和辻哲郎と倫理学

和辻哲郎(わつじてつろう)の倫理学をわかりやすく解説|高校倫理3章4節12

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第3章
「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
12和辻哲郎(わつじてつろう)と倫理学
を扱っていきます。
前回は西田幾多郎(にしだきたろう)と日本哲学をやりました。
>>⑪西田幾多郎と日本哲学
日本にはもともと「哲学」に対応する日本語がありませんでした。
哲学が翻訳語として登場し、初の日本哲学者といわれる西田幾多郎が登場。
西田幾多郎は、西洋思想と仏教思想を融合し、「絶対無」という概念をつくりあげました。
この絶対無を「空の理論」として捉えていったのが和辻哲郎(1889-1960)です。
>>大乗仏教とは
和辻哲郎は「倫理学」のロマン主義(個人の感情や主観に重点を置いて表現)的転回をした!
この倫理学ブログの意図も、和辻哲郎がいう倫理の概念。
和辻は「倫理学は『倫理とは何であるか』という問いである」としたよ
ブログ内容
  • 和辻哲郎の倫理学への疑問
  • 和辻哲郎の間柄的存在
  • 和辻哲郎の倫理学とは

参考文献 「人間の学としての倫理学」和辻哲郎著「続・哲学用語図鑑」「デカルト哲学について」和辻哲郎著(kindle)「自己の肯定と否定と」和辻哲郎著(kindle)「生きること作ること」和辻哲郎(kindle)

和辻哲郎の倫理への疑問

「倫理」といえばどのようなイメージを抱きますか?

道徳と似たようなもの?
その倫理(エシックス)も一つではあります。
「エシックス、ethics」⇒倫理、道徳の一般的性質、および他の人たちとの関わり合いの中で個人が行う、特定の道徳上の選択についての学問
この意味でいえば、倫理は個人の視点から人の善悪を考える学問です。
この意味だと道徳は人々(全体)からみた善悪で、倫理は個人から見た善悪なんだね
和辻哲郎以前の倫理概念
  • 道徳⇒人々の善悪の規範
  • 倫理⇒個人の善悪の規範

辞書によっては、倫理には道徳の意味が含意されています。

しかし、和辻哲郎はここに疑問を抱きました。

もともとアリストテレスが説いた倫理(エシックス)は単体では存在しない。

アリストテレスは、人間を個人と社会組織の両面から考えるものだとしました。

アリストテレス
「人間はポリス的(社会的、共同体的)動物である」

アリストテレスは個を定義した初めての人!
例えば、プラトンはイデアを個物においてはみなかったけど、アリストテレスは個物に本質があるとしたんだね!
よく歴史上人物に名前が同じ人がいるけど、個人の概念がなかったからかな。
長男なら太郎、というような風習があったりした

アリストテレスは人を社会的動物だと定義したけれど、そのエシックス(個人の部分)だけが倫理として広く伝わってしまったのだと和辻哲郎は語ります。

つまり、アリストテレスは人間を解く一部としてエシックスを用いたのであり、エシックス単体では意味をなさないものだと解釈したのです。

 和辻哲郎は倫理の再解釈をはかります。
倫理(エシックス)は、人間の学としては不十分だと和辻は考えた

倫理の語源をたどる

倫理は輸入されてきた言葉です。
  • 倫理という言葉は、中国から日本に伝わってきた。
  • 中国の「倫」は元来「なかま」を意味する。
  • 「倫」の持つ意味を「理」は強調するのみ。
  • 倫理の語源はアリストテレス哲学。

倫理という言葉には「なかま」という意味があり、アリストテレスが定義した「人間は社会的(ポリス的)動物」の意味がくみ取られています。

中国からの語源(なかま)も、アリストテレスの意図(社会的動物)も、日本語の既存倫理(道徳的、個人の善悪)とは違うよね
さらに、和辻哲郎は日本人に特有の誤訳を発見しました。
もともと「人間」と「人」とは違う言葉だったのですが、日本語においてそれが同じ意味に捉えられていたのです。
  • 人間⇒「よのなか」「世間」を意味
  • 数世紀後における日本語
    人間=人(同じ意味)

和辻はこの誤解を、単に誤解と呼ぶにはあまりに重大な意味を持っていると考えるようになります。

つまり、日本においては人と社会は同じだと混同するような意味があることを示している、と考えました。

そこで出てきたのが「間柄的存在」です。

和辻はこの誤解は仏教の輪廻観に根源があると考えていたよ。
衆生がめぐる世界は地獄中、飢餓中、畜生中、人間、天上という記述があったんだけど、地獄、畜生、人間、天上というように二文字で略して記す記述が一般化していたみたい

和辻哲郎の「間柄的存在」とは

和辻哲郎は人間を間柄的存在だと考えました。
>>間柄的存在をわかりやすく

間柄的存在とは、個人は社会がないと成立しないし、社会は個人がないと成立しない存在のことです。

個人
⇩⇧
社会
この矢印の運動を含めた運動が間柄的存在です。
西洋近代哲学で考えた人間と比較するなら、西洋は私(主観)と他者(客観)というような自我意識が主体となっています。
西洋的人間観は静止した状態。
それに対して、和辻の人間観は動いている状態
そのものを分析するには止まっている状態で見るのが一般的な科学。
例えば、人体模型なども静止した人間の構造を説明しています。
しかし、和辻は動いている状態そのものが間柄的存在としての人間だと定義しました。
運動が止まっちゃったらその物じゃない?
動いてる物自体ってあるのかな?
そこで出てくるのが絶対無からの空の思想です。

