おはようございます。けうです。
「はじめてのウィトゲンシュタイン」を読み進めています。
私は言語を分けることが好きです。
例えば行動と行為の違いだったり、情報と知識の違いだったりと、分けることによってその言葉の理解が広がるし、違いが明確になることによって使いやすくなると感じるからです。
本の中で「推論」と「推測」を分けて説明していました。
私はぱっと聞いたときに、この違いが分かりませんでした。
推論と推測
本を元に説明してみます。
「推論」とは、ある事態からどのような事態が必然的に導かれるかを確認するのが、推論である。
例えば、私はお昼にステーキとパフェを食べたならば、私はお昼にパフェを食べた。
このようなことは、必然的に起こったことです。
もう前者でパフェを食べたことを言っていて、それを繰り返し言っているからです。
だから、世界が破滅しようとも、今日のお昼に私がパフェを食べたならばパフェを食べたということができます。
では、「推測」とは何か。
これは、これまでずっと私はお昼にパフェを食べてきた。
だから私は今日のお昼もパフェをたべるだろう。
というのが推測になります。
まだ私の昼食が訪れていない状態でそれを思い描いていることが推測。
そして、これを元にウィトゲンシュタインの文章を引用します。
「現在の出来事から未来の出来事を推論することは不可能である」、と。
未来の出来事はどんなことであれ推論することは不可能な理由は、まだそれを実行していないので、必然的ではないからです。
私がお昼を食べようとして、いつもパフェをつけているのに、今日に限ってはどこからも入手することができなかったという場合があります。
そして、この推測は私たちがそうだと思い込んでいる事柄にまで及びます。
太陽がいつも上っているから、明日も太陽が昇る。
これも推論できず、推測になります。
そして、この文章がでてきます。
「論理の外ではすべてが偶然である」と。
因果関係の否定
ショーペンハウアーも因果関係を否定していて、その元はスピノザだったといいます。
そして、ウィトゲンシュタインもスピノザを引用しています。
スピノザの「永遠の相のもと」から、すべてが偶然であるといいます。
それをウィトゲンシュタインは現実に起こった推論できることの他を偶然といいます。
この永遠の相のもとでは実際に起こったこと以外のことは偶然であると。
今の私たちは科学信仰を起こしていると言われています。
水が100度になったら沸騰するだとか、水が何度になったら氷になるだとか、そのような実際に起こっていないことをあたかも正しいということができる。
何かの理論や実験もそうです。
それがその時点で正しくあったという過去は否定しませんけど、それを今にあてはめても通用すると考えるのは推測の域を出ないと考えます。
私たちは論理的というときに、推測をしています。
でも推論ということが多く、それが確実に起こるものだと思ってしまう。
でも、推論と推測をわけることでその違いを明確にします。
私たちは推測に価値を持ちすぎている、と。
例えば、因果関係を否定すると言う論だと、今でいうマルクス・ガブリエルも同じ主張をしています。
だから、ユニコーンを存在する、とか一見とっぴょうしに見えることが言えるとする。
この場合も、正しい、間違っているが問題にはなっていない。
未来のことを語る場合に、正しいことを示せないからです。
例えば、討論をします。
あなたはいつも部屋を散らかしている。
だから、この先もずっと部屋を散らかしているだろう。
こうやって言われたとすると、これは未来のことなので推測の域をでません。
科学的に水は100度で沸騰する。
これも私が今実験をしてみるとしないかもしれないし、沸騰したとしてもその一回限りが成功しただけかもしれないと言います。
ここに知の移り変わりも関わってきます。
知の移り変わり
ユニコーンは存在する、なんて本気で言いだすとすれば、今の世の中にとってそれを言う人は狂人に思われるかもしれない。
でも、もし未来的にユニコーンの存在が発見されたならば、その人は天才になるかもしれません。
このように、私たちは今の価値観にひきづられているということ。
ウィトゲンシュタインは科学で説明できると信じる前の、これは神秘だという考え方をします。
自然法則についても神秘だからすごい!と。
説明はどこかで終焉して、その終焉においてはすごいね、ということで終わる、と。
すごいというのがポジティブかというとまた違ってしまうかもしれませんが。
すべて説明できると信じているし、自分の言うことが未来において正しいと思うことが迷信なんだと語っています。
だから、討論したとしても相手を完璧に否定することはできない。
可能性は生きているから。
私たちは価値観によって語ることができているけれど、その価値観を失ってしまったら語ることができなくなってしまう。
なぜ私は語っているのか。
この因果関係を否定する見方は永遠の相での見方です。
なぜウィトゲンシュタインは語ることができるかと言えば、その時点においては「永遠の相の元」に立っていない。
世界を語れるのは、世界の中に入っていないのと同じように、世界の外にたって語るから。
これはカテゴリー分けをするといいかもしれません。
私は永遠の相の元の中に入って話をするならば、世界を正しく見られる。
ただし、世界を語ったり、永遠の相の元を語る時にはその外でしか語れない、ということはあるかもしれません。
では、お聞きいただいてありがとうございました。