「日本人としての自覚」
第2節「日本の仏教思想」
④親鸞(しんらん)の思想
- 親鸞の思想で押さえておきたいポイント
- 歎異抄の内容
参考文献 「最後の親鸞」吉本隆明、「梅原猛の授業 仏教」梅原猛、「歎異抄の謎」五木寛之
親鸞の思想のポイント
まずは倫理の教科書で押さえておきたい親鸞のポイントだけあげました。
その後に、『歎異抄』や他の解説書などから親鸞の思想を詳しくやっていきます。
親鸞(1173-1262)は法然の専念念仏の教えを継承し、後に浄土真宗の祖とされました。
ポイント
- 親鸞は自力修行の不可能性を知り、すべてを阿弥陀仏のはからい(絶対他力)にゆだねる信仰をといた
- 親鸞の弟子唯円は『歎異抄(たんにしょう)』で親鸞の語録を伝え、その中で悪人正機説は有名
- 念仏は仏の慈悲に対する感謝の意味で称えるものとされ、阿弥陀仏の救済の働きを自然法爾(じねんほうに)とよんだ
親鸞は一生をほとんど無名で過ごし、法然と同じく流罪にもなり、京都でひっそりと息をひきとりました。
島流しにされてからは自分のことを〈非僧非俗〉とあらわし、肉を食し、妻や子どもを持ちます。
親鸞の教えは後に浄土宗ではなく浄土真宗とされました。
親鸞は悪人正機説を唱えました。
「善人が往生できるのだから、悪人はより往生できる」
悪人とは人間一般のことです。
人は煩悩があるから、生きることが他の命を奪うことになる。
それを自覚すれば自分のことを「悪人」と思わずにはいわれない。
その「悪人」が救われるということは、煩悩に満ちた自分という存在を受け入れるということ。
そうなれば、現世も受け入れるということになります。
親鸞の思想は『歎異抄』によくあらわれていると言われています。
『歎異抄』⇒親鸞の語録。弟子唯円の篇と言われる。
親鸞没後に起こってきた異議に対し、師の真意を伝えようとしたもの。
蓮如によって禁書とされたが、明治以後広く読まれるようになった。
「歎異抄の謎」p41
次の段落から思想を詳しく見ていきます。
『歎異抄』は親鸞の語録です。
弟子の唯円は、親鸞が亡くなったのち、その思想が間違って伝わっていることを嘆きました。
それで、親鸞がどのような教えを説いたのかを本にしてまとめたのです。
親鸞の弟子唯円が書いた「歎異抄」
『歎異抄』を主に「歎異抄の謎」(五木寛之)の訳から有名な部分を紹介していきます。
『歎異抄』には「同じ教えを受けた人以外には見せないでください」とあります。
誤解をうけやすいからです。
話し言葉で伝えるときには表情とか身振りとか、その人間の声色などのさまざまな要素があって、相手に真意がちゃんと伝わる可能性が高い。
けれども、文章にしたものは、その中のある側面だけを表現したものであって、真意が伝わるとは限らないのです。
「歎異抄の謎」p192
それでも、本を編集した蓮如は「この書は、わが宗派の大事な聖経である」と断言しています。
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とは
すべての人々をひとりのこらずその苦しみから救おうというのが、阿弥陀仏(あみだぶつ)という仏の特別の願いであり、誓いである。
「歎異抄の謎」(歎異抄訳)p58
浄土真宗というのは、この世に生きるときはひたすら阿弥陀仏の約束を信じ、やがてあの世に往生して悟りをうる教えです。
なぜ「南無阿弥陀仏」と唱えればよいのかといえば、念仏だけが本当であると親鸞が信じているからです。
だから、仏教って哲学とも言われるんだね
そもそも、なにをさして善というのか、悪というのか、わたしは知らないし、まったくわからない。
‐しかし煩悩にまみれた凡夫であるわれわれの暮らすこの世は、燃え落ちる家のようにはかなく無常な世界であり、すべては空虚な、偽りにみちた、評価のさだまらないむなしい世界である。
真実はどこにも見当たらない。
そのなかで念仏という行為だけが、はっきりとした真実として存在し、人びとの心を支えることができるものなのだ
「歎異抄の謎」(歎異抄訳)p126
わたしの念仏とは、そういうひとすじの信心です。ただ念仏して浄土に行く。それだけのことです。
「歎異抄の謎」(歎異抄訳)p64
念仏とは「非行」
なぜ話を聞いている人の心に念仏を任せるのかといえば、念仏は「非行」であり「非善」であると親鸞は述べるからです。
念仏とは、それをとなえる者にとって、修行でもなく、善行でもない。
それは自分の意思や労力によって行われる行(ぎょう)ではないからだ。
‐念仏はひとえに、阿弥陀仏の大きなはたらきかけによって、おのずと発せられるものである。
「歎異抄の謎」(歎異抄訳)p79
もし意図して念仏を唱えると「自力」が前面にでちゃうんだね
悪人正機説
善人ですら救われるのだ。
まして悪人が救われぬわけはない。
