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贈与とは何か-「人間」を問い直す

おはようございます。けうです。

 

「世界は贈与でできている」を読み終えました。

>>世界は贈与でできている

読み終わった感想。

とても泣かされました。

私は、自分がどうすべきかがわからなくなりました。

考えることは増えた。

他の人の言葉やしてきたこと、他の人の常識や世界観、どのようなつもりで言った言葉なのか、それを思考していく意義のようなものを受け取りました。

正直、苦しい、と思いました。

贈与の多様性

この本のあとがきで筆者が文芸評論家の故・加藤典様さんに悩みを打ち明けたそうです。

筆者「今、いろいろ文章を書いてみているんです。でも、文章を書くと、ああ、自分はからっぽなんだなって思い知らされるんです」

これに対して。

加藤「文章を書いて、自分がからっぽだ、って思わなかったら嘘だよ」

からっぽだと自覚するところから文章は始まる、と。

 

そして筆者は結論付けます。

「『自分はからっぽ』ということは、今自分が手にしているものは一つ残らず誰かからもらったものだ、ということです。」

 

他者からの贈与が、自分の中に蓄積されているということ。

そして、本のメッセージとしては、受けとっていた贈与に気が付いてしまう、そんな本になったらいいなと祈っていると述べられていました。

 

この気づきという怖さ。

贈与するときに、それに気が付かせることを言えば呪いになる、と本で述べられています。

贈与はそれを返さなければいけないという重圧を自分に与える。

だから、私は本を読んでいて苦しくなりました。

 

この意味を言えば、他人が無意識にしていることがすべて私への贈与として現れてくる。

私のためにしたということも、私のためにしなかったということも、それは贈与として私に蓄積されていきます。

本では贈与に気が付くということは教養だと語っていました。

 

贈与は世界の文脈の中にあって、常識の中で立ち現れてくる、と。

それが贈与だと言わなくても、いたるところに贈与がある。

 

きっと、それは贈与だと意図して言った事も贈与になるし、なんの意図していないことも贈与になります。

そして、それを受け取ったという事は、私はメッセンジャーになるということでもあります。

メッセンジャーになるということは、文章を書くとか伝えるという事。

それは、私は自分がからっぽだと自覚すること。

受け取って苦しくなると、それをまた逆に苦しくなくなる言葉を本では述べられています。

例えば、親は子どもにいろんなことをしているけれど、それを受け取ってくれていること自体も贈与なのだ、と。

すでに受け取ったと感じたことが贈与であり、与えたと思っていることも贈与なのだ、と。

贈与の苦しい面と、幸せな面が襲ってくるような構造がある本だと私は思いました。

今の私は贈与を知ると、身動きができなくなるのではないか、ということも感じました。

印象に残る文章を上げていきます。

人間とは何かを考える

「贈与に対しては反対給付義務を感じる。もらったら、『もらいっぱなしでは悪い』という気分がしてくる。これは当然のことです。
何かを贈与されたとき『返礼せねば』という反対給与義務を感じるもののことを『人間』と呼ぶわけですから。贈与されても反対給与義務を感じない人は、人類学的な定義に従えば、『人間ではない』。」(内田樹さんの文章を抜粋)

 

哲学で言えば、『人間』の定義を今また問い直されている時期にいます。

今の思想でいえば、自分の意志をもった人間は否定されて、構造や世界の常識、枠組みの中にいるのが人間だとされています。

この文からで語られる『人間』はおそらく自分の意志をもちつつも、構造の中にいる人間。

でも、この言葉だと強制力が強すぎて、『人間』でいることがつらくなってしまいます。

・自己でいることが苦しい人間。

そんなときに、人間の定義が文化との関りだとか、ただの構造の一部だと考える。

そうなると、意志する自分はいなくなるのだけれど、構造としての人間はいる、となります。

・自己がいないことが苦しい人間。

(苦しいとつけなくてもいいかもしれませんが)

