シーア派とスンニ派

シーア派とスンニ派の起源の物語|高校倫理2章3節イスラーム②

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
今回は
高校倫理第2章
「人間としての自覚」
第3節「イスラーム
シーア派とスンニ派
を扱っていきます。
前回はイスラームの起源ムハンマドの物語を扱いました。
>>ムハンマドの物語
イスラームは全2回にわたって書きますので、今回で最終回。
ブログの構成
  • シーア派とスンニ派の起源の物語
  • シーア派とは
  • イスラーム神学
(今回の記事は倫理の教科書ではあまり取り扱われていない個所です。)
参考文献「マホメット」「イスラーム文化」(井筒俊彦)、「世界史劇場 イスラーム世界の起源」(神野正史)

シーア派とスンニ派ができた物語

ムハンマドがイスラームを開教した時(610年)。

最初のムスリム(イスラーム教徒)はムハンマドの妻「ハディージャ」。

2番目のムスリムは幼馴染の「アリー」、3番目は奴隷だった「ザイド」。
4番目は「アブー=バクル」、5番目は「アーイシャ(アブー=バクルの娘)」です。
ムハンマドはアーイシャを3番目の妻にしています。
ムハンマド53歳、アーイシャ6歳のときに婚約です。
3番目のザイドはムスリムになることで奴隷から解放されたよ。
この噂から、奴隷の入信が進んだみたい
ここは年齢についてのコメントだと思ってた

ムハンマドには生涯12人から13人の妻がいて(諸説あり)、アーイシャが最愛の妻だったと言われています。

彼が死んだときも、アーイシャ(18歳)の膝枕だったそうです。

このアーイシャですが、ある事件を起こしました。

アーイシャの首飾り事件

ムハンマド率いる一団がメディナに帰還したとき、アーイシャが行方不明になりました。

砂漠に取り残されていたとしたら、死を意味します。

心配…

翌日、アーイシャは無事に帰ってきました。

イスラム軍の青年兵士に送られて。

これが大事件になるよ!
当時のアラブ人の習慣では、砂漠で男と一夜を過ごした妻は離縁。
不義を犯した妻は殺されるのが普通でした。
アーイシャはムハンマドにもらった首飾りを探してたみたい
誰もムハンマドに意見が言えない中、2番目にムスリムになった幼馴染アリーは進言します。
アリー「問題が大きくなる前に、離縁しなさい」。
結局、この事件はムハンマドが「アーイシャに不義密通はなかった。以後この件を疑ってはならない」という天啓を受けたとして、離縁することもなく解決しました。
預言で解決
以後、アーイシャとアーイシャの父アブー=バクルと、アリーの関係は冷えていきます。

ムハンマド死去

ムハンマドが亡くなると、誰が後継者になるかでもめました。

後継者のことをカリフと言います。

その頃イスラーム共同体(ウンマ)はアラビア半島の大半を平らげていますので、もう大きな組織。

「アリーを後継者に」という遺言があったそうですが、一説に、アーイシャはこれを握りつぶしたと言われています。

アーイシャは床に伏せっているムハンマドの預言をよく伝えていたよ
けど首飾り騒動の罪で、ムハンマドの葬儀には出られなかったみたい
一代目カリフには「アブー=バクル」(アーイシャの父)が選ばれました。
しかし、2年後には年のせいか(61歳)、心労のせいか、亡くなってしまいます。
二代目カリフには「ウマール」が選ばれました。
カリフ候補のアリーはなかなかカリフになれなかったんだね
ウマールはアブー=バルクがカリフになる手助けをしてくれた人物。
ウマールは10年ほど統治し、理想的な政治を行った指導者とされています。
しかし、ウマールは個人的な恨みから刺殺されてしまい、次の三代目カリフには「ウスマーン」が選ばれました。
「三代目カリフこそアリーに」という声が大きかったけど、アイーシャ勢力が反対したと言われてる

イスラームの内部分裂

三代目カリフにウスマーンが選ばれたことは「教団を崩壊に導く元凶」になったとも言われています。

ウスマーンは周りの意見に流されやすい。

ウマイヤ家(ウスマーンの出身)はこの機に各地の総督を自分たちのものにしました。

ウンマ(イスラーム共同体)の私物化です。

ウスマーン自身はとても熱心なムスリムだったみたいで、よく喜捨をしたし、奴隷を解放したと言われてる

もともと、先代までは「アラブ人の土地所有は禁止」だったのに、ウスマーンは土地所有を認めてしまいました。

これでいっきに反乱がおこるよ

彼の治世は「アラブ人至上主義」と呼ばれます。

12年ほど統治しますが、反乱によって殺されてしまいました。

次のカリフにはいよいよアリーが選ばれます。

ラクダの戦い

アリーは4代目カリフに選ばれました。

歴代、カリフ成立前に勢力争いがあったとしても、カリフが決まればみんな忠誠を誓っています。

ところが、アーイシャのいるアブー=バクル派、重役の多いウマイヤ派が反乱!

