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失語症と記憶-名前がわからなくなる不思議

おはようございます。けうです。

 

私はいつも、会話が上手くできません。

文章を書けといわれると、すらすらと書けるのですが、言葉にかぎっては出来ないのです。

だから、毎回ラジオをとる前に原稿を書いています。

もうこのラジオは300回に近くなっているのですが、それでも話すことが慣れないのです。

これはもう、何か原因があるに違いない、という確信に変わってきていました。

そして、調べてみるとその根拠になるような事例というのは存在します。

 

今「言葉と脳と心」山鳥重(やまどりあつし)さんの本を読み進めています。

その第一章から興味深いことばかりだったので紹介していこうと思います。

 

名前がわからなくなる仕組みとは

 

私たちはテストで記述する時には、名前を書きます。

この名前を書けるとテストで良い点が取れて、成績も上がります。

私は昔からこの作業が苦手でした。

内容理解はしているんです。

こういう現象がおきるのだ、とか、これをやった人物はこんな顔だったな、とか。

でも名前だけがでてこない。

これを脳科学から説明していました。

呼称能力

本ではまず私たちが名前を思い浮かべる能力を呼称能力と呼んでいました。

これはそのまま名前だけです。

カタカナ表記でイメージするとわかりやすいのですが、哲学用語でいえばシニフィアン。

ただの名称のことです。

カネと聞いたときにお金とお寺の鐘とかいろいろと浮かびますけど、そのイメージの前のカネという発音のことを呼称と呼んでいます。

テスト問題で穴埋めする際の表記ですね。

語義理解能力

それに対して、付きまとってくるのがイメージです。

カネと聞いたときにお金かお寺の鐘かイメージを確定させるものになります。

これを語義理解能力と呼んでいました。

哲学用語でいえば、シニフィエと呼べばいいのだと思います。

意味を理解する能力です。

語について語るのは哲学だけなのかと思いきや、脳科学でも重要になっているようです。

呼称能力、語義理解能力どちらの問題?

そして、失語症、名前がでてこないことに関してどちらに障害があるのか、という話になります。

 

両方の場合もあれば、どちらか片方ということもあります。

テストで四角の穴埋めに対して100点が取れたとしても、そのイメージが結びついていなければ、その学問にたいして精通しているとは言えません。

逆に穴埋めができなかったとしても、他の言葉で説明できたとすれば、まったく精通していないとは言えないのです。

健忘失語とは

そして、脳の一部を欠損して失語症になってしまった男性に、デスクはどれかを医師が尋ねたそうです。

すると、その男性はあるデスクの前にたたずんで考え出しました。

「これをデスクと呼んでいいのですか?」と。

「このデスクは自分がよく使っているデスクとは違うので、本当にデスクなのかどうかがはっきりわからないのです」と。

 

この男性は健忘失語と呼ばれています。

健忘の健はよく、とか非常にという意味です。

つまり、言葉をよく、非常に忘れるというを意味しています。

 

その健忘失語だけだと言葉を二つにわけた意味がないので、もっと深く探求していくと、言語症状には「抽象的態度の喪失」があると説いていました。

抽象的態度と具体的態度

これと対をなす言葉が「具体的態度」です。

具体的態度

ある一つの鉛筆を見るとします。

そのときに、細かいことに捉われてしまうとします。

削り具合やマークや書き心地や真の太さなど。

これらのイメージを膨らませていったときに、与えられた刺激の具体的な性質にとらわれてしまう。

これが具体的態度です。

この場合に「鉛筆」という一つの名前が思い出せなくなってしまうのです。

具体的性質の一つが名前になってしまっているとも考えられます。

抽象的態度

これに対して、鉛筆を見せられた場合に、鉛筆を数ある一つの引き用具と見なします。

すると抽象的にその部類にはいるものなのだ、と理解したときが抽象的態度です。

その対象がほかの類似の対象と併せ持っている共通の性質も見ようとする力です。

オッカムの剃刀「普遍」と「個別」問題

この問題も哲学ではオッカムの剃刀で扱いました。

「人間一般などというのは存在しない」

なので、これは抽象とか普遍とオッカムは言いました。

全体をまとめ上げる用語ですね。人間、動物、世界、などなど。

 

これに対して私たちが調べられるのは、個別だけだと彼は言いました。

花子さんとか、アンさんとか、一つ一つの個別として存在するモノのことです。

この私が使っている一本の鉛筆とか。

具体的に一つ一つに名前をつけて呼んでいるその対象です。

 

オッカムの剃刀は説明するときには普遍ではなくて、個別のものを取り扱おう、私が認識できるものだけを取り扱おうと説きました。

 

その具体と抽象が脳科学でも問題になってきます。

 

モノの認識にたいして、抽象で理解するのならばモノの名前が浮かんでくるのだけれど、個別の場合だとモノの名前が浮かんでこないことがある、という症状です。

脳の機能でも違っていた、という話です。

抽象的理解と具体的理解はものによる

そして、脳の障害から判断するのに、この2つはきっぱりと別れて忘れやすい、しにくいとは分かれていないそうです。

この用語は抽象的理解、この用語は具体的理解、というものがあるそうです。

 

私たちは得意な教科、そうでない教科があります。

人の名前がよく思い出せない人でも、物の名前はよく覚えているということがあります。

だから、失語といっても、様々な人特有さがでてきます。

脳の部位によっても、人の名前は偏桃体という感情などを司るところに結びつきが強い様です。

脳のこの部位ではこの名前のものが得意だとか、ありますよね。

感情に結びつく偏桃体ですが、この偏桃体は左脳側の海馬にも、右脳側の海馬にもくっついているそうです。

そういった違いから、その回路を作りやすくなって思い出しやすい、思い出しにくいというのは関連していそうです。

 

固有名詞を聞いてたどる心理過程と、抽象名詞を聞いてたどる心理過程ではことなる道を通る用です。
そして、用語においても人によって辿る理解が違うということ。

 

ここまでが一章の内容でした。

私に当てはめるならば、私は抽象理解はしているものの、一部において固有名の結び付けにおいても抽象理解をしているということがおこっているのかもしれません。

この名前はこれだから、覚えて!

と、一対一の関係をいわれて、その結び付けをすることが一定の言葉において難しいと言うこと。

人の名前は特に浮かんでこない場合があります。

記憶術ではそれを鍛えようとしますよね。

でも、失語症におってその結びつけが苦手で、いつも抽象理解になってしまう場合、特定の暗記作業は苦手というのは私におこってくるのかもしれないな、と思いました。

特定とつくので、あるものに関しては抽象理解はしていないとは思うんですが。

覚えにくいものと覚えやすいもので脳の中での結びつきが違うのだろうな、と私は考えています。

 

では、聞いていただいてありがとうございました。

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