「現代に生きる人間の倫理」
第6節「社会参加と幸福」
4.経済学者センとケイパビリティ
ノーベル経済学賞を受賞
- 機能⇒人の福祉(暮らしぶりの良さ、well-being)を表す様々な状態(〇〇であること)や行動(〇〇できること)を指す。
- 潜在能力(ケイパビリティ)⇒人が善い生活や善い人生を生きるために、どのような状態にありたいのか、そしてどのような行動をとりたいのかを結びつけることから生じる機能の集合。
例:「よい栄養状態にあること」「健康な状態を保つこと」「幸せであること」「自分を誇りに思うこと」「愛する人のそばにいられること」「人前で雄弁に話せること」など
- 経済学者センとロールズとの違い
- 経済学者センの説くエージェンシー
- 経済学者センのケイパビリティの具体例
参考文献 「貧困の克服」(アマルティア・セン、大石りら訳)、「不平等の再検討‐潜在能力と自由」(アマルティア・セン、池本幸生・野上裕生・佐藤仁 訳)
経済学者センとロールズとの違い
セン(1933-)はインドに生まれました。
当時のインドはイギリスの植民地支配下にあり、1947年に植民地支配に終止符がうたれます。
ロールズはアメリカ生まれの文化で正義論を説いたのに対して、センは異なる文化背景からよき生の条件について考えたのです。
特に、ロールズに対し、ロールズの平等論は物神崇拝的(フェティシズム)な特徴を持っていると批判しました。
だから、あの人が望むなら私も望めるはず、という「万人の万人に対する戦い」状態から出発していた
何の平等か
センが問題にしたのは、「何の平等か」という視点です。
例えば、冷戦時代に資本主義諸国と社会主義諸国では、「自由」と「平等」で争ったという簡略化でよく説明されます。
しかし、これをセンの議論に当てはめるならば、「自由」と「平等」というのは次元が違うもので、対立できないと考えます。
- 「自由」⇒追求すべき価値を認めるものの一つ。
自由主義者は自由の平等を求めている。 - 「平等」⇒「自由」の分布を指している。
「平等」はある思想が多くの人々に受け入れられるために必要なものであり、まともな思想に備わっているもの。
つまり、「自由」には平等が含まれているし、「平等」は思想につきものな性質を持つのです。
センは「何の平等か」についてあらゆる視点から考察しました。
ロールズが優先順位や特定の原理を決めたのに対して、センはある社会課題の平等を求めることは周辺のものの不平等を受け入れることを意味する、と考えたのです。
平等の中身
センが重要視したのは、「なぜこのシステムでなければならないか」という問いに答えられる、ということです。
- トーマス・スキャンロン
「自分の行動を正当化するためには、他の人々がそれを理性的に拒否できないということを条件とすべきである」という要件の妥当性と説得力の必要性を主張。 - ロールズ
「公正」の条件は、人が理性的に拒否できることとできないことを決めるための、ひとつの枠組みを提供している。
(平等の再検討p26参照」
これらを引用しつつ、この妥当性や枠組みとしてセンは平等を用います。
「何の平等か」を議論する際に、平等は一つの一般条件として求められると考えます。
政策による自由の変化
- 民主主義国家は大飢饉が本格化しない。
選挙をしたり、政策の妥当性を問いただしたり、農作物の危機を言える報道力があることで、国民が飢饉に備える。 - 権威主義国家は大飢饉になることがある。
国政の「働かなければ喰うべからず」というスローガンにより、食料があっても飢饉の対策がおろそかになった例がある。
飢餓に苦しむのはその人が悪い、とされてしまった。
その代わりに、すべての人々に受け入れられる十分な理由がある、と主張する。
個人の自由
(貧困の克服p43)
経済学者センの説くエージェンシー
センはエージェンシーという考え方も導入しました。
例えば、自分の周囲にいる人たちなどの願いを、自分の使命として引き受けようとすること。
(不平等の再検討p128)
ある個人の「エージェンシーとしての達成」とは、その人が追求する理由があると考える目標や価値ならば、それがその人自身の福祉に直接結びついているかどうかに関わらず、それを実現していくことを言います。(p97)
例えば、ある人が受験に勝つこと(価値あると認めるもの)を達成することを指します。
また、これと反する概念もセンは考えます。
自分自身の福祉のための自由です。
自分が幸せを享受するには、勉強ばかりしていたり、働いてばかりいることが苦痛になってきます。
ではなぜ、エージェンシーという概念を導入するかというと、飢餓や選択肢が狭まりやすい人は、他の人々のエージェンシーとしての行動に大きく依存している面があるからです。
他者の自由を増やすエージェンシーの必要性と、それを達成するために課されるリスクも考えなければいけないとセンは主張しました。
センは様々な概念を導入することで、平等について幅広い見解を持てるようにしました。
また幅広い見解を持てないことにたいして、「合理的な愚か者」と批判しました。
「合理的な愚か者」
経済学では今まで「個人は自分自身の効用を最大化する」と仮定してきたので、ボランティアなどの他者のための行動を「愚か者」だと見てきた。
しかし、人はたった一つの基準で行動しているわけではない。
ホモ・エコノミクスとしての見方をセンは「合理的な愚か者」と呼ぶ。
つまり、たった一つの基準で人間が動いていると決めつけるのは「合理的な愚か者」と主張するのです。
経済学者センのケイパビリティの具体例
最後に、センの説くケイパビリティは潜在能力と区別すべきではないか?という議論を紹介します。
例えば「子どもの潜在能力は無限大だ!」と主張するとき。
ここでの潜在能力の使い方では、子どもに出来ることと出来ないことの両方が含まれています。
- 欲求⇒私が求められるもの、取り込めるもの。
例えば、食べることが出来ること。 - 欲望⇒私が望むけれど、取り込めないもの。
例えば、憧れの人を見つめるなど。
人はエンタイルメント(己の身を守る能力)や、エージェンシー(他人のためにやり遂げる、引き受ける)という欲求を持てるのです。
それでも、ここにもさらなる問題が潜みます。
「私は自身のケイパビリティを過小評価しているのではないか」という自信のなさです。
人々が「欲することのできるもの」に過剰に依存してきたこと、特に、あまりに抑圧されていたり、多くを欲する勇気が持てないほど打ち砕かれている人々の要求を無視してきたことは、功利主義倫理学の短所の一つである。
潜在能力(ケイパビリティ)の勘定において同じような誤りを犯すのは望ましくない。
(不平等の再検討p263)
なので、批判は批判として受けついて解消していくことが要求される
センは「誰についての話しているのか」をはっきり意識する必要性を示しました。
経済学者センについてやりました。
次回はアーレントについて取り扱います。