第2節「環境の倫理」
3.動物倫理についての考察
(動物哲学者にならないために、動物への問いを立てなかったと一説に言われている)
- 動物倫理で問われていること
- 動物倫理の具体例①ニワトリについて
- 具体例②ウシについて
- 具体例③クジラについて
- 動物倫理とヴィーガン
参考文献 「はじめての動物倫理学」(田上孝一)、「「動物の権利」運動の正体」(佐々木正明)、「動物の権利」(デヴィッド・ドゥグラツィア、戸田清訳)、「ヴィーガン探訪」(森映子)、「今日からはじめるビーガン生活」(井上太一)、「なぜヴィーガンか?倫理的に食べる」(ピーター・シンガー、児玉聡・林和雄訳)、「ニワトリ 愛を独り占めにした鳥」(遠藤秀紀)、「ウシの動物学」(遠藤秀紀)、「異界見聞録1、2」(西田みどり)、「スーパーサイズ・ミー2 ホーリーチキン」(モーガン・スパーロック〈ドキュメンタリー〉)、「すばらしい人体」(山本健人)、「夢を叶えるために脳はある」(池谷裕二)、「動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある」(ジャック・デリダ、マリ=ルイーズ・マレ編、鵜飼哲訳)、「人新世の「資本論」」(斎藤幸平)
動物倫理で問われていること
まず「はじめての動物倫理学」を参考に、今何が問われているのかを見ていきましょう。
本では、歴史的に動物が客体(モノ、特に西洋文化)として扱われてきた歴史を取り上げています。
筆者はここに疑問を呈します。
人間は権利を獲得してきた歴史があった。
(例えば、奴隷解放、LGBT、子どもの権利など)
それなら動物も権利を獲得できるのではないか?と。
- 環境の変化
人類が増えることで生態系が変わってきた(人新世) - 科学の発展
動物も痛みを感じたり、言語を使うことが科学的にわかってきた(2023年動物言語学という新しい分野が東京大学にできた) - 必要性
ヴィーガン(動物性食品をやめる)の元祖ともいえるゴンペルツ(1784-1861)も仕方なくなら食べたり使うことを許容した。
けれど、現代では代替が可能になってきた
筆者は動物倫理は現代ならではの学問だと述べます。
一定強度以上の意識的努力によって実現されるのが倫理的実践だと説き、その努力を現代ならできる、と主張するからです。
倫理学が提起する規範は人口の最大多数に焦点を当てた平均的なものであるべきである。
つまり倫理学にとって最も根源的な縛りとなるのは、その規範が実行される社会にあっての平均的な個人が、まさにそうした個人にふさわしく、その社会での常識とされる程度の意識的努力で実現されるべきものだということである。
一言でいえば、平均的な個人が常識的な努力で実現できるのが倫理的実践であり、それ以上でもそれ以下でもあるのは不適切だということである。
(「はじめての動物倫理」p110)
ピーター・シンガーの主張
ピーター・シンガーは動物性食品をやめるようになった人々の主な理由を4つ上げました。
動物性食品をやめた4つの理由
- 動物への配慮
- 気候変動の問題
- 自分の健康への配慮
- ウィルスのパンデミックの原因は肉食のウェットマーケット(生きたまま動物が売られる生鮮市場)が原因
この中で、彼は自分が①「動物への配慮」から肉食をやめたと述べました。
私たちは回避可能な苦しみをもたらす慣行を支持すべきではないが、肉食を行えばまさにそうした慣行を支持することになる
(「なぜヴィーガンか?」p8)
ピーター・シンガーは、動物に強い愛着をとくに抱いているわけではない、と述べます。
「動物好き」として分けられることによって、動物に対する問題が政治的・道徳的議論から今まで締め出されてきたと考えるのです。
道徳原則が動物に適応されないことがおかしい、と主張します。
種差別について違和感を抱いている
[人間と人間以外の動物との間に]越えられない一戦をひくものは、他にどんなものがあるだろうか。理性の能力だろうか、あるいはひょっとすると会話する能力だろうか。しかし、成長した馬や犬は、生後一日、または生後一週間、さらには生後一か月の乳児に比べ、段違いに理性的で、会話のできる動物である。‐問題は、理性を働かすことができるかでも、話すことができるかでもない。苦しみを被ることができるかどうかである。
(「なぜヴィーガンか?p30」ベンサムからの抜粋)
