おはようございます。けうです。
山口尚「日本哲学の最前線」を読み終えました。
その中で、「愛」について話していこうと思います。
前回の回はこちら。
>>伊藤亜紗さんの倫理
愛への疑問
私は実体験を通して、「愛」とは何かがわからなくなってくることがあります。
知識としては使えています。
執着は愛ではないし、依存も愛ではない。
哲学者ショーペンハウアーはかつて愛を同情と言っていた。
童話「星のおうじ様」では愛を所有だとか手間をかけることだと言っていた。
哲学のフィロソフィーの語源は知を愛すること。
他の「愛と性と存在のはなし」では愛をものではなく「こと」だといっていた、ということも思い出します。
>>赤坂真理「愛と性と生存のはなし」
これらを通して、愛は人として持つべきものだと思うと共に、私は愛が持てないのではないか、と思ったのです。
そんないろいろな側面を持つ愛。
では、この本で苫野さんは愛をどのように解説しているのかをみていきます。
苫野一徳「愛」とは
まず私はまとめを読んで、愛の恐ろしいイメージを植え付けられました。
苫野さんは「愛」という本のあとがきで、ご自身の娘にたいする愛を語ります。
末の娘との石垣島での病院でのエピソード。
「今も日に何度もフラッシュバックするあの恐ろしい光景、わが子の頭が、水面に静かに浮かんでいるあの光景を、わたしは一生忘れることができないだろう。償いの気持ちと、そしてまぎれもない『愛』と共に。」
まず愛は恐ろしいものかもしれない、と私はイメージしました。
これはイメージです。
なぜなら、こうも書かれているからです。
愛ではなく他のものなら、体験によってこれが性欲か、とか、これが愛着かと私たちはわかるけれど、これが「愛」だと、わたしたちはわかりにくいといいます。
なぜなら、愛にはこんな側面があるからだと。
「一般的な情念が、向こうから“やって来る”もの、あるいは内から“湧き上がって来る”ものであるのに対して、愛は、一度わたしたちの理性を通じて吟味されずにはいられない、いわば理念的情念なのだ。」
このように理念的情念で捉えられる愛。
さらに、苫野さんは「真の愛は意志を要求する」と述べます。
「意志」に積極的な役割をもたせる。
弁証法的な愛を、私はこの数ページで掴むことは難しいと感じました。
それでも、山口さんがまとめとしてこのようなことを述べます。
「苫野は真の愛を『自己犠牲的献身』という表現で特徴づけたが、本書に登場する六人の哲学者はみなこの真の愛を実践していると言える。苫野は真の愛の向かう対象としてもっぱら人間を想定しており、この想定には正当性がないわけではないが、それでも彼の言う『真の愛』は『哲学』という語に含まれる『知への愛』へ応用できるだろう。」
この六人の営みが、知を、哲学を愛する試みであり、意志なのだ、と。
私はこの言葉を聞いて、なんとなく愛について納得しました。
人は何かを愛さずにはいられない。
けれど、その対象について、人に縛られることはない。
とはいえ、そうなってくるとその縛られやすい「人」とは何か、ということを問わなければいけなくなります。
「人」とは何か
苫野さんは苦しむ娘のフラッシュバックを通じて愛を感じている。
そのフラッシュバックしている最中に感じている娘に向ける愛は、人にむけている愛なのだろうか。
山口さんは最後までこの娘が生きているか生きていないかはわからない、と言いました。
そうなってくると、もし死んでいたとしても、献身的に苫野さんは娘に愛を送っていることになる。
人に対して生死を超えた時、それでも私はそれを人に対しての愛だと言う。
そういったときに、理念的情念でもある愛は、その人の頭で理解されている。
頭で理解されるので体験ではなく、実際にいる「人」ではないかもしれない。
愛を考える上での引用
最後に愛を考えていく上でヒントにしたい言葉を抜粋します。
「真の愛の特徴づけは具体例の観察からは得られない」
「真の愛を生きる者は『その相手がいなかったとしたら自分は本当の自分になれなかっただろう』とすら考える。」
人はよくよく考えれば孤独な存在である。
「かくして個々人は自然の調和的なシステムから切り離されている。生命の連続性から疎外されて出現したものーそれが『人間』である。」
ここで人間とはなにかにも触れていました。
「愛は未来に置かれて初めて意味をもつ。愛は困難な『挑戦』であるからこそ意義深い。『あなたは真の愛を生きるか』と未来から問いかけること-それが『真の愛』という理念の本来的役割である。」
愛することによって、自分をすてるのだけれど、それがかえってよりいっそう自分らしくなるものが愛。
いろいろな矛盾を含むけれど、私はたちは愛という言葉を使っているのであり、愛という表現以外では表せないことを体験しています。
このようなことが愛。
愛は意志することと述べていたけれど、意志はコントロールすることができない。
そして、意志することでもある愛はさらにコントロールができない。
自分で意識して持つことはできない。
ただそこにあること。
私に愛がないのではないかと思い悩むとき、もしかしたら私は具体例を参照にしていたのかもしれません。
他の事柄の把握と同じように、具体例で言えるようなものが愛なのだ、と思い込んでいたという可能性です。
他の哲学でも、よく具体例は引き合いにだされ、哲学の多くは具体例で説明ができる。
しかし、それで愛を語ったときに本当にこれは愛なのだろうか?という疑惑はいつも付きまとう。
この疑問も取り入れて、愛を把握していくという苫野さんの愛の理解の仕方に、私は強く納得しました。
「日本哲学の最前線」まとめ
山口尚さんの「日本哲学の最前線」は、今の時代に生きる人なら一度は疑問に思ったことがあるような不自由論がテーマになっています。
そして、なぜ一度は疑問におもったことがあるのかと言うと、私たちはその時代の枠組みに生きているからです。
もし、疑問に思ったことがないとすれば、その枠組みを外れて生きている、ということです。
不自由論では、何が私を不自由にしているのか把握したとき、かえって自由になれるということが書かれていて、これにも納得しました。
私たちはわからずに不自由でいるのではなくて、それを把握しながらも不自由の中にいることができる。
まだまだ自分が不自由な原因は潜んでいて、それを把握したときにはかえってより自由になる。
本書では意志や愛を説いていたけれど、一般的な意志や愛を超えた新たに解釈された意志や愛を私は生きることができるのかな、と思いました。
なぜ越えなければいけないかといえば、一般的な意志や愛には納得ができていないから、私は追い求めているのだろうなと思いました。
その納得を通じて、疑問すら「愛」にいれてしまうというのは私になかった視点で感銘を受けました。
では、お聞きいただいてありがとうございました。