「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
12和辻哲郎(わつじてつろう)と倫理学
>>⑪西田幾多郎と日本哲学
>>大乗仏教とは
和辻は「倫理学は『倫理とは何であるか』という問いである」としたよ
- 和辻哲郎の倫理学への疑問
- 和辻哲郎の間柄的存在
- 和辻哲郎の倫理学とは
参考文献 「人間の学としての倫理学」和辻哲郎著、「続・哲学用語図鑑」、「デカルト哲学について」和辻哲郎著(kindle)、「自己の肯定と否定と」和辻哲郎著(kindle)、「生きること作ること」和辻哲郎(kindle)
和辻哲郎の倫理への疑問
「倫理」といえばどのようなイメージを抱きますか?
- 道徳⇒人々の善悪の規範
- 倫理⇒個人の善悪の規範
辞書によっては、倫理には道徳の意味が含意されています。
しかし、和辻哲郎はここに疑問を抱きました。
もともとアリストテレスが説いた倫理(エシックス)は単体では存在しない。
アリストテレスは、人間を個人と社会組織の両面から考えるものだとしました。
アリストテレス
「人間はポリス的(社会的、共同体的)動物である」
例えば、プラトンはイデアを個物においてはみなかったけど、アリストテレスは個物に本質があるとしたんだね!
長男なら太郎、というような風習があったりした
アリストテレスは人を社会的動物だと定義したけれど、そのエシックス(個人の部分)だけが倫理として広く伝わってしまったのだと和辻哲郎は語ります。
つまり、アリストテレスは人間を解く一部としてエシックスを用いたのであり、エシックス単体では意味をなさないものだと解釈したのです。
倫理の語源をたどる
- 倫理という言葉は、中国から日本に伝わってきた。
- 中国の「倫」は元来「なかま」を意味する。
- 「倫」の持つ意味を「理」は強調するのみ。
- 倫理の語源はアリストテレス哲学。
倫理という言葉には「なかま」という意味があり、アリストテレスが定義した「人間は社会的(ポリス的)動物」の意味がくみ取られています。
- 人間⇒「よのなか」「世間」を意味
- 数世紀後における日本語
人間=人(同じ意味)
和辻はこの誤解を、単に誤解と呼ぶにはあまりに重大な意味を持っていると考えるようになります。
つまり、日本においては人と社会は同じだと混同するような意味があることを示している、と考えました。
そこで出てきたのが「間柄的存在」です。
衆生がめぐる世界は地獄中、飢餓中、畜生中、人間、天上という記述があったんだけど、地獄、畜生、人間、天上というように二文字で略して記す記述が一般化していたみたい
和辻哲郎の「間柄的存在」とは
和辻哲郎は人間を間柄的存在だと考えました。
>>間柄的存在をわかりやすく
間柄的存在とは、個人は社会がないと成立しないし、社会は個人がないと成立しない存在のことです。
それに対して、和辻の人間観は動いている状態
動いてる物自体ってあるのかな?
和辻哲郎の「空の思想」
和辻哲郎は空の思想に根拠を置くことによって、人間を間柄的存在と定義しました。
近代哲学の祖デカルトと対比してみます。
デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という発見をすることによって、自己意識を定義しました。
「我の存在」の確定です。
しかし、和辻は「私が思っている状態」だけがあるとしました。
それは実在がなくてもよいのだとしたのです。
神が自己を欺くとも、欺かれる自己がある。
私が私の存在を疑うというなら、疑うものが私である。
疑うという事実そのものが、自己の存在を証明している。
「デカルト哲学について」和辻哲郎 p14
(パルメニデス「あるものはある、ないものはない」と説いた哲学者)
疑う事実そのものを証明するには、空の理論や絶対無の概念です。
例
- 俯瞰(ふかん)する
私の意識がその私を含めて上から見下ろすように全体を眺めているという状態。
私は一人なのだけど、あたかも二人いるようにして見ている状態 - 「火は、火でないがゆえに火である」
火は焼くという作用をもっているけれど、火自体は焼かない。
火は自分に作用しないから火の役割を発揮できるので、火である。 - 「……」
無言には無言の意味がある - 無個性という個性
私たちは日常的にないものをあるものとして語っています。
相手があるからこそ因果関係(縁起)がなりたち、それ単体では存在できないという空の理論です。
和辻哲郎は絶対無の概念と空の理論から、間柄的存在を根拠づけました。
和辻哲郎の倫理学とは
和辻哲郎が倫理を分析していった過程において、カント哲学やヘーゲル哲学によってロマン主義的転回が起こっていました。
人間の認識システムがそのように見せているという認識の仕方(コペルニクス的転回)
- 既存の倫理⇒エシックスという倫理(個人の道徳)で、個人にとっての善(よきこと)とは何かを問う学問
- 和辻の倫理⇒倫理学は「倫理とは何であるか」という問いである
デカルトの自我の発見を根拠に、問いているその状態に根拠をもったのです。
でも、いつまでも子供じゃないし、会社員じゃないし、親じゃない。(否定)
真実の自己は、意識的に分析する事の出来ないものである。それは様々な本能から成り立っているが、しかし確然とその本能の数をいうことは出来ぬ。これらの多様なる本能が統一せられた所に個性がある。従って個性もまた明確に認識せられ得るはずのものではない。
「自己の肯定と否定と」p53
和辻の倫理学
和辻が倫理を定義したことで、道徳と倫理をわけて考えやすくなりました。
一例
- 道徳⇨善悪がある
- 倫理⇨善悪を問う
和辻は倫理の転回を試みましたが根本的な態度は変わらないと述べます。
すなわち、倫理学とは人間関係・従って人間の共同態の根柢たる秩序・道理を明らかにしようとする学問である。
「人間の学としての倫理学」p17
つまり、それを使用する人々の生の刻印を負って存在しなければならないものとしています。
ただ「知る」だけでは何にもならない、真に知ることが、体得することが、重大なのだ。‐これは古い言葉である。しかし私は時々今さららしくその心持ちを体験する。-思索によってのみ自分を捕えようとする時には、自分は霧のようにつかみ所がない。しかし私は愛と創造と格闘と痛苦との内に‐行為の内に自己を捕え得る。
「生きること作ること」和辻哲郎
>>和辻哲郎の「風土」とは