とはいえ、動物が苦しみを被ることができるかどうか、というのは共感する私自身にゆだねられます。
例えば、カントの説いた自律(自分の決めた規則に従って行動する)の考え方をピーターは動物に拡大します。
自分で決めた倫理的な行動を自分で実践する。
他人の「肉を食べるな!」という規則にしたがうのではなく、自分で決めた規則にしたがうのが道徳的だとピーター・シンガーは考えるのです。
彼も健康的な理由から二枚貝(痛みの神経がないとされる)は食べます。
「麻酔をすればいいとか、苦しみがなければ何をしてもいい」は人によって違和感を抱く
動物それ自体の価値観(その動物固有の幸せや自由)を尊重するという考え方。
例えば、その動物の代理として人が実際に裁判をおこす、ということも起きている
「『VEGAN=ビーガン』という言葉は、完全菜食主義などと訳されて、豆腐と玄米を好む極端な食事法、女性に人気の健康志向の生活スタイルとみられてきた。しかしそれは薄っぺらな理解といえる。‐ビーガンとは、動物搾取の産物を可能な限り一掃しようとする考え方で、具体的には、肉・乳・卵・蜂蜜などを避け、衣では絹・革・毛皮・羊毛などを避け、さらに動物実験を経た化粧品を避け、こうした動物搾取を推進する企業や研究に反対する社会運動である」
(「動物の権利」)運動の正体p136)
動物倫理の具体例①ニワトリ
(セキショクヤケイ雄 ニワトリの元祖と言われている)
日本人にとって空気のように身近にあるもの、それはニワトリです。(「ニワトリ 愛を独り占めにした鳥」参照)
日本人は1人年間約340個の卵(世界2位)を食べ、年間およそ11キログラム(1週間に200グラムほど)の鶏肉を食べます。
対比で言えば、日本人は一人年間30キロのお肉を食べ、その内の牛が7キロから8キロ、豚と鶏で残りを分け合う計算です。
(一人当たりの供給カロリーは数年でそこまで変化していない)
消費量トップは豚肉でしたが、2012年に鶏肉が追いこしました。
卵や鶏肉はそのものだけではなく、いろいろな加工品にも使われているからです。
またニワトリが日本国内で飼われている数は人口の3倍以上。
ニワトリの歴史
日本のニワトリの数字は、「戦後の復興と高度経済成長をそのまま統計にしたような数字の動きをとってきた」(ニワトリp262)ようです。
昭和30年代には5000万羽を達成。
昭和40年代にはブロイラー(食用のためのニワトリの呼び名)の飼育が試みられ、それ以後にブロイラーだけで1億5000万羽という今の水準に至ります。
昭和30年から60年までの30年間で急速に伸び、日本の高度経済成長と同じような数字を示しているのです。
卵を使っていない商品をそろえるのは難しかったりする
- 産卵鶏(多くは白色レグホン)は年間卵数約290個。
卵を産ませるために品種改良と飼育条件が日々研究されている。
(鶏の元祖セキショクヤケイは年間卵数約10個) - 産卵鶏は700日で産業廃棄物扱いとなり(産卵能力の衰え)、廃鶏(食べない)となる。
(セキショクヤケイの寿命は15年) - 産卵鶏は四季や夜間を錯覚させられたり、絶食や絶水期間を設けられている
- ブロイラーは鶏肉をとるためだけに飼われるニワトリであり、とくに若鳥をさす総称。
ブロイラーが鶏の大多数を占め、肉食鶏としての性能を引き出されている。
ブロイラーという概念の登場はニワトリを卵用と肉用の二つに分けてしまった - ブロイラーの寿命は50日で、ひよこがその間に3キロにまで成長する。
(飼料1キロに対して500グラム体重が増える。セキショクヤケイは成長しても雄900グラム、雌600グラム) - ニワトリは家禽(かきん)であり、家畜とは法的に区別されることがあり、家畜より待遇がよくない
- ニワトリは集団で飼われているため感染症(鳥インフルエンザなど)を引き起こす
高度経済成長によって、ニワトリはモノのようになっていきました。
例えば、ドキュメンタリー映画「スーパーサイズ・ミー2」では、チキンがどのように商品になっていくのかが詳しく紹介されています。
経済
ニワトリの飼い方に対する動物福祉の声は、だんだんと大きくなっています。
- 鶏の虐待の報告を受けて、欧州連合(EU)では2012年からバタリーケージ(ワイヤーでできた金網の中に鶏を入れ、それを連ねて飼育する方式)を廃止。
