おはようございます。けうです。
責任の生成は読み終えたのですが、まだその内容を扱っていこうと思います。
予測誤差についてです。
今朝の私のツイートを読みます。
意識はトラウマを予測誤差から考える
意識はトラウマである。
無意識はトラウマから意識になる。
つまり、こうだ!と思っていた予測が違うと意識にあがる。
だから、私が意識して考えている時トラウマだらけになる。
この意識はトラウマというのは、人の予測誤差のことです。
なぜこの予測誤差を取り上げるのかと言うと、人によって予測誤差というのは異なるからです。
では、この予測誤差の例を出していきます。
予測誤差とは人が当たり前に行動する時にそれが働きません。
例えば、並んで!といわれたときに並ぶ。
そうしたときに違和感を覚えたとすると、予測誤差が生れてそれが意識に生まれる。
並ばないかもしれない。
ダンスをして下さい!
そういわれてダンスをすることに違和感を覚えると、そこに予測誤差が生じる。
予測誤差から先生に、どうしてそのダンスをしなければいけないのかと抗議をする。
無意識的な感情の享受。
何かに集中して、ミラーニューロンのように相手が笑ったから笑ったというときには、人は意識がのぼらないかもしれない。
でも、相手がわらった。
あ、笑わなければいけないと意識する。
そこから笑顔をつくるという行動を起こす。
こうした予測誤差から、意識が生じる。
一見同じような行動を無意識に起こしているのかと思いきや、それが無意識にできないから実は意識的におこなっているというのが予測誤差を通した行動です。
一般的にこれらの例は予測誤差から意識に上がらない人がおおいかもしれない。
並んでとか、自然に笑うとかは。
でも、例えば、上司からこれをやっといて!といわれる。
これは何を指しているのかを考え出す。
上司のやっていたことを推測したりして、ようやく上司の言っていた意味を理解する。
指示があいまいな場合は予測誤差は広がります。
そうしたときの違和感が予測誤差で、予測誤差に敏感な人はいつも何かしらが意識にのぼりやすいと言うこと。
だから、意識が少ない人は「うっかり」しているとも言えます。
そのことに気がつかない。
でも、気がつかなくても無意識の反応はすごくて、それに適応出来ている。
だから、どちらがすごいという訳ではないけれど、受け取り方の違いがあるということ。
予測誤差の具体例
多くの人がこれは前に経験済みだと思う行為に関して、予測誤差に敏感な人は初回のエピソードとして体験することになります。
私は自分で予測誤差に敏感だと思っています。
私の行動で言えば、私の職場はほぼレジなのでレジうちをするときに負担に思うことは少ない。これは同じ行動としてインプットされているから、違和感なくレジ打ちができる。
しかし、業務でギフトカウンター業務が埋め込まれていたとする。
お客さんによっては、商品の場所を聞いて来たり、包装をしたり、梱包をしたりといった様々な作業が生じる。
私はこれを少し億劫に思います。
なぜなら人とコミュニケーションをとりながら行動を予測しなければいけないから。
レジの時はそこまで意識にのぼることはなくても、ギフトカウンターでは意識にのぼってしまう。
そのやりとりを初めての経験として受け取りやすく、どう対処しようかその度に意識にのぼってきます。
人はトラウマしか意識できない。
予測誤差を超えたことしか意識できない。
なので、予測誤差という範囲からたくさんの意識をしてしまうことになります。
多様性とは
今の時代はキー・コンピテンシーがさけばれている。
特定の文脈の中で複雑な要求に対応することができる力。
臨機応変力ともいわれる力だけれど、予測誤差に敏感な人はその行動に移すことが苦手。
なぜなら臨機応変とはいえ、その臨機応変という一定の法則がそこに存在するから。
おそらく、すぐに行動に移せる場合、トラウマを意識しない。
間違っているのではないかと恐る恐る取り掛かることはしない。
そこまで意識に捉われることがなく、行動に移すことがもとめられる。
かえって、予測誤差に敏感な人は行動に移すまでがとても長くかかってしまって、臨機応変な行動を即座にとることができない。
臨機応変力は多様性だと受け取られるけれど、その中に対応の模範やこう動いて欲しいと言う像があるとすれば、その多様性は限定された多様性になる。
キー・コンピテンシーはパターナリズムの否定から生じている。
パターナリズムとは文字通りパターンにそった行動をすること。
そのパターンの否定なのだから、多様性だろうと思われるかもしれないけれど、そこで行われて欲しい行動に関しては多様性がなくなる。
今ほど多様性に対する寛容さがなくなっている時代はないのだと責任の生成の本で言っていました。
だから、多様性がさけばれているのだ、と。
時代をハイデガーによるミツバチ実験のハチのように捉えていました。
あるミツバチの腹部を欠損させます。
ミツバチはそのことを確認できない。
確認をせずに、密が目の前にある。
すると、その密をずっと飲んでいると言います。
飲んではその欠損部分から密が溢れてしまっている状態です。
現代はその繊細さに気がつけない。
どれだけ飲んだかがわからずに、ずっと飲み続けているのだと言うこと。
予測誤差に鈍感なので、その誤差に気がつけない。
そのようなミツバチが21世紀の現代人のようだと本では語られていました。
一般的には「多様性を認める、ただし暴れる人以外」ワイドショー問題とか。
ある一定の基準があって、それにはみ出す人には厳しいと言うこと。
例えば、マスクをしない人に対して厳しい目を向けたりとか、旅行者に厳しい目をむけたり、「良い」と決められたことにとことん従順であること。
多様性という言葉だけを理解して、その内部に踏み込んで行かない時、それは多様性が一律になってしまうということ。
予測誤差と新しい事
私は自分で予測誤差に敏感だと思っています。
その弊害はなんでも新しい事として受け取りやすいと言うこと。
だから、かえって私はよく新しい挑戦をすると言われます。
でも、それは予測誤差に敏感だから、一般的に言われている新しい事と、新しくない事の分け目がないということ。
普段から新しいことばかりをするようなことが多いから、その分け隔てができていない。
普段からやってみることで、その予測誤差を確認しているから、だから新しいことに手を出さざるをえないのかもしれません
そして私は自分を火星人として捉えることがあります。
普通にみんなが意識しないことを意識してしまうから。
普通に日本人である私が外国にいって感じることなのかもしれません。
で、外国というとあるイメージができてしまっているので、イメージができていない火星にそれを当てはめる。
人、という部分では共通しているんですよね。
自分で自分がわからないから、火星人と言う感覚。
でも、他の人からすれば、一般的な人であって、客観的にみれば私の行動の意味がわかる。
なので、自分がわかるという意味で会話が重要だし、会話から自己発見というのがうまれるんだろうな、とも思いました。
では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。