おはようございます。けうです。
今朝起きて思った事。
7時だったんですよね。
あっ、いつもよりかなり遅いと。
で、いつもは本を少し読んでからラジオの原案を考えてるんですが、今日は起きた時思ったことを考えてみようと思います。
自分の体内時計についてです。
私たちは時間を無意識的に把握しています。
このぐらいが一分かな、とか。
これって私の場合あてずっぽうだったんですよ。
ちょっと昨日のツイートの引用を一部します。
「もちろんちがうよ。ぼくは当てずっぽうは決してやらない。あれは癖になると大変だ。推理力がだめになってしまうから。」
というシャーロックホームズの一言です。
当てずっぽうとは何か
私は当てずっぽうでそろそろ何分かな、というのを当てる。
そして、この感覚というのは当てずっぽうなのかな、と思いました。
それで、私はいつも目覚ましの少し前に起きることが多いんですよ。
それは、無意識的にその時間に起きることを前日に記憶していて、それが実行されている行為なのではないかと思いました。
昨日はうたたねをしてしまったので、目覚ましを設定するのを忘れていたんですよね。
でも、今日はほんとにいろいろやれるぎりぎりの時間に起きれたのでよかったな、と。
そして、この時間は当てずっぽう以外にあてることはできるのか、をちょっと考えてみました。
この時間と言うのは物質的な時間のことを私はいっています。
哲学では時間って2種類あるといいます。
自分が実感している時間。
自分だけの時間。
例えば、相対的に私が楽しいことをしていると思ったときにはその時間が短い!と思うような自分の感覚の時間が一つ。
もう一つが、一時間100円とか、砂時計とか、物質的な時間です。
私たちはいつも、自分の時間から、物質的な時間を推測しているんです。
で、推測に使うのを当てずっぽうにしたくなければ、何か私が今見ているような背景とか、太陽とか、そんなことから推測することになるのかな、と思ったんです。
では、起きる時間の推測はどうなのか。
起きてから頭を働かせて、時計をみずに鳥の泣き声とか、朝日の様子だとか、そんなもので時間と言うのは推測はできますよね。
でも、私が起きたという現実があって、そこは無意識的に私はなにかしらの行動をとっているんですよね。
そう、この起きるということは学校にいかなくてはいけないから、この時間に起きるということと結びついていた場合、これは社会的な行為になるんじゃないかなって思ったんです。
起きた事というのは反射的に思えて、私は社会性に馴染んでいるからその反射だと思えた行動が社会的な行為になる。
そう考えたときに、私というのは私の発生から私ではないものと繋がっています。
私の自己の発生から、社会性を帯びていると言うことも推測できる。
そうなってくると、無意識的な行動はもしかしたら、無意識的な社会性をおびた行為なのかもしれないな、とも思いました。
さらに言えば、この時間間隔を当てずっぽうでなくす、ということは自分の感覚の体調管理にもつながることかな、とも思っています。
当てずっぽうと自分の性質
私たちは自分の感情がわからなくなるときがある。
いっぱんてきに当てずっぽうではなくてもわかるものが、推測しないとわからない。
でも、この感覚というのはみんなにあるとは思うんですよね。
そして、答え合わせがまた難しい。
自分でしっくりきたときが答えなのか。
さらに、しっくりきたのはなんでなのか、という問いを膨らませた時、それは答えのでない領域にすらいくことがありますよね。
でも、基準を社会性としておくならば、自分のことは体調ぐらいわかっていればよくて、そこで思考がとまるのかな、と思います。
ただ哲学者の場合に限っては、それを執筆することが仕事になる場合、それはまた社会性を帯びてくるのかなとも。
自分の感覚をぴたりと当てる、こういうのも推測の能力かもしれませんね。
無意識と社会性の時間間隔のつながりが強いと言うこと。
内部の内省が社会的なものごとと強く結び付けることが出来る感覚。
もしかすると、私たちは自転車に乗れるようになったり、車を運転で来たりということは意識せずにできる。
で、こういうのは後天的に身につけられたとわかる。
でも、初めの感覚は気づけないですよね。
無意識な中で、脳のその回路ができあがっている。
外部的な時間と言うのは、社会的な自分が把握しないとわからない。
でも、きっと小さい頃にやるからそれが得意になるということはあって、私はそういった自分の感覚を言葉にしずらいというのが元からあったんですよね。
そして、そういう能力は鍛えにくいのだということ。
自分の特性とか、性質はこういうふとしたことでも気がつけるのかなと思いました。
では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。