- 2000年、マクドナルド社では大きめの鶏のケージ(72平方インチ以上の空間)の業者のもののみを扱うと決定。
日本では95%がケージで飼われているのが現状。
アニマルウェルフェア(快適性に配慮した家畜の飼養管理)という概念が叫ばれていても、日本の法律ではバタリーケージは禁止されていません。
アニマルウェルフェアの水準をあげると「養鶏業者は壊滅する」という意見があった
「スーパーサイズ・ミー2」では、健康的なバーガーを売り出したかったけど、美味しくないと売れないというデータから油で揚げた肉を主力にした
環境問題
環境問題で取り上げられている動物は主にウシ。
ウシは15億頭(世界中で5人に1人が飼っている割合)いて、毎日1700億リットルの水を飲み、500億キロの飼料を食べると言われています。
計算によると、500グラムの牛肉生産に約10トンの水が必要。
水不足が騒がれている現代において、水資源消費量の3割が畜産用と言われています。
このように、環境問題だけみれば牛肉をやめて鶏肉にすればいいのでは?という考えが浮かんできます。
(数が増えると感染症の問題が浮上する)
でも、だから牛の数を少なくしよう、というのも違和感になるかもしれない。
例えば、人口が増えすぎてるから減らそうとはSDGsで主張されていない
動物倫理の具体例②ウシ
環境でも問題視されやすいウシの歴史を見ていきます。(「ウシの動物学」参照)
ウシの祖先と言われる「オーロックス」は、およそ9000から8000年前に家畜化されました。
そして、野生オーロックスは絶滅し、家畜ウシだけが生き残っていったと述べられています。
人類に支配される前、ウシは大地の支配者でした。
なぜなら、もともと草しか生えない大地を完全に自分のものにしえたのはウシしかいないのです。
栄養は足りてるのかな?
微生物が草を発酵させることによってウシの栄養素ができるのです。
ウシの現在
本で「ウシの現在のあり方は、ウシと人間の長い関係のなかでは、例外的な一面にすぎない」と強調されています。
(日本にいるウシの多くはホルスタイン〈乳用〉)
畜産のウシ(ここ60年間ほど)
- ウシは子どもを産んでからでないと乳がでないので、生後8,9か月で妊娠させる
- 母と子はすぐに離される
- 妊娠しにくいウシや雄ウシは屠殺されることが多い
- 母ウシは300日ほどミルクを出し、その間(出産後85日目ほど)にまた妊娠させる
- ミルクを出し、子を産み、というサイクルを4度ほど繰り返してから屠場へおくられる
また木の根っこを取るためなどに強い力は必須だった
ウシと環境
ウシは人類にとっては夢のような動物。
しかし、他の生物にとっては天敵となりえます。
例えば、ウシは歯ではなく舌が発達していて、舌で草を巻き取りながら食べます。
それにより根っこの弱い草は絶滅しやすく、サハラ砂漠の原因の一つはウシによると言われているのです。
また第二の生態系により生みだされるのはメタン。
このメタンも地球温暖化を招く温室効果ガスとして知られています。
夢のような技術の裏で、ガスが発生する、というのはどんなことにもありえそう
(野放しにすると砂漠化の危険がある)
ハチミツは健康食として人気だけど、これもヴィーガンにとっては避ける食品(蜂への搾取と考える)になっていたりする
動物倫理の具体例③クジラ
家畜ではないけれど、動物倫理問題になっているのがクジラです。
クジラはとても頭が良い哺乳類。
例えば、可愛さや賢さから食べられることが少なくなっているイルカを大型にしたものがクジラだと言われています。
(体調4メートル以上をクジラと呼び、それ以下の種類をイルカと呼ぶ。「日本の鯨食文化」p108)
一時期、クジラの取り過ぎでクジラが絶滅危惧種になりました。
各国が争って捕鯨するほど、クジラの油が必要だったからです。
(石油や植物油に代替されることで鯨油は必要なくなった)
クジラを食べる文化のない国々は捕鯨をやめましたが、日本は鯨をあますところなく利用してきました。
しかし、日本の捕鯨は海外から批判されています。
日本捕鯨の主張
- 日本は全体数の調査をしながら捕鯨をしている。
乱獲はしていない - 絶滅危惧種は逃し、そうでない種をとっている。
- クジラは人間の3倍以上の魚を食べている。
クジラだけを人間が保護対象にすれば、海洋生態系のバランスを崩しかねない。
