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おはようございます。けうです。

 

「はじめてのウィトゲンシュタイン」を読み終えました。

アスペクトの閃き

その中で今日は「アスペクトの閃き」について話したいとおもいます。

ウィトゲンシュタインは語ります。

「私が変化しない二つの顔をじっと眺めているとする。突然、両者の類似性が閃く。こうした経験をアスペクトの閃きと私は呼ぶ。」

アスペクトの閃きというのを他の言葉でいうならば、アハ体験です。

急に閃いた!

と思う時がありますよね。

そのとき何が起こっているのかをウィトゲンシュタインは述べているんです。

 

閃きはわかりますが、「アスペクト」自体はどんな意味かと言うと、これは物事の相貌とか側面といったものを指します。

なので、物事のアスペクトが転換するとは、私たちがその物事をいる見方が転換するということなんです。

たとえば、ウサギの絵を見ていると思ったのに、これがアヒルだと気がつくともうそれからアヒルであるという見方からなかなか抜け出せなくなったりすることです。

 

私たちは閃いた!と喜ぶだけでそれを信じて疑わなかったりもしますが、それも間違っていることってありますよね。

だから、それを文字であらわすと何がおきているのか、ということを問うています。

また引用します。

「同じだーそして、にもかかわらず同じではない」

 

このことが別の側面からものごとを見ていることなんです。

文字にすると同じようなものがでてきます。

でも、体感としては同じではないんです。

アスペクトの閃きを哲学によって明確にする

ではこのようなアスペクトの閃きとは私たちの感覚で言うならば何か。

ウィトゲンシュタインにとってこの閃きが謎なのは、「アスペクト」やその「閃き」が視覚や思考といった心的な概念と複雑にからみあってしまうといいます。

そして、哲学者が取り組むべき仕事としては、心的な概念に限らず複雑に絡み合う諸概念をそのように丁寧に整理していくことだと述べているようです。

 

このアスペクトや閃きというのはどこか知的な要素を含み、考えることや解釈することとも共通点を持つように思う、とありました。

ウィトゲンシュタイン自体もこの区分けがしっかりとできていない、と。

アスペクトの閃きと思考感情

私は昨日、思考感情という言葉を使ってみたんですけど、その思考感情中には自分の中になにか考えたい問いをもっている状態です。

私はそういうときでないと、アスペクトの閃きはできないのではないかと思いました。

 

類似性を発見するにはその類似性と比較する者が頭にないとおこらない。

アスペクトが起こらない状態

急にアスペクトの閃きができるのか、できないのか、という話に切り替わっていますけど、ウィトゲンシュタインはアスペクトが起こらない人というのはどのような状態にあるのか、という問いも立てています。

 

出来ないことを考えるのは、出来ることの更なる要素を引き出します。

 

なので、私は昨日の思考感情があって、私が一つの見方に捉われている何かを持ち合わせているから、それが急に「アスペクトの閃き」のように急の見方を変えるのではないかと思いました。

 

この閃きとかは他にも何も考えていないときに起こりますよね。

お風呂だったり、走っていたり。

でも急にやってくるとき、それは考えていたんじゃないかと思われる。

アスペクトの閃きと想起

私は感情と捉えたんですけど、でも、普通に楽しい感情を考えてみます。

私は急に笑い出しました。

思い出し笑いってありますよね。

何か覚えていて、それが楽しい状態にある。

急に襲ってくる。

でも、今私はそれを意図したわけではないのに、なぜ笑いがやってきたのか。

ちょっとでも関連した何かがあったのだろうか。

ここから記憶をたどってみると、私はその楽しい状態にずっといたのではないか、というように思われる。

だから楽しんでいたんだと気がつく。

でも、この楽しんでいたというただの想起は、物事の類似性から起こったのではない。

 

そして、他のアハ体験に似たものを脳科学の本から取り出すと、忘れているものを思い出そうとしているとき、そして思い出した!となったときにアハ体験と同じような脳の状態がつくり出されると言います。

同じくドーパミンが放出している、と。

 

では、その思い出しと「アスペクトの閃き」はどのような点で違うかと言うと、類似性を発見していない、それは創造しているわけではないんです。

 

 

じゃあ、思考だとしたら何がその感情の現れになるか。

私はその思考を持っている状態だと判断するとき、ふいにやってくるその閃きがその問いと繋がりあう。

そうしたときに、私はまだその問いを考えていたんだ、ということに気がつく。

そして、それは閃きじゃなくても、不意にその考えが私を考えさせた。

では、その考えさせたという体験があるから、私はまだ考えていたんだ、とわかる。

 

このアスペクトの閃きは、問いを変化させることもある。

問いを変化させるけれど、私は同じ考えのカテゴリーならカテゴリーで形作ったままか、問いそのものを変化させてしまうこともある。

 

 

このアスペクトの閃きが起こるには、何かしらの見方を必要とする。

一定の囚われている見方。

その見方を客観視して、多方面から見ることが出来る。

じゃあ何かを思い出したときそれ「アスペクトの閃き」か只の想起との違いは何かと言えば、見方が切り替わっているかいないか。

 

感情を知性によせてみる

例えば、経験は経験としてしか思い出さない。

悲しいという確定された要素は悲しい要素の感情として私に継続してある。

でも、感情はいつか消える。

気がつかないうちに消える。

それでも、ずっと悲しと思っていることはまれで、いつか見方が切り替わっている。

悲しい事実に新しい側面を知った時にそれは嬉しい事実に切り替わるかもしれない。

そんなときは驚きと共に見方が変わるから、自分の中でアスペクトの閃きが起こるかもしれない。

例えば、誕生日祝ってもらえなかった、と落ち込んで家に帰ってみると、サプライズパーティーが待っていた。

悲しみの持続から驚きがあり、その悲しみは喜びに換わっていく。

ここには感情の切り替わりが起きている。

悲しみの中に喜びを見出す。悲しみと喜びの類似性とは言えないだろうか。

昨日述べた、感情は理由とともにある。

理由づけできるからその感情だ。

とうことは、感情は解釈でもある。

知的要素でもあり、見方を変えることができるものでもあり、多面性をもつことができるものでもある。となれば、さらに知的と感情との区別は曖昧になる。

ずっと悲しい感情があったから、自分の中での解釈の違いが明確になる。

アスペクトの閃きが起こる時、自分の中の固定観念に気がついて、さらに見方を加える。

 

またアスペクトの閃きに関して、思考と関連させて考えたいなと思いました。

今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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