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思考感覚と思考感情

おはようございます。けうです。

 

「はじめてのウィトゲンシュタイン」を読んでいます。

ページが進みません。

少し読んでは膨大な考えさせられることがでてくる。

感覚と感情をわける。

このことについて話していきたいと思います。

感覚と感情をわける

彼は「純粋な持続」の有無という観点から感覚と感情の違いを捉えました。

 

感覚はワクワク、ドキドキ、チクッ、ずきっ。

言葉になっても感覚。痛い、気持ちいい。

 

感情は、怒っている、楽しい、悲しい、嬉しい。

 

 

感覚には純粋な持続、間断のない一定時間の持続があるとのべます。

例えば痛み。

これは生理的反応によって、5秒痛かったとか、5分痛かったと言うのは表現として通ります。

 

これにたいして、感情と言うのは純粋な持続はみられません。

5秒悲しかったとか、5分悲しかったと言うのは変に思う。

2日間悲しかったとか、何かの悲しみが1年間続いたというのは表現として自然です。

 

痛みに始まりと終わりがあるように、悲しみにも始まりと終わりがあるのは一緒。

ただし、表現を変えて1年間痛かったというのは変だけど、一年間悲しんだというのは自然。

そこには純粋な持続が感覚にはあって、感情にはない。

 

では、感覚と感情をさらにわける。

それを理由と原因によって分けていく。

感覚と感情を理由と原因によって明確にする

 

楽しい感情は楽しい感覚ではない。

 

原因と理由がある。

理由が言えるのが感情だ。

 

楽しむことはいろいろな感覚を含みます。

わくわくして楽しい。

ちくちくして楽しいとか。

 

感覚も感情にも、それを引き起こした原因が当然想定されるが、感情の場合にはそれに加えて理由も必要だと述べています。

涙を流しているから悲しい。

ずきずきするから悲しい。

感覚は感情の理由にもなります。

生理的反射も感情の理由になる。

 

ただしどちらにも原因はあります。

だから、感覚や感情が生じた。

でも、痛みなどの感覚は、実際に原因であるかどうかというのは、当人がそうだと同意することによって示されたりはしない。

何で痛いんだろう?

と言う原因を病院で知ったりする。

 

でも、なんで悲しいんだろう?

というのはまだ感情になっていないといいます。

その悲しみの因果的要素が、どのような事態であるかについて当人が同意、納得していることが不可欠になるという定義によって、私はそれに同意するから。

 

 

私が涙を流していてその理由ははっきりしない場合は?

怒りに結びつけるか、悲しいに、嬉しいに、どれに結びつくのかはっきりしない。

涙する、は感情ではない。

刺激に対する反応。

悲しいんだろう?というのは推測でしかない。

その悲しいだろうというのは感覚から引き起こされること。

感情は言葉にする行為、社会的にする行為にもなってくる。

言葉になっていない感情(これを感情と呼ぶのか議論を含む、反応かもしれない)が感情になるためには喜怒哀楽と言う言葉によって表される。

 

さらにいえば、自分の心はそもそも「知っている」「知らない」という知識の概念が通常適応される事柄ではない。

感情と言うのは言葉にされた時点で、自分から切り離される。

知っているというのは、自分の心ではなく他者の心について言われる事柄。

 

 

少し感情と感覚についての理解を深めてみました。

そこで、思った事。

思考感覚と思考感情

私は思考感覚という言葉をマルクス・ガブリエルさんが作った言葉として知っていて、それがずっと頭にあったんです。

私は思考感覚があるのではないかと疑ってきたけれど、思考は純粋に持続する場合と、しない場合がある。

ウィトゲンシュタインの論の展開と結びつけます。

 

5分間考えていた。というのは通じる。

 

かつ、1年間考えていたというのも通じる。

 

この場合、やはり思考を二つにわけるべきなのではないだろうか。

5分間考えていた、と語ることが出来る思考。例えば収束的思考のような、システム的な計算のような思考。

自分の頭にある法則、概念などを駆使してその場で問題解決を図ろうとする考え。

 

一年間考えていた、と語ることが出来る思考。例えば拡散的思考のようなひらめき、考えが思いつくという行為がおこる元になる考え。

この場合、私はある問いをずっと持ち続けている。

そして、ことあるごとにその考えが私の経験や新しく手に入れた材料なんかとともにやってきてひらめく。

ひらめくには、その元になっている問いがなければ、結びつかない。

 

拡散的、収束的思考は用語は他の人の用語だし、私はその用語の意図がわからないから、造語をつくり出してみる。

 

思考感覚と思考感情。

前者は5分持続する。

後者は1年間その問いがある状態、もしくは、気がつかないくらいずっとある状態。

 

痛み的に思考を捉える。

5分痛かった。

 

悲しみ的に思考を捉える。

一年間その考えがあり、何か閃くたびにそのことと結びつける。

当人が問いを認識している。考えている状態にあることを自覚している。

だから、私はずっとそのことについて考えを巡らせてきたということができる。

それが思考感情かな、と。

 

 

思考感覚も人からひどい一言がいわれた。

10分痛んだ、息苦しかった。というのは納得できる。

思考感情も人からひどい一言がいわれた。

一年間苦しんだ。というのも納得できる。

では、一年間持続していたと言うことを理由づける原因はそれだといえる。

 

私はなんで考えているんだろう、という理由が明確ではない場合、でも、考えている。

その時は思考感覚。

 

理由が明確になっていて、問いが明確になっている。

私はその問いについて一年間考えていたと言う場合、思考感情。

 

もとから、どうして理性と感情がわけられたのか。

無意識と意識がわけられたのがわかるけれど、その意識には痛みとかずきずきとか、ワクワクという感覚が含まれている。

無意識が感情なのではなく、感情も意識である。

 

かつ、感情も理性も意識していない無意識化の部分がある。

 

近年、考えだけに焦点を与えるのはおかしいといわれている。

人間は脳だけが取りざたされてきたけれど、身体の他の部分が第二の脳(腸)というような言われ方をしている。

脳だけ特別扱いするのが変になってきたのは、AIの誕生かもしれない。

でも、比較することそれ自体がおかしいのではないかと哲学では言われている。

では、思考がAIの方がすぐに答えをはじき出す。

このような答えと言うのはほぼシステム的な答え、これでいうと収束的思考、かつ、思考感覚的なときにおちいっている答えの出し方。

でも、機械は感情がないという。

でも、私たちは考えにも感情や情熱を持つ。

その問いがずっと持続して、いろんな創造をする。

 

機会に感情がないのだと定義づけられているとすれば、思考感情という語を導入してみてはどうだろう。今のところ機会にできるのは刺激に対する反応だけなのだと割り切ったら。

機械は入力すると、その答えをだすのに5秒かかるとする。

では、その5秒間は機械自身がもつメモリーのなかで答えを出す。

 

でも、機械は意図的に問いをもって、その問いについてだけ自分で答えることをしないと私は考えている。

そのとき、思考感情がない、といえるのではないか。

 

このように区切って考えてみれば、人は脳ではない、といえるのではないか。

機会と人間の違いも明確にでてくるし、人間特有にされてきた思考も、そのまま人間特有の思考感情としてあるのではないか、と。

 

奇抜な発想も論理展開をしていって、自分を納得できさえすれば、それが論として通じるのではないか。

論と言うのはそのように出てきたのではないか、と。

そのように思って、記事にしてみました。

 

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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