おはようございます。けうです。
今日は前回に引き続き、「言葉と脳と心」を取り扱います。
2章「発話できなくなるふしぎ」からです。
失語症とは
失語症の中の失語症とよばれているのは、ブローカ失語といわれているそうです。
脳の部分のブローカと呼ばれる部分が損傷を受けた場合に、そもそもの言葉が2,3語しかでなくなってしまうことをいいます。
ブローカ医師にちなんでつけられた名前なのだそうですが、この部分が損傷している患者の例を2例ほどあげていて、その患者はたんたんとしかいえなかったけれど、話の内容は理解していたことなどをとりあげていました。
・彼は人が言うことをすべて理解していた。
・彼は自分が使う4つの語彙を使い分けていた。
・精神的に健全であった。
・彼は数の勘定を少なくとも二桁まではしっていた。
これらから、ブローカ医師は失語症とは音の組み立てにあると結論を述べたそうです。
ニーチェの「神は死んだ」の背景
少し余談です。
この研究が発表されたのが1861年です。
哲学者ニーチェが生きていた頃の発表なのですが、この頃彼は「神は死んだ」と言っています。
キリスト教の価値観だと、初めに言葉ありきといっていて、その言葉は神と共にあり、言葉は神なりとしんじられてきたそうです。
つまり、「言葉は人間がつくり出すものではなく、神そのもの、人間存在を可能にする原因そのものと信じられていたのです。これほど神聖な言語能力が、たとえその一部だと保留をつけているとはいえ、脳の特定の領域の働きに依存しているなど」そのような主張ができる時代になってきたのだそうです。
今では私たちは分析哲学で言葉による分析で人のがわかるということがありますが、宗教観を脱したからこそ分析できるようになったともいえます。
ニーチェの哲学はキリスト教を理解してからでないと難しいというのはここからきているのかな、なんて思い浮かんだので小話です。
続けます。
失語症の基本5つ
ブローカ医師が、言葉が口からでなくなるブローカ失語についてのべてから、ブローカ失語の基本特徴が5つにまとめられました。
現在はこのような定義です。
・音の組み立てが不鮮明。
・語彙数が限られる。
・文法精製能力がもっともよく使いこなされた単純なものになる。
・聴覚的な言語の応力は比較的よく保たれる。
・字を書く能力も、口頭での言語能力に対応して、同程度に障害を生じるが、読みの障害は軽度にとどまる。
この5つのようです。
ブローカは音の組み立てが不鮮明を強く言ったようですが、他にも述べられるような、語彙を思い出す能力やセンテンスを作る能力、音の組み立て以外の能力も低下すると考えられています。
「ブローカ失語の最大の特徴は、自分の思想表現に用いることのできる言葉の数、それも適切な状況で適切に使える思想表現の種類が極端に減ってしまうことにあります。」
そして、筆者の考える言語の流れはこのようなものだと説明します。
観念心象に対応するセンテンス性音韻塊心情(ありがとうございます、というセンテンスの音韻をひとまとまりの塊として意識する心の動き)の生成
⇩
センテンス性音韻塊心象の端悟性音韻塊心象(ありがとう、ござい、ます、など単語について心の中で意識される形)への分節
⇩
端悟性音韻塊心象の音節心象(あ、り、が、と、う、などの音節のイメージ)への分節
この過程を得ていて、正確に音を組み立てるには音節水準の運動記憶がなければ不可能だと説いています。
心の中のイメージを言語音系列へ発させることができなくなり、言葉が口からでなくなるのではないか、とまとめていました。
筆者は述べます。
「わたしはブローカ失語の基本障害は、リズム・抑揚・強勢(力をいれるところ)など、発語に内在する音楽的な側面にあるのではないかと考えています。このリズム・抑揚・強勢などのことを言語プロソディと呼びます」
まとめだけでほぼ構成されてしまいそうなラジオ内容が、以上が第二章のまとめになります。
私の感想