和辻哲郎の「空の思想」

和辻哲郎は空の思想に根拠を置くことによって、人間を間柄的存在と定義しました。

近代哲学の祖デカルトと対比してみます。

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という発見をすることによって、自己意識を定義しました。

「我の存在」の確定です。

しかし、和辻は「私が思っている状態」だけがあるとしました。

それは実在がなくてもよいのだとしたのです。

神が自己を欺くとも、欺かれる自己がある。

私が私の存在を疑うというなら、疑うものが私である。

疑うという事実そのものが、自己の存在を証明している。
「デカルト哲学について」和辻哲郎 p14

ないものはないよ
パルメニデスは合理主義の祖で、主義も一つの考え方だよね。
(パルメニデス「あるものはある、ないものはない」と説いた哲学者)

疑う事実そのものを証明するには、空の理論や絶対無の概念です。

  • 俯瞰(ふかん)する
    私の意識がその私を含めて上から見下ろすように全体を眺めているという状態。
    私は一人なのだけど、あたかも二人いるようにして見ている状態
  • 「火は、火でないがゆえに火である」
    火は焼くという作用をもっているけれど、火自体は焼かない。
    火は自分に作用しないから火の役割を発揮できるので、火である。
  • 「……」
    無言には無言の意味がある
  • 無個性という個性

私たちは日常的にないものをあるものとして語っています。

相手があるからこそ因果関係(縁起)がなりたち、それ単体では存在できないという空の理論です。

和辻哲郎は絶対無の概念と空の理論から、間柄的存在を根拠づけました。

和辻哲郎の倫理学とは

和辻哲郎が倫理を分析していった過程において、カント哲学やヘーゲル哲学によってロマン主義的転回が起こっていました。

例えば、人間からみたコップと、犬からみたコップは違っている。
人間の認識システムがそのように見せているという認識の仕方(コペルニクス的転回)
この近代以降の哲学、さらに空の理論を経て、和辻哲郎は倫理そのものにロマン主義的転回をおこします。
  • 既存の倫理⇒エシックスという倫理(個人の道徳)で、個人にとっての善(よきこと)とは何かを問う学問
  • 和辻の倫理⇒倫理学は「倫理とは何であるか」という問いである

デカルトの自我の発見を根拠に、問いているその状態に根拠をもったのです。

どうして転回(180度変わる)しなきゃだったのかな
和辻の間柄的存在は、否定と肯定が入り混じります。
例えば、あなたが社会的役割として「平社員」であるときは、平社員の役割を私にあてはめる。
しかし、会社が終わればその役割を否定して、父親だったり、子どもなどに変わります。
私はある人から見れば子どもだし、親だし、部下だし、…いろんな個性がある。(肯定)
でも、いつまでも子供じゃないし、会社員じゃないし、親じゃない。(否定)
時がたてば「平社員」という役割も、「後輩がいる平社員」「中間職」であったり「部長」などに変わります。
私はその役割をそのようなものとして行動。
役割がない状態として「私」がいたとしても、社会的関係から「私」の認識や価値観も意識的に、また無意識的にも変わっています。
真実の自己は、意識的に分析する事の出来ないものである。
それは様々な本能から成り立っているが、しかし確然とその本能の数をいうことは出来ぬ。
これらの多様なる本能が統一せられた所に個性がある。
従って個性もまた明確に認識せられ得るはずのものではない。
「自己の肯定と否定と」p53
和辻哲郎は、内省において我の卑しい自己を何度も発見しました。
人の優位に立とうとする自分。
人の弱点を突こうとする自分。
愛が足りない自分。
このような我は破壊することが必要だったと和辻は述べます。
本能や欲望で動いてしまう自己意識
自分の我を通さなくても、個性(社会的に役立つ自分)には影響がない、とも。
つまり、既存の倫理(「個人にとっての善」)を発見しようとしても、どうしても我というフィルターを通してしまうことになります。
間柄的存在という運動に根拠を持つ和辻の倫理は、既存倫理の善を発見したとたんに論理破綻してしまうのです。
これがいい!と決めつけると、運動がなくなってしまう
和辻が善いと思う「善いもの」を和辻の思想に反映させるわけにはいかなくなりました。

和辻の倫理学

和辻が倫理を定義したことで、道徳と倫理をわけて考えやすくなりました。

一例

  • 道徳⇨善悪がある
  • 倫理⇨善悪を問う

和辻は倫理の転回を試みましたが根本的な態度は変わらないと述べます。

すなわち、倫理学とは人間関係・従って人間の共同態の根柢たる秩序・道理を明らかにしようとする学問である。
「人間の学としての倫理学」p17

つまり、それを使用する人々の生の刻印を負って存在しなければならないものとしています。

和辻の倫理は問いだから、終わらないということ?
私たちは問いに向かっている時、もやもやしているイメージかもしれません。
例えば、クイズの答えを知りたいというときは、満たされていない状態。
しかし、この満たされていない状態は問いを意識している状態であり、和辻は問いを意識せずして持っている状態も体感しています。
ただ「知る」だけでは何にもならない、真に知ることが、体得することが、重大なのだ。
‐これは古い言葉である。
しかし私は時々今さららしくその心持ちを体験する。
-思索によってのみ自分を捕えようとする時には、自分は霧のようにつかみ所がない。
しかし私は愛と創造と格闘と痛苦との内に‐行為の内に自己を捕え得る。
「生きること作ること」和辻哲郎
否定と肯定を繰り返し、「私の愛は恋人が醜いゆえにますます募る」かのようだと和辻は述べました。
和辻は繰り返し問うことによって、既存イメージを変えています。
和辻は「風土」も有名
>>和辻哲郎の「風土」とは
和辻哲郎の倫理学をやりました。
次回は日本民俗学について取り扱います。
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