(ミンククジラはスケトウダラやマサバを捕食し、それらは水産資源として回復しなければならない危険レベルにまで減少している。
微生物や小型甲殻類を中心に食べるのはヒゲクジラ。) - 日本はクジラ一頭を「食べつくす」というように、内臓や骨まで余すところなく使っている。
(クジラが乱獲されていた頃、イギリスやノルウェーではクジラの鯨油以外は捨てていた) - 現在のミンククジラの数は初期資源量8万頭から比べると38万から71万頭いるとされ、年間4%の割合で増えている。
理論上では年間約15000頭を捕獲しても問題ない
捕鯨反対派による運動
捕鯨に対する批判は、2009年米アカデミー賞ドキュメンタリー「ザ・コーヴ」で広がりました。
日本近海を泳ぐミンククジラが定置網にかかり、そこから逃れられなくなった「ホープ」が主役の作品です。
SNS上では「ホープを救おう」という運動が起こり、「クジラを殺さないで」「非人道的なことはやめて」という声があがりました。
結果、ミンククジラは19日間網の中を泳ぎ、逃すことが困難だったために「混獲」として有効活用されました。
アメリカはそのせいで負けたとして、今後戦争ではメディア規制をひくことになった。
メディアと食文化との関係も倫理的に考えていきたいこと
動物倫理とヴィーガン
ヴィーガニズム⇒動物の搾取や虐待に加担しないこと
主な理由は動物たちの生を尊重したいから、が多いそうです。
このように聞くと日本では不殺生をとく仏教を思い出すかもしれません。
違いとしてはヴィーガンは社会運動的な視野があり、仏教徒は自己の修行としての不殺生という違いがあります。
ヴィーガンには自分たちの行動が未来を変えられる、という前提がある
宮沢賢治はほぼベジタリアンだったけれど、魚の気持ちになって悲しみながらも魚を食べる心情を書いている
『今日から始めるビーガン生活』では、禁欲主義ではなく、普通の感覚で時間をかけつつ雑食者からビーガンに変わることを推奨しています。
ビーガンの取り組み
- 「悪い文化は滅びるべき」というように、動物搾取や人間迫害に関して自分で考えていく
- 畜産業が抱える問題点を明らかにする
- 動物実験は「しないほうがよい」という側面を主張する
- 動物園と水族館は行かない
- 動物や環境に悪い食べ物ならば、その代替品を利用する。
(大豆製品は肉の代わりになり、つなぎは米粉や小麦粉) - 社会的に悪いと思う商品から離れていく。
(パーム油、バナナ、コーヒー、チョコレートなど人権侵害や環境破壊度の強そうなもの。
上白糖の白さは動物由来なのでそれも避ける) - 化粧品や日用品も動物実験が用いられていれば避ける
- ペットもできるだけ飼わない
- ヴィーガン専門店を支持
- 自分はヴィーガンだと周りに言っておく
- 「できる範囲でやる」ではなく「どうすればできるかを考える」
でも、ヴィーガンは「直接的な動物搾取からは手をひくこと」を行動の原理にする
ヴィーガンは社会運動、とも言われているように、自分が主体的になって生きることがビーガニズムにつながっていきます。
例えば、ガンディーは粗食を貫き、それは自己鍛錬の部分が多かったのですが、食べることを拒否することで民衆を動かしました。
他にも、天理教教祖の中山みきは絶食をすることで、自分の要求(家は大富豪であったけれど「貧に落ちきれ」と主張)を通したと言います。
知識を取り入れることで、自分はどう変わっていくんだろう
- 動物園や水族館はすべてヴァーチャルでも代打がきくのではないかと議論されている
- 科学性商品の動物実験の多くは、消費者に安心を与える。
人間は何か未知の物に対して具体例がないと安心できない
(動物を擬人化して理解する性質を人間が持つ)
例えば、動物性のインスリンなどは人体に利用されています。
動物と人間は違う、動物と人間は同じ、という理由は各分野によって見方が変わるのです。
夢と現実を私はどう見分けているのか。
一つの例として、動物実験で頭部を固定して動かせないようにしたサルは目が見えなくなるらしい。
身体を使った動物経験が「見え」を作るらしい(夢をかなえるために脳はあるp151)
それでも考える幅が広がっていく。
また、意味がない実験はときに直接経験と仮想現実との違いを考えさせる
『人新世の「資本論」』では、専門家しか扱えない技術は利用が難しくて格差を広げる、という議論がある
ヴィーガンを選択しても健康なのか?