まずは656年、ラクダの戦い。

アーイシャがラクダに乗って出陣したことから「ラクダの戦い」と名づけられました。

アーイシャ勇ましい!
アリー派は、アリーの妻(ファーティマ)が流産・死亡した理由をアーイシャ側だとして長年遺恨があったとしている。
ファーティマは聖母マリアのような立ち位置の女性で、今も神聖視されているよ
アーイシャ側約3万人、アリー派約2万人の軍でしたがアリーは戦いになれていました。
アリーはすぐにこれを鎮圧し、主要人物のほとんどを戦死に追い込みます。
アーイシャ自身は蟄居(家の中に閉じこもって外にでないこと)させられました。

スィッフィーンの戦い

ラクダの戦いは治めたものの、すぐにスィッフィーンの戦いがおこります。

657年、スィッフィーンの戦い。
この首謀者はウスマーン統治の頃にダマスクス総裁になっていたムアーウィヤです。
「ウスマーンが暗殺されたのはアリーのせいだ!」
というのが反乱の理由。
ウスマーン統治時代に昇進をした人はムアーウィヤにつきやすい
アリーは暗殺に関与していなかったと言われていますが、「アラブ人至上主義」にアリーは反対していたので、その理由が通りやすかったのです。
イスラームにとって戦争は神裁裁判にあたります。
勝った方が神に愛されている。
アリーはイラクとヒジャーズ(アラビア半島の紅海沿岸の地方)から9万人の軍を召集。
当時でこの人数!この戦いの敵味方が今後の派閥に関係しそうだね
ムアーウィヤはシリア軍12万人を編成。
「アリー軍9万vsムアーウィヤ軍12万」
この戦いはもつれにもつれます。
当初、アリー軍が押していたのですが、ムアーウィヤ軍はクルアーンを取り出してきたので、アリー軍がひるみます。
「クルアーンの掟を破っているのではないか?」とアリー軍に混乱が広がったからです。
アリー軍は一時撤退。
しかし、これがアリー軍内部を分裂させるきっかけになりました。
アリー軍内部が2つに分裂
  • クルアーンを恐れる停戦派
  • 神の裁定(勝てば神に愛されてる)を信じる交戦派

神の裁定を信じているものからすれば、撤退というのは神に背く行為です。

このせいで交戦派からハワーリジュ派がうまれました。

ハワーリジュ派「クルアーンに背くもの(アリー)をカリフとして認めることはできない!」

スィッフィーンの戦いの結果

アリーはしばらく内部混乱(ハワーリジュ派)の鎮圧に力をいれました。(ナフラワーンの戦い)

アリー派は強かったので、ハワーリジェ派は劣勢にたたされます。

すると、ハワーリジェ派は自分たちの信条を貫くことにしました。

「神の裁定に任せる」

暗殺者をアリー、ムアーウィアの両方に送ります。

パワーリジェ派の信念

  • 暗殺されたら、神に見捨てられた
  • 暗殺されなかったら、神に選ばれた

このように考えたのです。

結果

  • アリーは暗殺される
  • ムアーウィアは生き残る
六信の一つ「予定(カダル)」は、どんなことも神の思し召しによって定められていて、起こるべくして起こった事件と考えるよ

こうして、ムアーウィアがアリーの長男ハサンからカリフ位をもらいうけて、第5代目カリフになりました。

ウマイヤ朝の成立

1代から4代までは選挙で選んでいたので正統カリフ時代と呼ばれます。

しかし、ムアーウィアは自分の子孫をカリフにつけるように画策していきました。

  • 1-4代まで「正統カリフ時代」(選挙)
  • 5代目から「ウマイヤ朝時代」(世襲)

もし先代のように選挙で選ぶとしたら、またアリー派やアブー=バルク派がでてくるに違いないと考えたからです。

ムアーウィア「息子のヤズィードが次のカリフだ」

そのように各総督に約束させてムアーウィアは77歳でこの世を去ります。

カルバラーの惨劇

ムアーウィアが死んだことはイスラーム世界に駆け巡ります。

アリーの次男フサインは80名前後の兵を率いてクーファに集まろうとしました。

クーファ(イラクの都市)はアリー派が多くて、革命の中心地だった
ところが、この動きを察知していたムアーウィアの息子ヤズィードがこのフサイン一行をたたきます。
  • フサイン軍80人
  • ヤズィード軍3000人

「カルバラーの戦い」(680年)です。

圧倒的な兵力差に「カルバラーの惨劇」とも言われるよ
このカルバラーの戦いから、その後に「アブドゥッラーの乱」、「ムフタールの乱」と反乱がつづき、その中から本流を除く最大派閥「アリー派」がうまれました。
起源の物語はここまでにして、次に現代とつながるシーア派(アリー派)について話していきます。

シーア派とは

もともとは「アリー派」は「シーア・アリー」と呼ばれていました。
シーアというのは派という意味です。
それが省略可されて「シーア派」と慣習的に呼ばれるようになりました。
本流は「スンニ派(スンナ派)」です。
スンナ=ムハンマドの模範的慣行。
シーア派がうまれたのでそれと区別するために「スンニ派」と呼ばれるようになりました。
簡単に言うとシーア派は「イラン人のイラン人によるイラン人のためのイスラーム派」みたい(「世界史劇場p151 抜粋」)。
イランの正式名称はイラン・イスラム共和国
イラン国民の約9割がシーア派

