主体からみる本当のことを、キルケゴールは「主体的真理」と呼びました。
セーレン・キルケゴール(1813-1855)はデンマークの哲学者で実存哲学の祖とされます。
キルケゴールの「主体的真理」が、21世紀の精神哲学で見直される理由を、例とともに紹介していきます。
>>サルトルの実存主義はこちら
主体的真理とは
キルケゴールが唱えた主体的真理を客観的真理との対比から見ていきます。
主体的真理とは、私にとって真理であるような真理です。(哲学用語図鑑 参照)
これを、客観的真理と対比させます。
客観的真理は、一般的に考えられている真理です。
みんなが納得する普遍的な真理を言います。
客観的真理⇨一般的に考えられている真理
では、具体的にみていきます。
「それは盛大だね!」
これが客観的真理になります。
一般的にパーティーはきらびやかなイメージが先行します。
あれも、これも取り込む客観的真理です。
盛大、きらびやか、優雅、豪華、といったことが取り込まれることで、みんなが素晴らしく思うパーティーになります。
「つまらない。」
これが主体的真理になります。
それぞれが違う見解で、それぞれにとって真理があります。
いくら盛大なパーティーだとしても、本人にとってつまらなければつまらないのです。
あれか、これか(友達がいないからつまらない)を選択する、私にとっての真理です。
私は表現として「あれも、これも」と「あれか、これか」を使いました。
実はこの表現自体も哲学者が唱えているのです。
詳しく見ていきます。
「あれも、これも」と「あれか、これか」の違い
「あれも、これも」は哲学者ヘーゲルが普遍的な真理を導き出すことに使った手法です。
ヘーゲル(1770~1831)は近代哲学の完成者と言われています。
文字どおり、あれもこれも議論して取りいれて、一般的な真理にします。
それに対して、「あれか、これか」はキルケゴールの主体的真理です。
キルケゴール(1813~1855)と世代が少しだけ重なりますね。
いろいろな物事を取り込むのではなく、私にとっては「つまらない」「良い」といったあれかこれかを選択するのが主体的真理です。
では、主体的真理を21世紀の精神哲学者でもあるマルクス・ガブリエルの見解からみていきます。
主体的真理をマルクス・ガブリエルの見解からみる
主体的真理を「マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するⅡ」から読み取ります。
文章を引用します。
「完璧なパーティーなどないことは、みなさん、ご存知ですね。 あなたがそこに行くのは、社会的な状況を楽しみたいと思うからですが、いつも何かがおかしいのです。 あなたが期待していたものとは必ずしも一致しないものがつねに存在します。 それは、あなたが自分に対して抱いてほしいと思っているイメージに合わないイメージを抱く人が、その場にいる、という事実です。 私たちは一方では他者からある視点でみられることを望みながら、その一方で、それがゆえに他者が自分に対して究極の力を持っているという事実を忌避しているのです。」
先ほどの主体的真理を説明するのと同様に、パーティーについての例がでてきました。
ここであなたはパーティーを楽しみに出かけていくのですが、実際は違いました。
友だちがいなかったり、いたとしてもその中でイメージとの違いを感じます。
一般的なパーティーのイメージや、他者が抱くイメージとの差が自分を攻撃します。
マルクス・ガブリエルがこの例で言おうとしたことは、人間の自由は絶えず自らを攻撃すると言うことです。
ここでの自由の意味は、 「自分の行動が他人にもたらす影響に照らして自分自身を考えられる能力であり、その行動がとれる能力のことです。」と述べられています
つまり、客観的真理から人はその行動をとろうとするのですが、主体的真理であるイメージとの差がでてしまいます。
私たちは人間が好きなので良いイメージをパーティーに持ちますが、同時に他人が私たちに抱くイメージを楽しむことができません。
例えば、
(このパーティーには似合わないって思う人もいるね。)
(でも、お世辞かもしれない。)
真理が相対化している場合だと、よけいに複雑性は増します。
主体的真理で見ればいいのか、客観的真理で見ればいいのかわからなくなるからです。
普遍的な客観的真理があふれる世の中において、キルケゴールは例外者として存在することが本当の価値だと考えました。
キルケゴールの例外者
みんながみんな楽しめないとなれば、普遍的な価値に含まれない例外者として存在することを選びたくなります。
自分だけの価値を守る、すなわち、主体的真理を守ろうとするのが例外者です。
キルケゴールはこの例外者として存在することこそ、本当の価値だと考えました。
例外者として生きるということは、大衆の考えに埋没することがなくなります。
さらに、例外者として存在すれば、複雑なイメージを抱かなくてよくなります。
自分のイメージでいいからです。
ガブリエル・マルクスは自分の使命を自分自身で実感したと言います。
自分の感覚を磨くことで生きる意味がわかってくると本で述べていました。
主体的真理を持つ、例外者のようですね。
>>実存主義についてはこちら
では、次に客観的真理がもたらす悲劇を物語から紹介していきます
主体的真理を持たないアビリーンのパラドックス
アビリーンのパラドックスとは、ある集団が行動をするのに対して、その個々人の嗜好とは異なる決定がされてしまうことです。
具体的に見ていきます。
アビリーンとはアメリカのある町の地名です。
「楽しそうだね。(本当は他の予定があったのに)」
「よし、行こう!(この子のためだ)」
じゃあ、アビリーンに行くよー!!
みんなが賛成していたので、アビリーンに向かうことになりました。
けれども、実は提案者でさえアビリーンに行きたくなかったというパラドックスです。
さきほどの客観的真理に当てはめると、みんなのイメージとしてはアビリーンに行くことが一般的に正しいと言うことになります。
主体的真理では、個々人はみんな行くのを嫌がっていました。
結局はみんなでアビリーンへ行ったのですが、本当は誰も行きたくなかったのです。
このアビリーンのパラドックスはたびたび集団思考のひとつの形としてあげられます。
社会的な要因が個人の欲求を抑えてしまい、その結果も望ましくないものになります。
主体的真理のまとめ
主体的真理とは私にとって真理であるような真理です。
キルケゴールが大切にしていた真理でした。
これと対比する客観的真理は、一般的に考えられている真理になります。
「あれも、これも」と取り込んでみんなが納得する普遍的な考え方⇨客観的真理
さらに、アビリーンのパラドックスから、主体的真理の必要性を見てきました。
主体的真理を持つ例外者として存在することこそ本当の価値あることだとキルケゴールは考えました。