国の市民になる3つの改善点を述べました。
- 善い生活習慣と、はたらく意欲をもつ個人の性格の形成
- 健康促進方法や、生計の手段を教えること
- 読み書きそろばんの知的訓練をほどこすこと
刑罰は制裁にもなるし、実質的な社会的幸福度を増す効果も考えられていた
「最大多数の最大幸福」というスローガン
ベンサムの理論は快楽を善、苦痛を悪ということを前提とした理論です。
彼は行為の正しさとか善さというものが、人間の幸福に奉仕するものであることをとことん主張しました。
そしてそれは、産業革命の最中にあってスローガンとなったのです。
かれら(産業資本家たち)にとって、利潤の追求に成功することは快楽であり、財産の損失は苦痛であった。
ビジネス上の損得は貨幣の額の計算によって行われた。
それゆえ、かれらにおいては、快楽(幸福)も苦痛(不幸)も貨幣の計算の結果と一致した。
そこからむしろ、快苦もまた計算できるものと考えられたのである。
かれらのスローガンは、「自由に取引をさせよ」「救貧法を撤廃せよ(後に新救貧法になり、自由競争的資本主義が飛躍的に発展した)」「選挙法を改正せよ」などであった。
そしてベンサムの「最大多数の最大幸福」は、これらの全部を象徴的にまとめて表現する哲学的スローガンであったのである。
「ベンサム」p110
社会契約説における「自由・平等・平和」をベンサムも目標に掲げたのですが、法律の目的は最大多数の最大幸福。
ベンサムにおいては、法律の目的はまず各種の権利、とくに財産権の安全を保証し、それをもとにして各人の幸福、したがってまた社会全体の幸福を増進することにあった。
この財産権の安全という至上命令の前には、平等も道をゆずらなければならなかったし、自由の枝すら刈り込まなければならなかった。
「ベンサム」p125
ベンサムへの批判
ベンサムは快楽や苦痛をたんに量的に計算することができるものだと考えました。
これを量的功利主義といいます。
量的功利主義⇒快楽計算によって量で「最大多数の最大幸福」を導くこと
これに批判したのが、徹底的なベンサム主義の教育を受けて育ったミル(1806-1873)です。
ミルは20歳頃まではベンサム主義だったのですが、突然ベンサムに疑問を感じるようになりました。
これは平等思想にもなるけど、人間批判にもなる
ベンサムの理論は、かれの人道主義的な改革の意図にもかかわらず、人間を無味乾燥の事実の世界におとしいれ、非人間化の道へとつきすすんでしまったように思われる。それは結局、かれの「功利の原理」が冷酷無常な「資本の論理」そのものにほかならなかったからである。
「ベンサム」p141