「人間としての自覚」
第5節「中国思想」
③朱子学と陽明学
- 朱子学とは
- 朱子学を批判した陽明学
参考文献 続・哲学用語図鑑(田中正人、斎藤哲也)、「哲学と宗教 全史」(出口明治)
朱子学とは
儒教が国教になってから1000年以上たった時代。
宋(960-1279)の時代になると、儒教は仏教や道教に論理的な対抗をしなければいけませんでした。
儒教は世の中を渡る具体的な処世術ばかりで、宇宙論やあの世のことは語っていません。
>>孔子の教え
儒教はスケールが小さい教えだというイメージが当時あったようです。
イメージを払拭するため、朱子は陰陽説や五行説、仏教や道教の思想などを儒教に取り入れ、朱子学(新儒教)を築きあげました。
朱子学といえば理気二元論と性即理です。
理気二元論とは
理気二元論とは、万物が理と気の二つの要素からなっているという考え方です。
理気二元論
- 理(万物の原理)
- 気(万物の物質を形成する気体状の粒子)
理は複雑なので、気から説明していきます。
粒子(気)とは物質を構成している微細なつぶのことで、素粒子・原子・分子などと言ったりします。
現代科学からみても素粒子は物質を究極までバラバラにすると現れる要素として知られ、研究されています。
理とはそれそのものであるための原理です。
つまり、理は万物の本質をあらわします。
>>イデア論
理とは万物が万物であるための法則!
性即理とは
朱子は特に人間の理について性と名づけました。
理は万物を成立させる規範的原理であり、理はまた人間の性(本性)でもあることを性即理といいます。
朱子は孟子の性善説を継いでいます。
>>孟子の思想
人間にとっての理(性)は道徳的な秩序(五常⇒仁・義・礼・智・信)だと朱子は考えました。
食べたい…
目の前にごちそうや大金があれば、情が欲をうみだしてしまうようなもの。
では、性から気を取り払うにはどうしたらいいのでしょうか?
居敬窮理とは
朱子は気が欲を生まないようにするために、理を学んで、気の暴走を抑えるようにしなければいけないと説きました。
この方法が居敬窮理です。
居敬と窮理(居敬窮理)
- 居敬⇒日常のどんなときでも意識を集中させ、つねに心の安静を心がける
- 窮理⇒自分の外にある一つ一つの個物に備わる理を学問で極めて(窮めて)いく
常に意識するだけでいいので、仙人修行のように山にこもったり出家したりする必要はありません。
居敬窮理によって自分の中にある理を悟った瞬間を目指す探求を格物致知(すなわち窮理)と朱子は言いました。
だから、科学の発展にはつながってないんだね
四書五経
- 四書(『論語』、『孟子』、『大学』、『中庸』)
- 五経(『詩経』、『書経』、『易経』、『春秋』、『礼記』)
『楽経』を加えて六経ともいうけれど、『楽経』は早くから失われた
朱子はあらゆる物事を学び、理を知る人物を聖人と呼んで理想としました。
ではこれを批判した陽明学も見ていきましょう。
朱子学を批判した陽明学
王陽明(1472-1529)は陽明学を唱えて朱子学に対立しました。
朱子学の居敬窮理を試してみたのです。
王陽明は庭の竹林の前に座り、7日7晩にわたって竹を見つめていました。
ノイローゼになった…
竹林の理とは何かを、一心に考えて極めようとしたのです。
王陽明は熱心に朱子学も学んでもいたので(28歳で科挙に合格)、四書五経の知識はばっちり。
そして、朱子学の性即理を批判して、心即理を唱えました。
- 性即理⇒心を性と情にわけて、性に理がそなわっている
- 心即理⇒両者を区別せず、心そのものに理が宿っている
知行合一
王陽明は人間の心には理がすでに備わっているという意味で、人はみんな聖人だと考えました。
備わっている理を実行すると、そこに善が生まれます。
自分が親切だと思うことをやりなさいって