「愛と性と存在のはなし」(赤坂真理 著 2020/11)を読みました。
生きる価値がある、と願わずにいられないところが、その人自身にとってはコンプレックスだったりする。わたしもそうだ。
「愛と性と存在のはなし」p4
この一言に出会えてよかった。
そう思える本です。
私たちは、異性を好きなのがマジョリティといわれてます。
それに疑いを持ったことはないのか、という問いから本が始まります。
異性が好きだから、異性と結婚しているから、そう思ってその問題に直面していないのではないか、という問いです。
私たちは世間的に正しいと思われることに自分を合わせることで“生きる価値がある”と判断している。
世間は生きることを重要視しているし、多くを規定しようとします。
世間の規定にはまりたいと願いつつも、その規定からはみ出してしまう。
そんな悩みが筆者にありました。
コンプレックスとは、自分の嫌なところです。
生きる価値があると願うことが嫌。
ただ単に生きていることを認められたいという心境がそこにあります。
なぜ願わなくてはいけないのか、と。
自分を世間体に当てはめなくてはいけないのか、という憤りがみられます。
そこから、筆者は生まれた性に規定されるのは違うのではないか、と問いをたてていきます。
そして、愛と性を分けて考えていくのです。
「愛と性はかなりちがう。」
もしかしたら、愛と性を同一視することで性の多様性を考えなかったのではないか、という筆者の問いです。
この違いは、昨今の性的多様性を考えることに繋がるのではないか、と私は考えます。
愛と性の違いとは?
その違いを見ていくことで、性的多様性を考えるきっかけを掴んでいきます。
性と愛の違いとは
まずは性から見ていきます。
性とは
私達が性を分断するときにこんな言葉を使います。
「男は」「女は」こうだという言葉です。
これは両性を分断する言葉であり、「敵陣営」に対して投げかける言葉だと筆者は言います。
たとえばよくあるキャッチーな言葉として、「ワンオペ育児」というのがあるけれど、それで夫を非難する妻は、ある意味夫を一人の人として見ていない。わけがわからず話が全く通じないひとかたまりの生物の一部と見ている。
「愛と性と存在のはなし」p17
性別が違うと想像が難しいので、性差を分断するような言葉がよく使われてしまうのです。
身体としての性差は存在します。
例えば、筆者は女性として、女性の身体の性の特徴を述べていきます。
・女性はホルモンによって体が左右されやすいこと。
・女性は初潮・出産など、生物的共通体験が多い事。
・女性はセックスにおける負担が圧倒的に多いこと。
男性からの視点だと、男性特有のものがあると想像できます。
異性の内実は想像が難しく、それによって断絶されてしまうのが性です。
では次に愛を見ていきましょう。
愛とは
「大人は、愛を教えないといけない存在だ」と筆者はいいます。
愛について語っている場面を抜粋します。
鼓動を聴く。自分がいる。自分が自分を知る。 そして愛がある。愛は感情じゃない。 あっ、そうなんだ、愛は感情じゃなかった。 ただ在る。 こういうものか。愛ってこういうものか。 「愛と性と存在のはなし」p172
筆者は愛をその場でただわかるものだといいます。
そして、感情でもなく、愛と言うものがあるというのです。
性差は言葉で綴ってきましたが、愛は直観的なものだと表現されています。
このように記述すると性と愛は違うことが明らかなのですが、なぜ一致していると捉えてしまうのでしょうか。
それは、私達が愛を感情だと見なしてしまいがちだからです。
直観により愛を感じて心の鼓動が速くなったとします。
そのとき、私たちは感情と結びつけてこのドキドキは愛なのだと感じるのでしょう。
そしてそれが興奮になり、性と結びつくことが発生するかもしれません。
ここが愛と性をしっかりとは分けられない所以です。
けれど、筆者は感情と愛を切り離します。
具体的なエピソードで見てみましょう。
愛と性を分ける具体例
筆者はこれが愛だとわかった経験を持ち出します。
前述の愛についての他に、その人個人を感じた経験から愛を語っているのです。
まずは同性愛を例に出します。
同姓愛とは男女という壁を取り払って、ただその人が同姓であっても、異性と感じる感性のことだと述べます。
その人自体に愛を感じる。
そして、愛とはわかったけれど、セックスとは結びつかなかった例を筆者はあげています。
「わたしの苦悩は、愛があるけど、セックスがむずかしかったこと」だと述べます。
セックスは自然なものではないらしい、と。
この理由は私たちが受ける教育や文化に一部よるのだと述べます。
ある宗教で性行為に否定的なイメージをつけられたり、親や社会からの刷り込みがあるのだと言うのです。
なので、どこまで体の反応と愛が一致するのかは、個人によって違ってきます。
何かのトラウマによって愛がわかっても、行為には拒否反応を示すという例も聞きます。
ここから筆者は愛と性をわけるのです。
では、そのことを詳しく見ていくためにジェンダーも見ていきます。
ジェンダーと性
ジェンダーとは社会的・文化的に作られた性差を言います。(社会学用語図鑑 参照)
「男らしさ」「女らしさ」といった社会的・文化的性差のことで哲学者ジュディス・バトラー(1956~)が唱えた概念です。
大まかに述べるとこのような違いになります。
セックス=自然界に先天的に存在するとされている性差
しかし、彼は「セックスはつねにすでにジェンダーである」と述べ、生物学的な性であるセックスという概念は社会的に作られていると考えました。
このような分割ができてしまうこと自体に差別が存在していると述べるのです。
バトラーはジェンダーに女性の社会的な立場への課題を込めています。
ジェンダーという用語を作ることは、人々の差別を露見します。
その問題を考えられるようになるのです。
では、なぜ「愛と性と存在のはなし」の筆者はジェンダーで区切らずに愛で区切ったのか。
「ジェンダーと性」で区切らずに「愛と性」で区切った理由を抜粋します。
ジェンダーという考えは尊重するが、身体の特徴が、感じ方や精神構造におよぼす影響を、決して過小評価はできない。心とは多くが、外界をどう感じるかのインプットでできているのだから 。
「愛と性と存在のはなし」p131
つまり、ジェンダーだけでは捉えきれないものを愛と筆者は表現したのです。
言葉を区切ったバドラーの本質的な意図したことと一致しています。
ジェンダーもセックスも2つを加味して人個人を見つめて欲しいという意図です。
まずはジェンダーとして性差は抑えて欲しいけれど、その問題にいる個人を見て欲しい。
定義のほうに自分を合わせないために、捉えにくい「愛」を筆者は取り上げたのではないかと私は推測しています。
赤坂真理「愛と性と存在のはなし」のまとめ
同性愛などで苦しんできたといわれる哲学者は多くいます。
それは自分を見つめすぎた結果、社会的に隠されている部分を発見したとも考えられます。
性差で区切って考えていくことで、かえって私自身や相手自身を見つめることができるからです。
「事実は小説より奇なり」といいますが、小説の方が奇だと思っていた場合、「自分の中でなにか、隠している部分がある」のではないかと疑ってみてもいいかもしれません。
ジェンダーと性を考えたその先に、愛と性を考えることができます。
一般の区別を超えることで、個人一人一人を見つめられるのです。