「現代に生きる人間の倫理」
第5節「人間への新たな問い」
3.ウィトゲンシュタインと言語哲学
この転回は言語論的転回と呼ばれる。
分析哲学は言語の哲学(言語哲学)でもある
- ウィトゲンシュタイン前期と言語哲学
- ウィトゲンシュタイン後期と言語ゲーム
参考文献 「言語哲学がはじめる」野矢茂樹、「はじめてのウィトゲンシュタイン」(古田徹也)、「ハイデガー入門」(細川亮一)
ウィトゲンシュタインと言語哲学
ウィトゲンシュタインがたどった哲学の問題を、「言語哲学がはじまる」(野矢茂樹)を参考に見ていきます。
本では、「ミケは猫だ」ってどういう意味なんだ?から始まります。
「ミケは猫だ」にはすでに、ミケと猫という二つの単語があるので、まずは猫の意味から解明していきましょう。
それがネコなんだね。
じゃあ↓は猫じゃないね
絵を猫に含めるのって主観的なんじゃないかな?
- 1 世界は成立していることがらの総体である。
- 1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
要素主義批判
そこで出されたのが、真偽という関係です。文はある事実のもとで真ないし偽になる。これが文と事実の、すなわち言葉と世界の基本的関係だというのです。(p50)
「意味」の二つの側面
- 「外延」⇒ある概念に対して、その概念に当てはまる対象。
意味の外延的側面は「指示」ないし「指示対象」と訳す。 - 「内包」⇒その対象を取り出すための属性。
意味の内包的側面は「意義」と訳される。
そして、指示対象と意義を分けることによって、私たちが述べる違和感が明らかになるのです。
‐私たちが「文の意味」ということでもつ直感は包括的意味、文の意義に関わっているのだということです。じゃあ、意義とは何なのでしょうか?(p88)
ウィトゲンシュタインの言語論的転回
フレーゲの議論に対して、ラッセル(ウィトゲンシュタインが師事)は応戦していきます。
その議論は「言語哲学がはじまる」に明記されていますが、ここでは早々にウィトゲンシュタインに登場してもらいましょう。
「哲学が為すべきは、そうした哲学問題への衝動を鎮静することだ」(p175)
そこで、『論考』は思考の限界を見定めようとしました。
ここで登場するのが言語論的転回です。
- 言語論的転回前⇒思考が言語に生命を吹き込んでいる。
(意義があると考える) - 言語論的転回後⇒言語が思考を成立させる。
(意義は考えない)
言語が思考を成立させるので、「三辺で囲まれた四角形」「午後の早朝」というような、言語そのものが成立していないものは思考不可能だとしたのです。
それなら有意味な内容があることと、無内容とを区別するものは何?
- 1 世界は成立していることがらの総体である。
- 1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
私がそのように事実をみているから、そのように見ようというのが前提にある。
「〇〇がある」は論理に従わない。
前提から論理的に「〇〇である」という事実を構成する
(ハイデガー入門p166参照)
ウィトゲンシュタインの「思考」とは、言語論的思考のことであって、思考の限界とは言語論的思考の限界のことだと考えました。
現実に存在する対象を組み立てたら、できあがるものも当然現実に存在することになるでしょう。
‐ですから、そうした対象の可能な組み立て方を考えるには、対象そのものを組み立てるのではなくて、対象の代理物を組み立てることになります。
それが、言語です。(p185)
(「(ウィトゲンシュタインの)対象とは、必ずなんらかの事実のもとにありながら、さまざまな可能的な事態のもとに現れうるという仕方で、事実から切り離された存在」(p190)のこと。)
だから『論考』では対象を具体例として取り出すことができない。
取り出したとたん、その性質は必ずなんらかの事実のもとにあるから。
だから具体例は〈〉や「」で表されたり、「前期ウィトゲンシュタイン的」な言語論といわれる
そして、『論考』の最重要概念と言われるものが「論理形式」です。
ある対象について、それがどの可能的な事態に現れうるかということを、ウィトゲンシュタインは「論理形式」と呼びます。
