オルテガの「大衆の反逆」は予言書であろうとしたと言われています。
20世紀的人間と社会・国家の特徴を分析することで、今世紀における人間の生・社会の生がはらむ危険を指摘しているからです。
「大衆の反逆」のあとがきでは、オルテガが警告をならす現象が今の日本に当てはまるのではないか、と述べられています。
大衆人の生の中心的な願望がいかなるモラルにも束縛されずに生きることにあるということ
(大衆の反逆 神吉敬三訳 p271)
モラルとは本質的に何かへの服従の感情であり、奉仕と義務の自覚である。
(p274)
イメージがだいぶ違ってきたかも…
- 大衆化した原因は何か
- 大衆と世人(ダス・マン)を比べてみる
- モラルのとらえ直し
まずはオルテガのいう大衆がどのような人々でどのように発生したのかを掴んでいきましょう。
大衆化した原因は何か
オルテガがいう大衆は、一般的にこのように言われています。
「大衆の反逆」から抜粋します。
大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。
(p17)
本から大衆をまとめます。
大衆
- 人の努力に対して恩義を感じない
- 自分の意見を一般的な考えとして、他の人の意見を聞かない
- 少数を排除する
- 自分を完璧な人間だと思っている
- 自己完成への努力を自ら進んでしようとしない
- 波のまにまに漂う人間
このような大衆が生み出されてきた原因を追っていきます。
大衆教育
大衆が生み出された原因の一つは近代教育。
産業革命以後、教育によって産業に必要な人材を生みだそうとしました。
同じような作業を我慢強くできるような、産業の労働に見合った型にはめた教育です。
勉強の他にも教育内容があります。
社会の規則に従って長時間そのことに従事できる人間を育成することも目的の一つです。
大衆は気が付いた時に民主主義にいた
歴史を物語側面からみてみましょう。
例えば、童話。
このようなハッピーエンドで終わることを私たちは期待するのですが、現実は違います。
白雪姫やシンデレラが王子様に見初められたというそのことだけで、ずっと幸せな日々を過ごせたのでしょうか?
このような物語での解釈を歴史に当てはめます。
私たちは民主主義にいます。
発生した経緯として、絶対王政に虐げられてきた人々が革命を起こして民主主義を実現してきたという歴史がありました。
今を生きる私たちはその恩恵の上にいます。
当たり前のように、民主主義を意識することなく空気や水のようにそこにあるものとして捉えざるを得ないのです。
あっ、無意識にスマホ使ってるけど、ここにも恩義があるのか…
気がついたらご飯がある、気が寒くない、気がついたら恐喝の恐怖がない。
初めからお城に生まれてくる赤ん坊のように、気が付いたらそこに私たちはいるのです。
民主主義は良いものだったのか問題
絶対王政に苦しめられてきた人々は、民主主義を目指しました。
虐げられてきた人々は特に、その運動に参加したでしょう。
そこで理想の民主主義を実現したと当時の人々は思いました。
- 死の恐怖から民主主義を勝ち取って、理想に燃えていた人々が心に抱く「民主主義」
- 生まれたときから当たり前のように存在していた「民主主義」
民主主義という形は一緒なのですが、それぞれに思い描いている「民主主義」は別なものだとわかります。
当たり前のように存在する「民主主義」では、統制を乱さないような教育が敷かれ、それを良いものと信じて疑わない人々がいます。
「勝ち取ってきた民主主義」という闘争の精神までは受け継がれないからです。
反対に、「民主主義は良いものだ」という価値観だけが受け継がれた結果ともいえます。
歴史は繰り返す…
さらに、大衆を掴んでいくために、大衆と似て捉えられることがある世人「ダス・マン」と比較してみましょう。
「大衆」と「世人(ダス・マン)」の違い
「大衆の反逆」を読んでいると、オルテガは哲学者でもあったのだとわかります。
なので、哲学者ハイデガーが唱えた世人(ダス・マン)と比較してみます。
世人(ダス・マン)⇒日常に埋没するような生き方
みんなと同じ意見を言い、同じ行動をする「誰でもない人」。
同じ意見なので、他の人と交換可能な人。
- 大衆⇔エリート
- 世人(ダス・マン)⇔本来性
>>世人(ダス・マン)とは
大衆の対概念エリートとは
エリートを「大衆の反逆」からまとめていきます。
- 他の人々以上に自分自身に対して、多くしかも高度な要求を課す
- 自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを肝に銘じている
だから、愚劣さから逃れようと努力する - 自分を疑い、自己完成の努力を自ら進んで行う
- ある環境の中の難破者として自己を見出し、その中で浮上するために何かをなそうと努力する
オルテガはエリート(貴族)を心の持ちようだといいます。
エリートは立ち止まることなく努力します。
では何に向かう努力なのかといえば、ここにモラルを置くことが出来ます。
ちなみに、エリートが動的な存在だということは、エリートだと思われた人でも努力をやめればエリートではなくなります。
エリートと本来性の違い
ハイデガーは本来性でモラルを説きませんでした。
エリートを「モラルに向かい努力する人」ととらえた場合に、本来性との違いが明確に浮かび上がってきます。
ハイデガーの本来性を「人は死ぬ存在なのだから、精一杯努力して生きよう!」というように間違えて解釈した場合に、エリートと本来性が似たものに捉えられてしまいます。
ここでなぜエリートと本来性を比較したのか。
その理由は「モラル」があることによって、哲学の分岐が起きるほど、重要概念だからです。
ここでの最大の違い「モラル」に焦点を当てていきます。
オルテガはエリート(努力する生、モラルに向かう生)であろうとしたのではないか、というオルテガの信念も見えてきます。
「大衆の反逆」が指摘する問題点