ヴィーガンを「健康」という視点からも見ていきます。
日本では動物福祉の観点よりも、自身が健康になるためにヴィーガンになるという選択肢が海外よりも多いと聞きます。
またベジタリアンやヴィーガン率は若い世代に増えているというアンケート調査があり、例えばドイツでは全人口の約10%がベジタリアン・あるいはヴィーガンと言われるほど広まっているのです。
肉食vs菜食
- 肉食が多いと老化を加速させやすく、心筋梗塞の原因になりやすい(肥満での欠点)
動物性食品が欠如していると脳卒中が起こりやすい(栄養不足での欠点) - 加工肉は発がん性物質(2015年WHO勧告)
- 日本人は牛乳を消化できない人が多いらしい
- 生肉は食中毒をおこす(処理が必須)
- ヴィーガンに不足しやすい栄養素
①タンパク質②カルシウム③鉄④亜鉛⑤ビタミンA⑥ビタミンD⑦ビタミンB12⑧n-3系脂肪酸 - 体質によってはヴィーガンが合わない人がいる(体が吸収できない、負荷がかかる。特に高齢者、赤ちゃんなど)。
個体差はわかっていない
日本では675年から1200年間、肉食禁止令がありました。
こっそりは食べていたそうですが、1871年に解禁。
魚やクジラ(大型魚と見られていた)はとくに禁止されていなかった。
牛や豚はほとんど食べられていなかったから隠語がない
また人体に関する病気では、特定の栄養素の欠乏が原因不明の病を引き起こしていた歴史があります。
ビタミン欠乏による病気
- 壊血病⇒ビタミンCの欠乏
- くる病⇒ビタミンDの欠乏
- ペラグラ⇒ナイアシンの欠乏
- 夜盲症⇒ビタミンAの欠乏
- 悪性貧血⇒ビタミンB12の欠乏
など、ビタミン欠乏は病気の原因にはなります。
動物倫理と哲学
動物哲学についても少し取り上げてみます。
例えば、「動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある」(ジャック・デリダ)では、「動物が裸でありながら裸であることを知らない」ということは人間にはできないことだと述べられています。
つまり、人間は裸であるときに裸を意識してしまう。
けれど、動物は裸でもそれを意識しない視点を持てるという点を、動物優位な点とも解釈できると述べるのです。
動物は、ゆえに、裸であるがゆえに裸ではない。
それはおのれが裸であるという感情を持たない。
「自然のなか」に裸はない。
‐人間にとっては逆であるらしい。
‐裸の私を見つめる猫の前で、私はもはや裸であるという感覚を持たない一匹の獣として恥じているのだろうか?
それとも反対に、裸であるという感覚を保持する一人の人間として恥じているのだろうか?
そのとき私は誰なのか?
私は誰を追うのか?
それを誰に問うべきなのか、他者のほかに?
そして、おそらくは、猫自身のほかに?
(「動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある」p29)
この本は「応答」がキーポイントになっています。
応答するとは何を意味するのか?
例えば、「ジャック・デリダの動物論に寄せて」(本のあとがきp431~、福山千佐子)では、動物の痛みについて多くの人は反応をしているだけで応答していないと述べます。
動物の痛みを推論することはするけれど、〈共に〉苦しむことができない、と。
福山さん(肉食ができない)はドキュメンタリー「福山千佐子の世界」を撮られたときに、監督に言われたそうです。
私が大切に思うもののために身体がおかしくなるほど心配し、身を投げ出して苦しむこと、監督はそこに興味があるのだと言った。
「そういう感情が僕にはわからない」と。
「欠落です」と彼は認めた。
‐自分に欠落しているものを自分のもののように編集して、彼の作品にしたかったのだ。
(p435)
人は生まれ持った感性は変えることが難しい、と言われています。
ヴィーガンが統計的に若い世代に多い、というのも世代間の感覚の違いがあるのかもしれません。
お肉は食べられないけれど魚は食べられるという境界線があったり、植物や微生物にも学びや環境によって境界線がひかれるかもしれない、ということは起こります。
動物倫理について紹介しました。
次回は土地倫理について扱います。