‐というのは、いわゆる善人、すなわち自分のちからを信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人々は、阿弥陀仏の救済の主な対象ではないからだ。
ほかにたよるものがなく、ただひとすじに仏の約束のちから、すなわち他力に身をまかせようという、絶望のどん底からわきでる必死の信心に欠けるからである。
「歎異抄の謎」(歎異抄訳)p66-67
「本願ぼこり」
一般的に想像される悪。
自分の悪行をおそれないような人の立場を、親鸞は「本願ぼこり」と言いました。
何をしても良いのだと思ってする悪行を、そのように言ったのです。
親鸞は悪も善もわからないという立場
このような話があります。
あるとき親鸞はこう言われたことがある。
親鸞「唯円よ。そなたはわたしのことばを信じるか」
唯円「もちろんです」
親鸞「なんでも言うとおりにするか?」
唯円「かならず、おおせのとおりにいたします」
親鸞「ではまず、人を千人殺してみよ、そうすれば浄土への往生はまちがいない。
こう私が言ったらどうする?」
唯円「私は人を殺すことができそうもありません」
親鸞「もしなにごとも自分の意志によって事が成るとしたら、浄土へ行くために千人を殺せと言われれば、ほんとうに千人を殺すかもしれないが、それができないというのは、べつにそなたの心が善いからではない。
‐そもそも身にそぐわない悪など人にできるものでもない。」
こういった後に加えて、
親鸞「人間は誰でも、眼に見えぬ業(ごう)のちからがはたらけば、どんなことでもなしうるものなのだ」
>>自由意志論と決定論の違い
- 幽霊を信じていない人が心霊スポットに行くのに足がすくむ
- 生きている大きな魚や、ワニなどに触れない
- 虫が食べられない
- ダイエット中なのに、お菓子を食べてしまう
- バンジージャンプで飛び込めない
弟子はいない
わたし親鸞は、自分には弟子などひとりもいない、と思っている。
‐念仏は阿弥陀仏のちからによってそれぞれの口から発せられるものである。
「歎異抄の謎」p75
弟子のあるなしにおいて、法然とその弟子親鸞との違いは明白です。
しかし、親鸞が弟子をとらなかった理由は、法然の教えにしたがった結果でもあります。
法然聖人が「浄土宗の人は愚者になって往生するのだ」と親鸞に言いました。
親鸞はその教えを引き継いでいたと親鸞の弟子は伝えます。
物ごとなどなにも知らぬような無知の人々が参られたのをご覧になっては(親鸞は)「あの人たちはきっと往生できる」と言われて微笑をもたらされたのを、眼のあたりみております。
さまざまに理を申し立てて小賢しいような人がまいりましたときは「あの人は往生できるかな、おぼつかないことだ」といわれるのを、たしかに聞きました。
「最後の親鸞」p16
法然と親鸞はここで同じく他力を説いています。
小賢しい人はまだ自力でどうにかできると思っている、という解釈です。
ただし、親鸞は弟子をとらなかったことからも絶対他力という考えにすすみます。
天変地異や飢餓や疫病の流行を目の当たりにして、この世は自力でどうにかできるものではないと思う絶対他力感です。
自然法爾(じねんほうに)
親鸞が説いた自然法爾を紹介します。
自然法爾(じねんほうに)⇒人為を捨て、ありのままにまかせること
- 「自然」はおのずからそうであること
- 「法爾」はそれ自身の法則にのっとって、そのようになっていること
自然と法爾が説かれている個所を抜粋します。
自然(じねん)
とにかく、往生のためにはこざかしい考えは止めて、ただほれぼれと仏の慈悲の恩の深く重いということをいつも忘れずにいるべきである。
そうすれば、おのずと念仏は口をついて出てくるにちがいない。
それを「自然」(じねん)という。
みずからの意思を超える大いなる仏のちからにまかせることをいうのである。
すなわちそれこそがまさに「他力」である。
「歎異抄の謎」(歎異抄訳)p115
法爾
法爾(ほうに)というのは、この如来の御誓いなるがゆえに、そうならせるのを法爾というのだ。
法爾とは、この御誓いであるゆえに、まったく行者のほうのはからいがないので、この法の徳によるゆえに、そうならせるというのである。
「最後の親鸞」(古写書簡)p170
親鸞は「念仏しても嬉しい気持ちがわいてこないし、浄土へゆきたい心もおこらないのはどうしたのか」と尋ねられます。
その答えに、煩悩のせいだ、というのです。
まだ浄土が恋しくないことは当然で、煩悩がさかんな証拠だから、いよいよ往生は必定と思うべきだと述べます。
ここにおいて、親鸞は極楽である浄土のイメージを払拭します。
そもそも、極楽と地獄のイメージを作り出したのは源信でした。
>>観想念仏をといた源信
そのように作り出したから、現世を否定して浄土(極楽)をみなが望むようになったというのが浄土宗の広がりです。
親鸞にとって浄土は涅槃(煩悩の火を吹き消したこと)であり、極楽というイメージはありません。