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「私たちはどう生きるのか-コロナ後の世界を語る2」の感想-哲学の役割

おはようございます。けうです。

 

私たちはどう生きるのか-コロナ後の世界を語る2」を読んでいます。

なぜ哲学が役に立つのか。

その答えの一つとして、ある時代思想の根底には一つの哲学が参考になりやすいことがあるからだと私は考えます。

ナチス政権が成立したときには、ニーチェの思想が使われたと言われています。

その時代を形作るなにかしらの思想に、哲学は影響を与えています。

「私たちはどういきるのか」-東浩紀さんの思想

そして、いつも同じ哲学が引用されるわけではありません。

今はウィルスによって、世界が変わりつつある。

極端に同じ思想を追い求めていくと、それは時代に合わなくなっていきます。

そもそも、哲学というのは問いを出していくこと、考え続けていくことです。

それなのに、その思想の一つがずっと使われているということは、哲学ではなくなっていきます。

この本では、変わりゆく世界で未来をつくるには、というコンセプトで20人の知識人の意見を取り上げていました。

 

今回は東浩紀さんの思想を紹介していきたいと思います。

哲学は思想を提供しますが、それを人に考えてもらうためにはわかりやすく伝える必要があります。

今回の、ウィルスが猛威をふるっているのも、それが見える形となって私たちの目の前に出てきたからです。

人は見えない脅威には目をつぶりますが、見えてしまった物には対処せざるをえません。

なので、その問題をわかりやすく提示することで時代に影響を与えていく。

私は東さんをそのような哲学者だと思っています。

わたしたちの問題をわかりやすく考えさせられるようにしてくれている。

では、今の時代において何が問題になっているのかを東さんの思想からみていきます。

東さんは「分からない」に価値を持たせようと述べていました。

「私たちはどう生きるのか」-分からないに価値を持たせる

問いかけについて「分からない」で応対すること。

わたしたちは意見を聞かれたときに、「わかりません」というとなにか罰のわるい思いをします。

学校教育などでは答えがあって、それを答えられる人が優秀だと見なされてきたからです。

けれど、その答えを答えることに価値がおかれすぎているのではないか、と私は解釈しました。

本から東さんの文を抜粋すると、

「分からない」をベースにして連帯するしかない。

このような提示をします。

では、なぜ分からないが大事なのか。

「分からない」が大事な理由

ウィルス危機にさらされて、人々の間である問いがたちました。

「生き延びること以外の価値はないのか?」

この問いにYESとNOの答えがあります。

 

まずYESから。

生きのびることが一番重要だ、とする答え。

これは、人々の意識が自分一人だけの「固体の生」に向けられた状態です。

私だけが良ければいい状態。

この状態によって、トイレットペーパーの買い占めが起こったり、自分の命だけを守ろうという取り組みがなされてきました。

哲学で言えば「万人の万人に対する闘争」状態です。

 

ではNOの答え。

「命とはそもそも個体の生を超えているもの」

私たちはただ生きていくことはせず、命を次世代につないだり、思想や創作物を残したりします。

それは繋いでいくことに価値を見出すからです。

文化の価値、活動の価値、人と人とのつながりとしての価値などです。

 

では、今の思想はどちらに傾きかけているのか。

それをYESである「固体の生」が大事ということに傾いていると東さんは語っています。

「人々の国際的な交流がなくなる。次世代の教育ができなくなる。劇場がつぶれる。いままで大事にされてきた価値に対し、社会が以前より鈍感にさせられつつあるとしたら、人々の意識が『個体の生』に集中させられているからではないか。」

このように一人一人の命が大事という主張がなされることで、NOの答えである文化を繋いで行ったり、自分以外を大事にするというそもそも人間がもっている価値観の一つをないがしろにしているのだと解釈できます。

 

そして、NOの「固体の生を超える生」に価値を持たせる答えを改めて確認すべきだというのです。

「人間はリスクを引き受けることで社会を成り立たせてきたのだという事実を思い出すべきです。例えば、学校に行けばいじめられるかもしれないけれど、誰にも会わなければ友だちもできない。人間は、価値とリスクのバランスを考えることで社会を作ってきました。」

リスクを背負わなければいけない「固体の生を超える生」。

「個体の生」に価値が置かれすぎている状況に対して、哲学はもう一方の「固体の生を超える生」を省みようと主張します。

それでも、ただ、YESかNOかの二極化ではありません。

「個体の生」が重要視されすぎているから、反対側を哲学者は叫ぶのです。

もちろん、個体の生も重要なのです。

そして、初めに戻る主張。

問いに対して「わからない」と答えよう、と。

YESかNOと二極化するのはやめよう、と。

「私たちはどう生きるのか」-東浩紀さんのまとめ

これは考えていなくて分からないのではなくて、考えているからこそわからないとみなすべきなのだ、と解釈できます。

「『分からない』をベースに連帯するしかないのだと思います。いま気になるのは、人々があたかも『自分には分かっている』かのような前提でお互いの言動を攻撃しあう現象です。それでは不安やいらだちが増幅されるばかりです。」

学校で答えを言う時、「分かっている」と正解を出した方が優位性を感じやすいのは確かです。

しかし、今の世界で明確に答えを出すことは、ある一方の価値をないがしろにしてしまう。

「個体の生」を重要視しすぎることは、「固体の生を超える生」をないがしろにしてしまう。

それが極端化したときに、その「固体の生」さえ大事ならば良いという方針が取られていきます。

その場合はどのようなことが起こるのかと言えば、人々がデータとして管理されます。

グラフとして見られ、ウィルスによってこのグラフがただ脅かされなければよいという思想になります。

人々の価値が均一化されてモノ扱いされ、その「個体の生」だけが大事にされる状態。

例えば、使われることが良いとされている食器の器が、ただ美術館に保管されていてそれを眺めているだけのような感覚。

鳥かごに入れられた鳥とか、動物園の動物とか、そのような表現でもいいかもしれません。

大事だからしまっておこう。

大事だから閉じ込めておこう。

一方を大事にしすぎることで起きてくる現象は、人々も閉じ込めてしまうことにつながります。

なので、どちらも大事だと思っている状態では「分からない」を大事にする。

「分からない」に価値を持たせることで、いろいろな立場の人が述べる言葉に耳を傾ける態度ができます。

批判されているものを省みる態度でもあるかもしれません。

 

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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