「現代に生きる人間の倫理」
第3節「民主社会と自由の実現」
3.ルソーと社会契約論
永遠の争いは無益だから、所有権を安定させる道を人々は選んだと説く
(ロックは革命後の政府の役人)
- ルソーの自然状態
- ルソーの一般意志
参考文献 「ルソー文明批判の出発点」kindle版(中山元著)、「人間不平等起源論」(ルソー著、中山元訳)、「社会契約論」(ルソー著、中山元訳)、「近代政治哲学」(國分功一朗著)、「エミール(上)」(ルソー著、今野一雄訳)、「新エロイーズ(一)」(ルソー著、安士正夫訳)
ルソーの自然状態
ルソーの自然状態は自由・平等・平和であり、理想的な状態です。
けれど、これはフィクションです。
アダムを想像すればいいのかな
ルソーのホッブズとロック批判
「人間は生まれつき善なる存在であること、人間が悪くなるのはその制度のためである」
(ルソー文明批判の出発点p7)
>>性善説とは
でも、どうしても勝ちたいときに策略を巡らせてから、また戦いを仕掛けていく
‐芸術と学問は、文明の象徴のように見えるが、実は人間のうちに不平等をもたらし、習俗を堕落させるものなのである。「これらの弊害が生まれてくるのは、才能の違いと徳の堕落のために人間のうちに発生した有害な不平等からでしかないのです。」
(ルソー文明批判の出発点p44)
ああ徳よ、素朴な魂の持つ崇高なる学問よ。あなたについて知るために、多くの努力と道具が必要だというのでしょうか。あなたの原則はすべての人の心のうちに刻み込まれているのではないでしょうか。あなたの掟を学ぶためには自分自身のうちに戻り、情念を鎮めて、自分の良心の声に耳を傾ければ良いのではないでしょうか。それこそが真の哲学なのです。
(ルソー文明批判の出発点p134)
- ホッブズの争い状態に対して、一人でいるときには争わないし、人はあわれみの特性がある。
- ロックの賢いから平和に対して、学問が争いを生むこともある。
ルソーの社会状態
ルソーは自然状態を善いものとしました。
フィクションとしての理想状態です。
そのフィクションとしての自然状態を自由・平等・平和があり、最も善いとしているのです。
「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」
(エミール(上)p23)
その変化の中で変わっていないように見えたものは、変化を加えられて変わっていないように見えるということ。
放っておけば、なんでも変わってしまう
- ルソーの自然状態⇒人間がもっとも善い状態であり、基本的に一人。
人々は自分の生存を求める自己愛と他人を気づかうあわれみに基づいて生きている。 - ルソーの社会状態⇒ホッブズの自然状態と似ている。「万人の万人に対する戦い」が起こる。
自己愛が利己心(他人よりも自分を優先する)にかわる。
ルソーの国家状態
もっとも善いのが自然状態。
そこから、現実の群れる人々と照らし合わせると堕落した社会状態になります。
社会状態は自由・平等・平和がない状態。
この状態を元の自然状態(自然に帰れ)にするにはどうしたらいいのでしょうか。
ルソーによれば社会契約とは、人民各自が人民全体と締結するものである。やや不正確に言い直せば、自分で自分たちと契約するのだ。ルソーのこの理論は、人民が誰か/何かと契約するというそれまでのロジックを打ち破るものであり、近代政治哲学における一つのブレイクスルーとなった。そしてこれが後の人民主権の基礎となる。
(近代政治哲学p150)
一般意志とは、契約によって成立した集合である主権者の意志のことであり、その行使こそが主権の行使と言われる。「主権とは一般意志の行使に他ならない」
(近代政治哲学p153)
>>一般意志とは
ルソーの社会契約論
まずまとめてみます。
- ルソーの自然状態⇒聖書に依拠した、人が一人で暮らす善い状態
- ルソーの社会状態⇒人が群れている状態で、万人の万人に対する闘争状態
- ルソーの国家状態⇒理想的な一般意志を置いた善い状態
この関係性から見えてくることを考察していきます。
状態の移行は書かれていない
ルソーは各々の自然・社会・国家状態を考察しました。
その各状態が時間とともにその中で変わっていくことも説いています。
しかし、状態移行には触れませんでした。
人類が実現したあらゆる進歩は、人類を原始的な状態からたえず遠ざけつづけているのだ。わたしたちが新しい知識を獲得すればするほど、もっとも重要な知識を獲得するための手段がますます失われていくのである。こう言ってもいいだろう、人間を研究すればするほど、人間を知りえなくなるのだ、と。