私はなぜしどろもどろな発言になってしまうのかに関して、この作者の言語プロソディがありそうだな、というのは強く思いました。
昨日私は音声チャットに参加したのですが、用語を説明しようとしたときに言いたいことが脳内にはっきりとイメージだけ浮かんでいたのですけど、それを言葉にできなかったんです。
昨日の内容を話そうと思ったときに、呼称能力、語義理解能力という単語のイメージが浮かんでいたのに、それを言葉として言うことができなくなった。
イメージだけがあって、頭が白くなってしまう状況です。
きっと私は言葉にしていうリズム、抑揚、言葉の強弱などを変換する能力が弱いんだろうなと話していて思いました。
他の人が私の言葉を説明してくれたときに、それがあっている、間違っているということは正確に判断できたからです。
そういえば、と昔を思い出すのですが、私は音の強弱が変だと言われていました。
内緒話が大きかったり、伝えなければいけないことが小さかったりと音声がちぐはぐだったんです。
あと、ときどき方言とはちがった発音が入ります。
「ようふく」のふくとかが今だに発音に迷ったりするんです。
発話するのに、その段階があることを強く意識できました。
筆者はさらにさきほどの段階を得ないで発話してしまうと、正確に単語に分かれていないままの発音が塊のまま表出されること。
なので、筆者は歌を歌ったり、感情を表出する一単語は失語症患者も出しやすいのだと語ります。
これは、3段階目の発音を気にしなくていいからです。
そして、私もこれには納得で、私は言葉の組み立てが下手なんです。
何かを報告するときに、言いたいことだけきっぱりと第一発言でいってしまうことがよくあります。
こころに浮かんだイメージで言葉にできたものを伝えてしまいたい、という衝動です。
私は仕事でこれをやっていたときに注意されたことがあります。
まず話すときは一呼吸置く、例えばけうですが、と電話では先に誰かを伝える。
それから、要件を話してくれ、と言われたことがあります。
伝えたいイメージだけがきて、それが上手く言葉の形式をとってくれないんですよね。
言いたいことへの思いだけが浮かんでしまう。
そして、これは議論のときもそうなります。
言いたいことだけが浮かぶのに、きちんとした文法が言葉として出てこない。
文字にして書いた方が私は浮かんできます。
きっと音声を気にしなくていいからですね。
それで、会話しているときなんかに、反論ができないのはそのとおりに思っているからだろう、と言われてしまう。
自分の気持ちを伝えるのが下手だし、しかも私の言葉を読み取ってくれる意志がある人でないと、私との会話を成立させることができないのだと思いました。
なので、私の言葉を聞いてくれる場合、私が言いたいことが浮かびます。
なので、相手の質問に対して思っていることを言うことができるけれど、それを流ちょうな音声を無視して理解してくれる人でないと、会話が成り立たないということが起こってきます。
私はさらに相手を意識するのが苦手なんですよね。
相手がどう思うのか、こういえば相手は伝わるだろうか、という考えにいたるとさらに発話できなくなってしまう。
私は独り言は良く言うんですけど、それは会話とは異なっていて、他の人が聞くと何を言っているんだろう?と疑問になるレベルです。
なので、私は聞く専門になるのかな、なんて思います。
ずっとイメージだけがあるから、言葉を書くときも短文で、イメージを伝える形をとりやすいのかな、と思いました。
私の書く文章は特徴を帯びていると思いますが、よくセンテンスが短くできるんですよね。
その言葉のまとまりのような文章になっている。
なので、私の文章は接続詞を無視した会話のようになっているのかな、と思いました。
脳の運動や音の分野に不具合があるとこんな苦労があるんだな、ということが自覚されます。
逆に私はこの文章はすらすらと書けているのですが、それは普通のことなのか、違うのか、それがわからないので一般的にはどうなのだろうと知ってみたいです。
では、聞いていただいてありがとうございました。