あなたは性善説、性悪説どちらの説に立ちますか?
性善説=「人は生まれながらにして善である」(孟子)
性悪説=「人は生まれながらにして悪である」(荀子)
性悪説=「人は生まれながらにして悪である」(荀子)
この考え方を道徳と倫理から見ていきます。
性善説は道徳的、性悪説は倫理的だと私は考えます。
詳しく見ていきます。
僕は生まれながらに善だよ。
道徳とは、人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。
倫理とは、人倫(人と人との秩序関係)のみち。実際道徳の規範となる原理。
この意味付けが文章になっている文章を「はじめてのスピノザ」(國分功一朗)から引用します。
道徳が超越的な価値や判断基準を上から押し付けてくるものだとすれば、倫理と言うのは自分がいる場所に根差して生き方を考えていくことだと言えます。 「はじめてのスピノザ」國分功一朗 p39この文をまとめます。
道徳=超越的な価値や判断基準
倫理=自分の生き方を考える
倫理=自分の生き方を考える
哲学者カントによれば、道徳は普遍的なものであり、人間だけに先天的に備わっています。
例えば、何があっても嘘をつかない、などがカントによれば道徳になります。
しかし、人によっては嘘をつくことが倫理になるのです。
嘘は絶対ダメ!(道徳的)
嘘をつかないと殺人犯が迫ってくる!
助かるための嘘はつこうかな。(倫理的)
良心の声があり何があっても嘘をつかない、それに従うのがカントでいう道徳になります。
一方、個人が道徳を自分に照らし合わせることが倫理になります。
では、ここで性善説と性悪説を詳しく説明していきます。
性善説と性悪説
井戸に落ちそうな子どもを見れば、誰もが助けようとする。
人は生まれながらにこのような同情心を持っていると孟子はいいました。
これが性善説です。
性善説に基づくと、人間には4端の心があって、それが何かの状況をみたときにふくれあがって助けるようになると孟子は述べます。
例えば、かわいそうな牛を見たときに理由もなく助ける。(「道徳を基礎づける」参照)
ごちそう用の牛に憐れみをよせて、王様が牛を助けた場面が本では紹介されていました。
王様に同情心があって、それが膨れ上がって助けるにいたったと述べています。
これは先天的な同情心からの行動で、超越的な価値に従うので道徳になります。
道徳に説明は求めません。
端があったから助けるという行動を示します。
では、この性善説から出てくる道徳を疑ってみましょう。
かわいそうな牛を助けた王様は牛の代わりに羊にしろ、と言いました。
そうなると、羊がかわいそうではないのかという疑問がでます。
それに対し、道徳を語る賢者は羊がかわいそうな場面を王様はみていないから、同情心の端の心が働かないと述べるのです。
つまり、王様は道徳的で立派だと賢者は言います。
この理由から言えば、羊のことを考えるのは道徳的ではない。
しかし、性悪説にたったときには、これは差別的だと考えることができます。
王様がとっさに行った行動も考え出すことによって悪くなる。
先天的な良い行動も、見方を変えると悪になっていきます。
つまり、ここでは考えないと性善説、考えると性悪説と言うことができるのです。
考えない=性善説
考える =性悪説
考える =性悪説
そして先ほど説明した道徳と倫理をもう一度示してみます。
道徳=超越的な価値や判断基準
倫理=自分の生き方を考える
倫理=自分の生き方を考える
自分の生き方を考える倫理には考えるという言葉が入っています。
そしてこの比較から、
この図は、考えることによって性悪説になるという先ほどの図を思い起させます。
この物語では被害/加害それぞれの立場になって考えたり、過去を考えることで、自分の悪を知ることになります。
悪を実感することは自分の人生を考える倫理に繋がります。
道徳的=性善説
倫理的=性悪説
と対比させることができます。
倫理的=性悪説
僕は生まれながらに善だよ
ん?考えない人に見えてきた
「性悪説・性善説」と「道徳・倫理」の関係
人はヒーローばかりに憧れるわけではありません。
漫画や物語では、悪役が人気なものもあるのです。
そのキャラクターや登場人物が善か悪か判断つかないところが魅力的だったりします。
物語を元に、「性悪説・性善説」と「道徳・倫理」の関係を見ていきます。
自らの命を顧みないことも行います。
しかし、その行為はモテたいからという不純な動機です。
その行動の後に見返りを求めると、いつもヒロインのラムちゃんに電撃をあびせられます。
