「人間としての自覚」
第3節「イスラーム」
②シーア派とスンニ派
>>ムハンマドの物語
- シーア派とスンニ派の起源の物語
- シーア派とは
- イスラーム神学
シーア派とスンニ派ができた物語
ムハンマドがイスラームを開教した時(610年)。
最初のムスリム(イスラーム教徒)はムハンマドの妻「ハディージャ」。
この噂から、奴隷の入信が進んだみたい
ムハンマドには生涯12人から13人の妻がいて(諸説あり)、アーイシャが最愛の妻だったと言われています。
彼が死んだときも、アーイシャ(18歳)の膝枕だったそうです。
このアーイシャですが、ある事件を起こしました。
アーイシャの首飾り事件
ムハンマド率いる一団がメディナに帰還したとき、アーイシャが行方不明になりました。
砂漠に取り残されていたとしたら、死を意味します。
翌日、アーイシャは無事に帰ってきました。
イスラム軍の青年兵士に送られて。
ムハンマド死去
ムハンマドが亡くなると、誰が後継者になるかでもめました。
後継者のことをカリフと言います。
その頃イスラーム共同体(ウンマ)はアラビア半島の大半を平らげていますので、もう大きな組織。
「アリーを後継者に」という遺言があったそうですが、一説に、アーイシャはこれを握りつぶしたと言われています。
イスラームの内部分裂
三代目カリフにウスマーンが選ばれたことは「教団を崩壊に導く元凶」になったとも言われています。
ウスマーンは周りの意見に流されやすい。
ウマイヤ家(ウスマーンの出身)はこの機に各地の総督を自分たちのものにしました。
ウンマ(イスラーム共同体)の私物化です。
もともと、先代までは「アラブ人の土地所有は禁止」だったのに、ウスマーンは土地所有を認めてしまいました。
彼の治世は「アラブ人至上主義」と呼ばれます。
12年ほど統治しますが、反乱によって殺されてしまいました。
次のカリフにはいよいよアリーが選ばれます。
ラクダの戦い
アリーは4代目カリフに選ばれました。
歴代、カリフ成立前に勢力争いがあったとしても、カリフが決まればみんな忠誠を誓っています。
ところが、アーイシャのいるアブー=バクル派、重役の多いウマイヤ派が反乱!
まずは656年、ラクダの戦い。
アーイシャがラクダに乗って出陣したことから「ラクダの戦い」と名づけられました。
ファーティマは聖母マリアのような立ち位置の女性で、今も神聖視されているよ
スィッフィーンの戦い
ラクダの戦いは治めたものの、すぐにスィッフィーンの戦いがおこります。
- クルアーンを恐れる停戦派
- 神の裁定(勝てば神に愛されてる)を信じる交戦派
神の裁定を信じているものからすれば、撤退というのは神に背く行為です。
このせいで交戦派からハワーリジュ派がうまれました。
ハワーリジュ派「クルアーンに背くもの(アリー)をカリフとして認めることはできない!」
スィッフィーンの戦いの結果
アリーはしばらく内部混乱(ハワーリジュ派)の鎮圧に力をいれました。(ナフラワーンの戦い)
アリー派は強かったので、ハワーリジェ派は劣勢にたたされます。
すると、ハワーリジェ派は自分たちの信条を貫くことにしました。
「神の裁定に任せる」
暗殺者をアリー、ムアーウィアの両方に送ります。
パワーリジェ派の信念
- 暗殺されたら、神に見捨てられた
- 暗殺されなかったら、神に選ばれた
このように考えたのです。
結果
- アリーは暗殺される
- ムアーウィアは生き残る
こうして、ムアーウィアがアリーの長男ハサンからカリフ位をもらいうけて、第5代目カリフになりました。
ウマイヤ朝の成立
1代から4代までは選挙で選んでいたので正統カリフ時代と呼ばれます。
しかし、ムアーウィアは自分の子孫をカリフにつけるように画策していきました。
- 1-4代まで「正統カリフ時代」(選挙)
- 5代目から「ウマイヤ朝時代」(世襲)
もし先代のように選挙で選ぶとしたら、またアリー派やアブー=バルク派がでてくるに違いないと考えたからです。
ムアーウィア「息子のヤズィードが次のカリフだ」
そのように各総督に約束させてムアーウィアは77歳でこの世を去ります。
カルバラーの惨劇
ムアーウィアが死んだことはイスラーム世界に駆け巡ります。
アリーの次男フサインは80名前後の兵を率いてクーファに集まろうとしました。
- フサイン軍80人
- ヤズィード軍3000人
「カルバラーの戦い」(680年)です。
シーア派とは
イランの正式名称はイラン・イスラム共和国
シーア派からみる世界情勢①イラン
イランは非アラブ国の一つで、ペルシア人由来の民族なのでペルシア語が共通語。(世界の民族と紛争 参照)
なので、アラブ人(スンニ派が多数)とイラン人で区別しやすいのです。
日本語と中国語みたいな感じらしい
「イランはイスラーム革命を広めようと各国のシーア派武装組織を支援したり、核開発疑惑がもたれているため、周辺のスンナ派アラブ諸国やイスラエル、欧米諸国からの警戒がとけません。そこでシーア派の多いシリアやレバノン、反米のロシアや中国などと友好関係を維持して対抗しようとしています。
(世界の民族と紛争p68)」
シーア派からみる世界情勢②イラク
歴史的に、自称「イスラム国」をつくったのはアメリカだといわれています。(知らないと恥をかく世界の大問題7 池上彰)
2003年、アメリカは「テロとの戦い」という名目の元、イラクを攻撃しました。
アメリカはイラクの独裁政権(フセイン政権)さえ倒せば、民主化が進むだろうと考えていました。
しかし、イラクはイスラム教のスンニ派とシーア派、さらにはクルド人という別の民族も住んでいる国家。
アメリカはバース党員(多くがスンニ派で上の役職についている人々)を追い出し、均衡をくずしました。
これで権力の空白がうまれます。
イラク戦争後(バース党員崩壊後)にはシーア派(2006年マリキ首相)が政権をにぎりました。
さらに、元フセイン大統領はイスラム過激派を嫌っていたのですが、その圧迫を受けていた人々も活動しはじめます。
これまでイラクで活動できなかった周辺の過激派組織が次々とイラクにやってきました。
イスラーム神学
イスラーム神学にも触れておきます。
前回のキリスト教の発展で、イスラーム文化からギリシア哲学が逆輸入されたと書きました。
529年、ローマ皇帝がアテナイにあったアカデメイア(プラトンが創設)と、リュケイオン(アリストテレス創設)を閉鎖したからです。
当時、ローマ帝国の国教となっていたキリスト教にとって、聖書以外の学問は教えたくありませんでした。
その後、両大学の職員たちはササン朝へ行きます。
ササン朝といえば、572年から50年以上にわたって「ビザンツ-ササン戦争」がありました。
>>イスラームの誕生
ササン朝ペルシャはウスマーンの時代に滅ぼされるのですが、その書物はアラブ人に受け継がれます。
751年に紙の製造方法が伝わると、翻訳活動が活発になっていきました。
アッバース朝カリフ「マアムーン」は翻訳コンテストを実施。
アリストテレスの書物を翻訳した最優秀者には、本と同じ重さのダイヤモンドを進呈したそうです。
こうして、イスラーム独自の哲学・緒科学が誕生。
十字軍の遠征以後はヨーロッパに伝えられ、キリスト教に逆輸入するということが起きました。
有名な人物は「イブン・スィーナー(980-1037)」と「イブン・ルシュド(1126-1198)」。
>>イスラームの起源①