「人間不平等起源論」p27
革命を起こしたロベスピエールはルソーの思想を胸に抱いていた
社会のすべての構成員は、みずからと、みずからのすべての権利を、共同体の全体に譲渡するのである。
「社会契約論」p29
ルソーの自然状態は平等・平和・自由のどれかが成立している状態を述べているみたい
‐社会契約は、人間が自分の生命と自由を維持できるようになることを目的としている
「社会契約論」p345
そして、自然状態は善いもの。
とすると、腐敗だけれど平等が実現されている「善い状態」があったりする
ルソーの善悪
ルソーは自然状態では人々に善悪がなかったと説きます。
ところで自然状態のうちで生きていた人々は、たがいにいかなる意味でも道徳的な関係を結んでいないし、義務も知られていないのだから、善人でも悪人でもなく、悪徳も美徳も知らなかったと考えられる。
「人間不平等起源論」p72
では、どのように善悪が作られたのか。
二度目の引用をします。
「人間は生まれつき善なる存在であること、人間が悪くなるのはその制度のためである」
(ルソー文明批判の出発点p7)
事物への依存はなんら道徳性をもたないものであり、自由を妨げることなく、悪を生みだすことはない
「社会契約論」解説部分p346
人間への依存は、無秩序なものとして、あらゆる悪を生みだし、これによって支配者と奴隷はたがいに相手を堕落させる
「社会契約論」解説部分p346
しかし人間が道徳的な存在になるためには、社会というものがどうしても必要である。
「社会契約論」p330
だけど、他者との関係性の中での善悪は、社会の中で作られていく
ルソーの本音
力強い話し方を教わるのは社交界の中だけだ。それはまず第一に、常に他人とは違った、他人よりは上手な言い方をしなければならないからであり、次ぎに、自分が信じてもいない事をしょっちゅう断言したり、自分が持ってもいない感情を表現したりせざるを得ないために、自分の言う事に内心の確信に代る説得的な表現を与えようと努めるからだ。
「新エロイーズ(一)」序章p19
自分の言いたいと思う事を有効にするには、それを必らず利用する人々に耳を傾けさせることが先ず必要なのだ。
「新エロイーズ(一)」序章p23
自分たちの話の結果は大して気にしないで、我々に向って「善良なれ、賢明なれ」と叫ぶのが教説家の商売なのだ。いやしくもそれを気にする公民たる者は我々に向って愚かにも「善良なれ」と叫ぶべきではない、我々をそうなるように導く状態を愛させるべきなのだ。
「新エロイーズ」p28
善悪という言葉はあるけれど、文脈ごとに善悪を読み取らなければルソーの思考を誤解してしまう
わたしはほかの人と同じようなものの見方をしない。すでに久しいまえからわたしはそれを非難されている。
「エミール」p19
ルソーの自由論
ルソーは自然状態における自由と、国家状態における自由があると述べます。
ルソーは自然状態の自由を、人間が自由な行為者であるということから、動物と区分けができる人間の特性として主張しています。
それに対し、国家状態の自由は一般意志に従うのが自由だと主張します。
- 自然状態での自由⇒人間が自由な行為者であるという特性こそが、動物と違うところという主張
- 国家状態での自由⇒「意志はみずからの意志でなければ、意志であることをやめる」
つまり、意志は譲渡できないので、みずからの意志(一般意志、人民主権)に従うことが自由になる。
道徳的な自由。
人が愛するものに従っているときは幸福を感じたりする。
愛する人だったり、趣味だったり、そういうものに人は進んで服している
ルソーの一般意志
‐一般意志がまず確認されてから法が制定されるわけではない。
法の領域であれこれの法律が制定され、それが後から、一般意志の実現あるいはその行使と見なされるのである。
だから、我々が実際に手にしているのは、法律の文面だけである。
その意味で、一般意志は常に過去にある。
一般意志は、過去を振り返って、「そのようなものがあったはずだ」という仕方でしか確認することのできないものなのだ。
「近代政治哲学」p161
ルソーは自然状態をフィクションとしての善いものとして設定しました。
それと同じように、一般意志もフィクションとして善いものだと設定したとも言えます。
一般意志は常に正しいからです。
一般意志⇒公共の利益をめざす意志(共同の自我)のことであり、個人の利益をめざす特殊意志や、その総和である全体意志とは区別される。
(倫理の教科書p146)