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トーキングキュア‐会話で癒される場合を考える。

おはようございます。けうです。

 

トーキングキュア、言葉で癒されるということを考えていたのですが、それなら逆の場合もありうるのだろうな、ということを考えていました。

トークで傷つけられる場合。

日常言語と人工言語

哲学では、日常言語学派と人工言語派とにわかれるようになっています。

大雑把に言うならば、日常言語学派では本質なんてない!

人工言語派は本質があって、だから曖昧な言語は語るようなことがないようにしよう、という学派です。

いうなれば、限定させて本質(記述が規定できるものがある)があるとします。

 

いうなれば、相対主義(本質がない)と絶対主義(本質がある)の対立がまだ起こっているとも言えます。

 

私たちの言語派ほぼ日常会話からなりたっています。

なので、本質なんてない、というときその人の意味するものが存在するし、相手の意味するものも存在しているんです。

でも、話し合いをするときに、人は一つの結論をだしたがったり、相手を論破しようとしたりしますよね。

 

この日常言語派でいえば、相手の言った事は受け入れるし、自分のいったことも受け入れてもらうから本質なんてないし、違った見方ができてよかったとなるんです。

 

でも、相手が論破してこようとするときには何が起こっているのか。

そのときには人工言語派のようにある一定の本質をつくり上げるんです。

 

例えば、お医者さんが病気の判断をするときなんかには人工言語派にならざるを得なくなります。

その人の病気を特定させて、それを治そうとするからです。

一つのことに意味をもたせて、それを治そうとするならば何か一つの本質をつくりあげなければいけない。

そして、医療なのでそれを治すと言う作用に向きます。

 

私たちが一つの意味を確定させるときには、何かそれに対して行動を起こすときなんですよね。

行動を起こさなければ、ずっと判断保留で言い。

だからここでは、討論をしていたとして、何か行動を起こすときにどちらかが歩み寄って一つの結論に至ります。

でも、本質を必要としない場面なのだとしたら、意味を確定する意味がない、と私には思われました。

 

なので、その何かを行動する時以外の話し合いは、日常言語学派にもとづいた相対主義的な本質なんてない、という話し合いでいいのではないかと思いました。

 

意味を確定させないで、相手を認め合うこと。

人間は承認欲求を持っていると言います。

その場合に、トーキングキュアというような状況が起こるのかなと思いました。

話し合いでの否定

ただ、その逆のことを考えてみます。

自己否認。

自分を否定される場合です。

その場合、話し合いの中では何か本質の決定がとりまとめられます。

それが論破につながるような考え方です。

何か一つの物事を決める。

そして、それを実行するならいいんですけど、実行をせずにそうだと決める場合に何がおこるのか。

例えば、おまえはバカだと言われたとしましょう。

いろいろな理由を述べられて、それが世間的にバカと結びついているからあなたはバカなのだといわれたとします。

でも、バカという言葉には世間的な一つの見方だけがあるんですよね。

その見方自体が人工言語派といった、ただ一つの見方に従っている見方がある。

そして、そのバカというのに反論しようにも反論できなかったとします。

そして、バカという本質だけがいわれたとしましょう。

その場合は相手を否定すること。

さらには承認欲求も発動させません。

その場合は、トーキングキュアには向かわずに、かえってトークによって人を傷つけることになるんだろうな、と思いました。

このように、本質というものを決めておくというのは差別をうむということ。

 

そして、その差別なんですが、ある意味では必要とされています。

だから、差別だからやめようというのができない。

なぜなら、そうじゃないともし病気ならば治せなくなってしまうし、法律が制定しなくなってしまうし、私たちがルールに従って行動できなくなってしまうから。

 

でも、このような時はやはり人工的ですよね。

人工という作り上げたものに従う、というイメージです。

科学信仰は人工言語が増える

近年、哲学では人々の科学信仰を懸念しているんですよ。

なんでもある一つの正しいことがあって、それ以外を排除する傾向です。

それがおそらく、日常言語にも及びやすいのではないかと思いました。

 

場合分けが出来なくなっている。

意味を確定させた方がいい場合と、意味を確定させても仕方がない場合があります。

意味を確定させて行動するような前段階の場合ならば、相手をそこまで否定する要素はない。

判断を保留させておけばいいんですよね。

それは一つの意見なのだ、と。

私は何人もいる(脳科学から)

人間は私と社会的な私という二つの自己を持つ、なんていいますが、最近の脳研究ではその自己というのが何人もいるということが分かってきたそうです。

思ってみれば、無意識な私も私なわけで、意識しているのが確定した一つの私ではないんです。

私が何か一つのことに集中していても、私は並行して酸素をすっているし、手や足なんかも動いている。そこには何人もの自分がいるといいます。

 

では、なぜ私たちは2つの自己しか多くはつくり出していないのか。

特には私という一つの存在として、今思っていることが正しいのだと、今のこの感情はこう!というように確定できるのか、ということが逆に不思議になってきます。

 

昔、分裂病という病があったのですが、もしかするとそれが病なのではなくて、私たちが自己を一つにしていることが不思議なコトだと捉えてもおかしくはない。

 

私は日々何かを決定させて動いているけれど、思考の中だけであって行動しないときには考えが自由に浮かび上がっています。

それを受け入れてくれたり、それについて様々な意見から語り合えることはトーキングキュアであって、対話するのが楽しくなるんだと思われます。

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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