感情の「モル的」と「分子的」について。
おはようございます。けうです。
「<責任>の生成」を読んでいます。
この本はASDという自閉スペクトラム症の人の研究や感じ方などが描かれています。
ASDを哲学的に考える
私も自分のことをASD傾向があるとは思っていて、最近、人とようやく自分のことについて話せるようになって、違いに気がついています。
自分で、自分のことをASDなのではないかと疑って、それについて2年くらい前からブログを書き出しました。
一般的な医療の本や、ASDの人はこんな傾向にあるという本を読んで、一般的なことについては覚えた感じです。
でも、肝心なそもそものASDとは、というようなことについてはまだ調べ途中でした。
その細かい内容がこの「責任の生成」には書かれていて、なるほど!と思う点がたくさんあります。
これはASDの人だけでなく、一般の人にも当てはまる概念なのですが、本では「モル的」と「分子的」ということを紹介していました。
哲学者ドゥルーズが説いた概念のようです。
彼もその発達障害の傾向があったといいます。
「モル的」「分子的」とは。
複数の異質な要素がバラバラなままの状態を「分子的」。
その異質でバラバラな分子をまとめ上げることで現れる状態を「モル的」と言います。
どういうことかを感情から説明します。
例えば、「モル的」にものを見られる人は、自分の感情についてわかります。
これは恋だ!とか、これは悲しい!とか、これは怒っている!だとか、そのように自分の感情がわかります。
これは「分子的」になるとどうなるか。
私は恋しているのか、私は悲しんでいるのか、私は怒っているのか、といったように感情をその度ごとに推論します。
私は今まで、他の人も感情については自分の感情がわからない時間があるのだろうという前提がありました。
でも、私は夫とケンカをしたときに、好きかどうか、ということを聞かれたことがあるんですよ。
そのときに、素直に普通の人は好きといえるらしいんですが、私はそこで好きについて考えてしまいました。
今のこの状態の私は好きがあるのか、と。
好きが私の中でとどまり続けている状態にあるのか、考え出すんです。
こんなときは、通常の人でも、自分の感情について考えることがあると思います。
そして、考えてからその感情を言うと、それは言葉によって作り出した屁理屈だ、というようなケンカになっていました。
こうなってくると、私の言葉はいつも信頼感を失っていました。
私は感情に対して、いつも考えてから発言していたからです。
だから、言い訳を考え出していて、相手にあったように理屈をこねるんだろう、と。
だから、私は言い訳が得意なのだ、と。
そのようなケンカをするようになって、私は自分がうそつきで、言い訳ばかり考えている人なんだろうな、と思ってきていました。
だから、話し合いとか、討論とかは好きだったのに、出来なくなってしまったんですよ。
私の言葉はうそなのだから、と。
でも、この「分子的」と「モル的」という概念が、私の思いを救ってくれる一つになると思いました。
ASDを「分子的」と「モル的」で分析する
私は感情が「分子的」にたくさんある状態にある。
気持ちがちょっと悪い状態、心地が良い状態、ドキドキしている状態、このような情報が分子的に細かくたくさんある状態をまとめあげようとする。
そして、結論として私は好きがあるのだろうという結論を出す。
そうしたときに、「モル的」に判断ができているのだということ。
時間はもちろんかかります。
でも、私の言葉はうそではないということ。
そして、脳科学を扱っていて、右脳と左脳を扱った話。
その話で左脳は自分が今意識出来ているインプット情報を使ってしか、言語をまとめあげることができない、ということを言っていました。
まさしくこの解釈も私にあっているなと思っていたんです。
例えば、右脳でグラビアを見て笑っていたとしても、左脳にその情報が伝わっていないと正しい推論ができない。
この状態を私はいつも感じていると言うこと。
すべての情報を取りこぼしていないか確認する。
確認してから、左脳によって感情なら感情を伝えます。
私の感覚としては、なぜ笑っていたのかに関して、きちんと正しい理由がインプットされているのか、探している感覚です。
だから、私の感情理解はいつも遅れてやってくる。
まとめ上げている間があるからです。
そして、そのことに関して違和感をもっていたし、実際にすぐに感情を表すことができないでいたから、私には感情がないのではないかと思っていた。
その考えてまとめあげた後にでてきた感情は、でっちあげだとか、屁理屈だとか、そういったものとして捉えられてしまうのではないかと恐れていたから。
普通の人は考えることなく喜びを出せる印象が私にはあります。
子どもが迷子になって見つかったとしたら、その場でその子を嬉しさと共に抱きしめられるように。
実際、私はこどもが迷子になって見つかったときに、感情で行動ができなかった。
ほっとはしたけれど、それを考えずに抱きしめたり、喜んだりと言うことができなかったんですよね。
感情が弱いというか、すぐに行動できないし、自分の感情がわかったところで、それを意識して表そうとすると、違和感が生じてしまう。
素直に一般的な感情を爆発させるような行動がとれない、ということです。
「モル的」な人が「分子的」な人になる例
例えば、社会で「モル的」な人も「分子的」な自分をだせるという例があります。
あなたが怒ったとして、5秒待ちましょう。
なんて自己啓発本で言われますよね。
その間に落ち着くから、と。
すぐに感情をださないと決めておくと、トレーニングすればそれができます。
それと同じように、喜びに対して5秒待ってくださいと言われるようなもの。
喜び自体はあるんですけど、怒りと同じように薄れますよね。
その状態が「分子的」な状態です。
自分の「分子的」パターンを分析と議論が必要な理由
私は最近まで、自分の感情がかなり薄いんだと思い込んでいました。
でも、「分子的」にたくさん私にその感覚があったとしたら、決して薄いわけではないと理解ができます。
最近、自分の感情をはかる根拠に、自分がうるっとくるかどうか、という自分の感覚を当てにしていることがあります。
悲しい時はこういう生態的な反応がでている、と。
そこから分析して私はそのことについて深く思っているだとか、その感情があるということを認識しやすくなっている。
自己パターンを見つけておく、というのも感情を発見する一つの手だなと思います。
そして、私は対話してこなかったので聞いてみたい。
みんな感情を考えているのかどうかって。
感覚を話し合って、自分を発見してみたい、というのがあります。
では、お聞きいただいてありがとうございました。