シーア派からみる世界情勢①イラン

イランは非アラブ国の一つで、ペルシア人由来の民族なのでペルシア語が共通語。(世界の民族と紛争 参照

なので、アラブ人(スンニ派が多数)とイラン人で区別しやすいのです。

クルアーンは基本的にはアラビア語表記
ペルシア語はアラビア語と文字や単語の共通性があるよ!
日本語と中国語みたいな感じらしい
イランといえば、アメリカから「悪の枢軸」と呼ばれ、「世界最悪のテロ支援国家」とまで呼ばれてしまったことがあります。
それでも、1979年のイラン・イスラーム革命まではアメリカの支援で近代化をすすめていました。
欧米の支援は脱イスラーム
アメリカは近代化革命の名のもとに、イスラーム勢力を弾圧していました。
イラン・イスラーム革命でシーア派のホメイニがイスラーム共和制政体を成立。
ホメイニは革命にあたり イスラーム原理主義をかかげたよ
イランは反米の宗教国家となったことから、アメリカとの確執が深刻化しています。
「イランはイスラーム革命を広めようと各国のシーア派武装組織を支援したり、核開発疑惑がもたれているため、周辺のスンナ派アラブ諸国やイスラエル、欧米諸国からの警戒がとけません。
そこでシーア派の多いシリアやレバノン、反米のロシアや中国などと友好関係を維持して対抗しようとしています。
世界の民族と紛争p68)」
シーア派、スンニ派という視点から次はイラクを見てみます。
イランとイラクって言葉が似てるから混乱しやすいけど、イランとシーア派をむすびつければ理解も進むね!

シーア派からみる世界情勢②イラク

歴史的に、自称「イスラム国」をつくったのはアメリカだといわれています。(知らないと恥をかく世界の大問題7 池上彰

2003年、アメリカは「テロとの戦い」という名目の元、イラクを攻撃しました。

アメリカは「イラクに大量破壊兵器がある」と主張したんだけど、なかったよ

アメリカはイラクの独裁政権(フセイン政権)さえ倒せば、民主化が進むだろうと考えていました。

しかし、イラクはイスラム教のスンニ派とシーア派、さらにはクルド人という別の民族も住んでいる国家。

アメリカはバース党員(多くがスンニ派で上の役職についている人々)を追い出し、均衡をくずしました。

これで権力の空白がうまれます。

イラク戦争後(バース党員崩壊後)にはシーア派(2006年マリキ首相)が政権をにぎりました。

マリキ首相はフセイン政権のときに死刑判決をうけて、シリアに亡命(1980年)してたんだって
マリキ首相の政策はシーア派優位なもの。

さらに、元フセイン大統領はイスラム過激派を嫌っていたのですが、その圧迫を受けていた人々も活動しはじめます。

これまでイラクで活動できなかった周辺の過激派組織が次々とイラクにやってきました。

アメリカはバース党員(スンニ派で各役所のスペシャリストも多い)を弾圧したんだけど、彼らの逃亡先の一つに自称「イスラム国」があったんだね
現在、イラク国民の3大勢力はスンニ派、シーア派、クルド人です。
ここまでシーア派について話してきました。
倫理は「正しく行為するための規範の総体」でもあります。
文化や宗教を知ることは、倫理につながります。

イスラーム神学

イスラーム神学にも触れておきます。

前回のキリスト教の発展で、イスラーム文化からギリシア哲学が逆輸入されたと書きました。

529年、ローマ皇帝がアテナイにあったアカデメイア(プラトンが創設)と、リュケイオン(アリストテレス創設)を閉鎖したからです。

当時、ローマ帝国の国教となっていたキリスト教にとって、聖書以外の学問は教えたくありませんでした

その後、両大学の職員たちはササン朝へ行きます。

ササン朝といえば、572年から50年以上にわたって「ビザンツ-ササン戦争」がありました。
>>イスラームの誕生

ササン朝ペルシャはウスマーンの時代に滅ぼされるのですが、その書物はアラブ人に受け継がれます。

イスラームは学問好き!

751年に紙の製造方法が伝わると、翻訳活動が活発になっていきました。

アッバース朝カリフ「マアムーン」は翻訳コンテストを実施。

アリストテレスの書物を翻訳した最優秀者には、本と同じ重さのダイヤモンドを進呈したそうです。

翻訳がんばる!
アマムーンは「知恵の宝庫」と名づけた図書館を「知恵の館」と改めてギリシア語文献の組織的な翻訳をしました。

こうして、イスラーム独自の哲学・緒科学が誕生。

十字軍の遠征以後はヨーロッパに伝えられ、キリスト教に逆輸入するということが起きました。

有名な人物は「イブン・スィーナー(980-1037)」と「イブン・ルシュド(1126-1198)」。

イブン・スィーナーは「第二のアリストテレス」とも呼ばれている
全2回にわたってイスラームを取り扱いました。
>>イスラームの起源①
次回は仏教に移ります。
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