この本の中では、人間の定義の幅が広いと感じました。

一方で自分の意志を持った『人間』を主張し、ある面で空っぽな、ただの人と人との間柄である人間を主張しています。

 

贈与を受け取っていると感じる、自分で贈与を想像することは、自分を人間で居ようと気が付かせることだ、と先ほどの文から読み取れます。

自分をその構造の中にはめ込んで、その中で自己意識を持つ人間として見ていく。

なので、私をその人間としてみるときに、構造としての常識は否定しないし、できない。

言語ゲームの中にいる私を前提として、贈与はなりたっている。

 

「贈与の受取人は、その存在自体が贈与の差出人に生命力を与える。」
-この世に生まれてきた意味は、与えることによって与えられる。
いや、与えることによって、こちらが与えられてしまう。

このように解釈を多方面から見ることで、自分の苦しみはまた苦しみではないものとしての視野を提供しています。

贈与に気が付くということ

この言葉も見ていきます。

「アンサング・ヒーローは自分が差し出す贈与が気づかれなくても構わないと思うことができる。それどころか、気づかれないままであってほしいとさえ思っているのです。なぜなら、受取人がそれが贈与だと気づかないということは、社会が平和であることの何よりの証拠だからです。」

 

私はきっと贈与に気が付かない方が、心が楽に暮らせる。

ただ、私は教養を望むし、想像してその贈与に気が付くことを、哲学をやるうえで望んでしまっている。

自分で自分を追い込んだり、苦しんだりさせる。

ある人が、「これは贈与だよ」と差し出した呪いをそのまま受け取ることになる。

ただし、その人が差し出していないものも贈与になっていて、世界には受け取りたくない贈与が数多く存在しているということ。

それに気がついていくとき、私もまたいらない贈与も必要な贈与も、世界にたいして与えてしまっていることを自覚します。

「生への情熱を持ち続けるならば、この無限に続く苦役を担わねばならない。」

おそらく、考えつづけて、他人からの贈与に気が付けば気がついて行くほど、私は苦しくなります。

では、その反対とは何か。

考えないという幸福です。

ある場面で、私は考えるのを放棄してもいいかもしれない。

考えることによって、身動きがとれなくなるのなら。

そして、それは肯定されうるのかもしれない、ということも思いました。

ともすると、これは本で伝えたかったメッセージとは違うことに働くのかもしれませんね。

人は考えなくなってきているから、考えることを示唆してみる。

ただし、考えている人にとっては、呪いすら正面から引き受けて考えていくことになる。

自分が拒否しているようなことも、それは自分の視点が足りないからだと、勉強不足からきていることなのだと指摘される。

その考え続けていく過程は、とても苦しくもなる。

「世界は贈与でできている」まとめ

この本は読む人の解釈によって、いろんなことを感じることが出来る本だと思いました。

とても心が揺り動かされました。

 

「世界と出会い直すことで、僕らには実は多くのものが与えられていたことに気がつくのです」

それは、与えられすぎていて、自分がからっぽだとも気が付くということ。

その中で自分に気が付こうと、自分がうけた贈与を考えると、その大きさに身動きができなくなること。

人は考えないことに幸せを感じ、無意識に行動するからそれが贈与になるのだということ。

けれど、本を読むことは考えさせられることです。

 

愛というのは贈与だと気が付かれない形で送るものでもある、と本にありました。

でも、人はいつか気が付いてね、という期待を込めて贈与をおくる。

この気が付いてね、というのは人間に特有の呪いを自分自身がもっていることにもなってきます。

哲学の「善」にも繋がりますが、人は「善」を意識して行動すると、それは「善」ではなくなってしまうとあります。

ここには、考えることと考えない事の境界が潜んでいて、そこには理性的な人間と動物的な人間という内部矛盾すら含む人間が存在している。

とりとめのつかない私とは何かという哲学的問題をまた考えてしまいました。

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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