(p191)
(『論考』では可能な事実を「事態」、現実に成立していることを「事実」と呼ぶ)
ここの段落では言語論的転回の経緯と、論理形式の登場をみてきました。
次に論理形式の内容をみていきます。
ウィトゲンシュタインの「論理形式」
ウィトゲンシュタインは「有意味性の最終的な根拠は実際の私たちの言語使用にある」(p195)と『論考』で述べました。
哲学の仕事の本質は「解明」することにあるとして、言語使用を「説明」するのではない、としています。
例えば、われわれが「富士山」という語を使うことができるということがつまり、「富士山」という語の論理形式を理解していることになるのです。
語の意味が理解できると、それをもとに論理空間を構成できるようになります。語の意味を理解するとは、その語の指示対象と論理形式が分かるということですから、論理形式の理解をもとに、有意味な文を作りだすことができます。有意味な文は可能的な事態を表現していますから、こうして可能的な事態を列挙することができるようになる。(p208)
- 論理空間⇒可能的な世界の集合(p210)
- 真理関数⇒真偽を入力して真偽を出力する関数(p217)
ウィトゲンシュタインの有名な言葉をこれらから解釈してみます。
およそ語りうるものは明晰に語りうる、そして語りえぬものについては、沈黙せねばならない
(倫理の教科書p173)
『論考』が言う「語りうる」とは、可能的な世界の集合である論理空間を語るということ。
そして、明晰というのは真理関数に当てはめて真偽が問えるということ。
そして、語りえぬものとしては「自我、生と死、価値、倫理、論理」といった哲学問題を、まっとうな「語り」から排除するのです。
そして、それは真偽が決められないから、語りえない。
例えば、今日の哲学では相対主義に対しては絶対主義じゃなくて独断主義というようになっている
例えば、私はすごく感動した!
という語りえないことは、神秘的であり、私が大事にしたいことだったりする
ウィトゲンシュタイン後期
言語は変わりゆく
どんな記号列でも、それが有意味な命題となりうる可能性は否定できない。また、逆にどんな記号列でも、それが意味不明となる可能性は否定できない。‐それを無意味だと断定するのではなく、少なくともいまのところは主張として意味不明である(=有意味な命題かどうか分からない)と指摘する。
(p141)
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」
ウィトゲンシュタイン後期では、言葉の意味は生活の流れで決まると考えました。
すなわち、記号が我々の生活のなかで使用され、特定の役割を果たすその具体的な状況こそが、その記号をまさに意味ある言葉にするのである。
(p183)
言語ゲーム⇒言葉と、それが織り込まれた諸行為の全体(p185)
例えば、ある池の周りに「アヒルのエサ 100円」という看板があったとします。
僕は文章から真偽を判断しているからね
つまり、ゲームがまさにそうであるように、多様なアスペクト(見方)を見渡すことではじめてあるがままに捉えられる物事が存在する、ということだ。
(p224)
例えば、アスペクト盲は一つしか見れなくなるなる固定化された見方をする人のこと
ウィトゲンシュタインの晩年の哲学
「哲学の仕事は‐本来はむしろ、自分自身に関する仕事である。自分がどういう考え方をしているか。自分が物事をどうみているか。(また、物事に何を期待しているか。)」(p297、ウィトゲンシュタインの言葉)
ウィトゲンシュタインは何度も自殺を考えていたけど、最後は「素晴らしい人生だったと、彼らに伝えてほしい」と語った
彼は、嵐吹き荒れるこの現実の世界から目を背け、ぼんやりした「像(見方の固定化)」のうちに逃げ込もうとする者の足をとめ、勇気を奮うよう促す。そして、嵐に翻弄される物に呼びかけ、周囲をよく見渡すように‐見えているはずなのに見えていないものに対して展望を開くように‐と励まし、再び歩き出すきっかけを与えるのである。彼はある箇所で、「私は実際、世界の片隅に散らばっている友のために書いている」と綴った。
(p308)