哲学をニュースで流れるような世界情勢に活用できないだろうか?
「哲学って世間離れしてる」
「哲学って役に立たない」
こんな声が聞こえてくる。
「哲学って難解な言葉ばっかりで難しくって、今の世界情勢に役立てない。」
哲学っていうと批判もきそうだから、じゃあ「哲学的に」考えてみよう。
哲学的に考えるポイント
- 「本当」はあるのか
- あるとして「本当」を実感してみよう
- 「知」を愛してみる
- 「常識」を疑ってみる
哲学的に「本物」はあるのか考える
哲学では昔から「本物」はあるのかないのか、話し合いがされてきた。
ある一説ではソクラテスが哲学の始まりとも言われている。
ソクラテスと、その時代の哲学者が「本物はある?ない?」という議論が始まりだとか。
「本物はない」派が言うには、「物事はすべて批判できちゃうよ」って。
なんでも批判できてしまうので、そうなってくれば本物がない。
でも、昔から「本物はある」派はちゃんといる。
「本物はある」
論理的には「本物」は論破できる。
どんな「本物」だって、基盤を壊しちゃえば批判できちゃうから。
じゃあなんで「本物」はあるの?
「本物がある派」はこう答える。
「あなた生きてますよね?」
こんな感覚にうったえかける一言で、否定派はたじろいでしまう。
「あなたは自分が生きてるってわかってますよね?それって本当ですよね?」
論理じゃない感覚部分に訴えかけると、感覚では「本物はある」気がする。
「本物」があると良い場合に、「本物」を設定する
じゃあ、間をとってこうしよう!
「本物」がないと困るものを「本物がある」設定にしよう。
例えば、「あなたは生きている」、「戦争がある」、「犯罪がある」。
さらに「あなたは生きている方がよい」、「平和な方がよい」設定にしてそれを議論してみよう。
もちろん、設定は変えることもできる。
まず前提を決めておいて、その前提はあることにしよう!
前提を立てて、それは批判しないようにする。
その中で、さらに改善案を探っていく。
こうすれば「哲学的」に世界情勢の議論ができるんじゃないかな。
哲学的に「本物」を実感してみよう
「本物」を設定することはわかった。
ここで一つの疑問。
「感覚的にもそれは絶対にあると思うんだけど?」
設定じゃなくて、感覚的に感じる「本物」。
例えば、あなたは笑う。
なんで笑うの?といったときの理由に、「ギャップ」がある。
ブラックジョーク
考えてたことと、実感してることのギャップに笑う。
理論では説明できないんだけど、ここには「本物」みたいなものがある気がする。
私が笑っちゃうような「本物」が。
じゃあ、その「本物」を大切にしてみたらどうかな?
私が笑ったとして、そこに大切にしたい「本物」があるんだとしたら、本物設定にそれを設定してみよう。
「本物」が議論を進ませる
例えば、今はバーチャルな世界。
ゴーグルをかければ、それが現実なのか映像なのかわからない。
「私って本当は機械の中で寝てて、夢をみてるだけなんじゃないの?」
なんて不安。
でもさ、これも体感的にわかってる。
あなたは今起きてて、ブログを読んでいる。
夢の中で読んでない。
昔から、人間は起きているのと寝ているのと、たいてい区別ができてる。
だから、大丈夫!
あなたは「本物」を体感できるはず。
「これが本物なのか、偽物なのかわからない」
そんな不安になるときは、もっとわかりやすいものを「本物」に設定してみるといいかな。
あなたは笑ってる。
笑ってるから、それはあなたにとって良いもの。
この良いものが増える議論がいいな。
哲学的に「知」を愛してみる
哲学の定義の一つが、「知」を愛すること。
「あ、わかった!」
こんな知ることが楽しいって感覚。
「いつも自分で考えろって言われる…」
あなたは考えられないんじゃない。
考える材料を持ってないだけ。
材料がなきゃ、ケーキだってできない。
1つ1つの材料を組み合わせていけば、おいしいケーキができあがる。
「材料集めや、作りあげるのなんて面倒!」
こんな意見はあるかもしれない。
お腹が空いてなきゃ、ケーキだって食べたくなくなる。
じゃあ、いつかお腹が空いたら、ケーキを作ってみよう。
それまで作り方だけ知っておいてもいいかもしれない。
記憶の片隅で、ケーキの作り方だけ覚えてる。
覚えていることがふとよみがえってきて、あなたはどうしてもそれを作りたくなるかもしれない。
一緒に作りたい人がいたら、その人が作りたくなるようにしてみてもいいかもね。
哲学的に「常識」を疑ってみる
「世間ではこんなことが起こってる!」
「これが【常識】になってる!」
でも、まって。
その「常識」も、時代の流れの中で作り上げられてきたものじゃないかな。
「価値」って言葉さえも、作られてきた言葉。
「常識」を疑うってことは、もしかしたら初めの「本物設定」を疑うことにもつながるかもしれないね。
「本物設定」が正しいかどうかは、議論する上でもっとも大事。
だって、それが間違ってたら、間違った結論しかでてこない。
うーん、哲学はそのもとになる「本物設定」も批判してきたし、いくらでも批判はできちゃう。
じゃあ、とりあえずあなたと私でその「本物設定」を決めよう。
二人だけに共通していることなら、見つけ出せるんじゃないかな。
あなたはそれで笑ったし、私も笑っちゃったからこれは良さそうだね、とか。
哲学的に世界情勢を考えてみる
あなたは現実を見たくないかもしれない。
でも、相手はそれを見るのが好き。
「戦争とか、犯罪とか、知ると暗くなっちゃう。なんでそれをまっすぐ見てられるの?」
その答えが知りたくて、見たくないことにも目を向けてみる。
見ないことより、その答えの方が気になったから。
覚えていたケーキのレシピが、気になりだしたから。
お腹もすいてきた感覚あるし。
まずは材料を集めて、どんなケーキが良いか考えてみる。
一人で浮かばなかったら、聞いてみようかな。
哲学的に、ちょっと現実的に
戦争や犯罪や事件というものから、目を背けがちになるほど情報が多い社会。
それはもちろん肯定できる。
それを肯定する哲学として、「本当」なんてない。
この立場にたてば、何があったとしても本当なのではないのだから関係がない。
世界と私は関係がない。
なので、自分にとってつらくなる物事には目を向けない。
そう思うことはできる。
でも、何か気になる。
目を背けているということが、なんとなく気になる。
私は生きていると実感している。
私は生きていることが本当だと思っている。
感覚的に。
議論では解決することができない感覚が、それを見てと言っている気がする。
例えば、「笑い」という感覚。
ショーペンハウアー曰く、
「ある概念と、この概念を使って考えてきた現実との不一致。
その不一致が突然に知覚されるために笑いが起こる。
笑いそのものがまさに不一致の表現なのである」(ちょっと省略)
論理だけの世界ならば、この不一致が存在しない。
笑いという感覚があるからそこに違いがあり、ある種の「本当」があると思い浮かぶ。
他の哲学者の引用で言えば、マルクス・ガブリエル。
彼は場面分けをして、その場面での真実を追求している。
この場面での「本当」がある、あなたと私とでの「意味がある」という立場をとる。
場面設定をした場合の「本当」はあると共感した場合。
その本当を探すために、目を背けていた事柄を見つめることもある。
例えば、戦争。
哲学的に、考えられることはないだろうか。
哲学的に、役立つことはないだろうか。
哲学の一面は、「本当」を追求すること、知を愛すること。