もし、この動機を隠していればヒーローとなりますが、不純な動機が隠しきれません。
動機が隠れている=正義役
動機が見えている=悪役
動機が見えている=悪役
正義のヒーローなどは不純な動機がないことが多いのですが、そうなると私には人間味を欠いているように思えるのです。
あたるを実際の人物だと考えたときに、人間の本能的な部分から捉えるので不純な動機が見えてしまいます。
動機が見えていない⇨あたるは仮想現実の人物
動機が見える⇨あたるは実際にいるかもしれない人物
動機が見える⇨あたるは実際にいるかもしれない人物
あたるのことを実際の人物だと捉え、不純な動機ばかりだけれど、あたるは人間っぽくて親しみが持てる。
設定だと悪役かもしれないけれど、やっていることはあなたにとって悪く思えないと考えた時、それはあなたの「倫理」が現れています。
では、物語を見てみます。(私の好きな物語を独断で選んでいます)
何らかの魔法をかけられているのですが、それが何かがわかっていないのです。
わかっていない時点では、自分が被害者だと思っていました。
しかし、その魔法が何かわかったとたん、自分が加害者だとわかったのです。
昔の自分の記憶をたどりながら、なぜ今のような状態になっているかを考察していき、考えることによって自分が加害者になっていきます。
初恋の相手が、自分の行為によって苦しめられていたことを知る。
内容にはあまり触れませんが、自分の思考を紡いでいくことによって被害と加害が反転する模様が描きだされています。
人は加害者のままだと反省が出来ていなくて、被害者になることで罪が実感できるという話があります。
被害者⇔加害者(自分の悪を知る)
人は考え出すと性悪説へ流れる傾向があり、そこで自分の「倫理」を自覚していきます。
なぜ悪役に魅力を感じるのか
例を振り返り、なぜ悪役に魅力を感じるのか、という問いを性悪説/性善説と比較しながら答えていきます。
かわいそうな牛を羊に変える要素に悪を見つけ出しました。
不純な動機を意識することで悪役になる。
過去を振り返ったり、立場を変えることで罪や悪を実感する。
これらは考えることで悪になるケースです。
では、考えなければいいのか、というとそうとは言えません。
先ほどの王様の例で言えば、王様は牛を助けて立派という話で終わってしまうからです。
もちろん、道徳がなければ善いとされるもの自体がなくなってしまうので、道徳はあると考えます。
その上で、私達は牛の代わりになった羊にも想いをはせ、王様を立派と見るだけではいられなくなりました。
もしかしたら、その羊を好きだった人に焦点を当てて、私たちはその人に好感を抱き、王様には嫌悪感を抱くかもしれません。
道徳を考えることによって悪が生じ、個人的な倫理に移っていきますが、それによって動物的な面も含めた人間全般のことを考えられます。
道徳が個人にやってきて、倫理になります。
道徳の事柄を、私に当てはめて考察する時、私は悪になります。
しかし、それはカッコつきの悪なのです。
「悪」=思慮しなければ善
僕はやっぱり「悪」人かもしれない。
倫理を考えたんだね!
「性善説と性悪説」と「道徳と倫理」のまとめ
まず性悪説と性善説とは。
ここから、道徳と倫理を考えていきました。
という説に私は至りました。
性善説=「人は生まれながらにして善である」(孟子)
性悪説=「人は生まれながらにして悪である」(荀子)
性悪説=「人は生まれながらにして悪である」(荀子)
道徳=超越的な価値や判断基準
倫理=自分の生き方を考える
そして、考えることで性悪説になるという論法を挟みます。
倫理=自分の生き方を考える
道徳的=性善説
倫理的=性悪説
倫理的=性悪説
私は事柄をよく自分に当てはめて考えます。
そして、自分はなんて悪なのだろうと思うことがあります。
しかし、このように考察していくと、思慮しなかった場合は善といった「悪」になります。
「悪」=思慮しなければ善
思慮しないことは自分に照らし合わせていないということで、超越的な価値や判断基準を信じている状態です。
結果として思慮する場合、私は性悪説から逃れられないのです。
この性悪説の悪は弱いという意味もあるそうです。
人間には弱さがあります。
さらに、人が悪役を好きになる理由も見ていきました。
悪役を実際の人物として考えていくとより人間味がますので、性悪説に立つのです。
考えることで私にとっての「悪」が「善」になります。
私がどうして悪役を好きなのかが考察できたよ