オルテガは、モラルのなさがこれからの問題になってくると指摘します。
オルテガのモラルをまとめます。
モラルについて
- モラルとは服従の感情、奉仕と義務の自覚
- 自分自身を支配するもの
- 生きるということは何か特定のことをなさなければならないということ
- 命じるということは、人々に仕事を与え、人々をその運命の中へ、その常道の中へ導入することー
つまり、人々が逸脱することを防ぐ
支配や命令をモラルと関連付けて読むことで、オルテガの言うモラルの内容が見えてきます。
オルテガが本を書いた1930年代はファシズムがありました。
ファシズムがどのような形だったのかといえば、民衆が大衆的にその思想を支持したのです。
現代は何に支配されているのか
歴史的に見れば、国家には運動がありました。
君主制から民主制への運動のように、起点と目標があるからこそなりたっている国家。
しかし、民主国家になって、私たちが支配を受ける存在というのは私たち自身になりました。
>>フーコーの生の権力
自分たちで自分たちを支配しているのです。
例えば、列からはみ出さないようにする、生きることが一番大事だ、迷惑をかけないようにする。
常に変な行動をとらないように、自分と周りを監視します。
歴史から見ても、人間社会というのは何かしら支配を受けています。
支配されているから運動を繰り返す、とも言えます。
人間社会はその本質上、好むと好まざるとにかかわらずつねに貴族的である
(p24)
- 支配されているものが良いもの(モラル)の場合、それになろうと自分自身で努力する。
- 支配されているものが悪いものの場合、それを取り払おうと努力する。
支配を受けるからこそ、それに立ち向かおうと努力します。
オルテガはもし支配がなければ、自分自身を支配しないことにも慣れてしまい、美徳や能力もすべて雲散霧消(うんさんむしょう)してしまうとも述べます。
支配の重要性
支配はどれほど重要なのでしょうか。
支配者の不在は必然的に能力と才能の消滅につながる
(p205)
なので、オルテガは支配者を大衆に意識させようとします。
現代社会は自己の固有の方向を自分で発明せねばならぬ社会
(p 298)
オルテガの「大衆の反逆」には、大衆に向けた皮肉がちりばめられています。
そして、実際にこの論文は大衆への攻撃的論文第一号なのだ、とも述べています。
人々に自覚を促したいからです。
人間とは、好むと好まざるとにかかわらずその本質上自分より優れたものによる示唆を求めざるをえない存在であるー
もしかかる示唆を自力で発見することができた人があれば、それが優れた人、選ばれたる人であり、もし自分で発見できないならば、それはとりもなおさず大衆人であるということであり、選ばれたる人から示唆を受ける必要があるのである。(p 164)
批評とは強力な個性に裏打ちされ、力強い肯定もしくは否定を行なうものでなければならず、そうであって初めて、自ら律する力をもたない大衆に強い示唆を与えうるものである。(p 286)
オルテガがこの本を書いた目的も見えてきます。
- 支配を見つけるように促す
- モラルを自覚したならば、それにむかって努力ができるように促す
- 大衆は努力によってエリートになりうる
モラルの内容
オルテガはカント哲学を骨の髄まで学んでいたと言います。
(哲学部で博士号をとっています。)
カント哲学をオルテガは乗り越えようとしました。
だからこそ、自ら政治の世界へと飛び込んだと解釈することも可能です。
実際に政治をやるという実践哲学!
オルテガはそこで公約を挙げて、それにむかって努力しました。
ハイデガーの本来性は世人にとって理解しがたいものですが、オルテガのエリートの努力は明確なものが良いとしています。
それに向かって努力ができるからです。
政治の公約というのは明らかにされている努力内容です。
公約までは詳しく触れていませんが、それは運動を続ける上でそのときに目指したい内容です。
例えば、マルクス・ガブリエルがモラリティの資本主義(モラルがお金儲けにつながる)というわかりやすい思想を企業に広げているのも、これと似たものがあります。
(今は企業のほうが力を持っている時代だとも言われています)
オルテガはエリートであろうとしていた
社会を社会たらしめ、それを不断に推進してゆく力は、卓絶した一人ないしは少数の模範に追従したいと感じる大多数の生々しい自発的な衝動である
(p 296)
オルテガがその一人(エリート)になる努力をしている信念がみて取れます。
ただし、この一人はエリートではない可能性もあります。
「その指導する一人が大衆」という可能性です。
努力ではなく心地の良い指導者(大衆)に従うことによって、国家は運動をやめてしまう危険性があります。
「モラル」を扱う注意点
オルテガの思想に「モラル」を見ることで気を付けなければいけない点があります。
冒頭で話した通りに、モラルにはお説教臭さのイメージが一面ではあるからです。
決まった正しさがあるという誤解。
なので、さらにモラルのイメージのとらえ直しをしていきます。
オルテガはこう述べました。
思想とは真理に対する王手である
(p101)
つまり、これが真理だと言い張る思想は思想性を持っていないのです。
唯一の思想だと思ったとたん、それは思想ではなくなる。
例えば、あなたは叱られました。
「大衆の反逆」の問題提起まとめ
オルガノは20世紀的人間と社会・国家の特徴を分析することで、人間の生・社会の生がはらむ危険を指摘しました。
危険というのは、自分自身を支配するようなモラルを置かないことによって、自分の努力をやめてしまうことを言います。
努力をやめた人が大衆です。
国家は運動によって成り立ちます。
そして、人間にも運動(努力)が必要だというのです。
努力する人がエリートです。
オルテガは自ら人を鼓舞する論文を書き、さらに政治に身をおくことで常にエリートであろうとしました。
その姿や論文は、のちの人に彼の思想を伝えていきます。
オルテガの本には、魅力的な言葉がたくさん!