哲学者には二つのタイプがあると言われています。
哲学者とソフィストです。
哲学者たちはこの2つのタイプの区分けをどのように考えたのでしょうか。
哲学者プラトン、ショーペンハウアーを例に考えていきます。
哲学者プラトンは、哲学者とソフィストを分けました。
哲学者とソフィストの違いープラトン
職業哲学者(弁論術を教える哲学者)のことをプラトンはソフィストといいました。
ソフィストは主に相対主義の考えによって人々に弁論術を教えます。
例えば、あなたが見ているこの牛は1万円の価値があります。
もしあなたが他の牛に対して1頭3万円の価値があると前に聞いていれば、この牛を安く感じます。
一方、事前に1頭が5千円だと聞いていたら、あなたはこの牛を高く思うでしょう。
このように、相対的に価値判断をします。
そのような弁論術をソフィストは教えるのです。
一方、哲学者は絶対的価値をもっています。
他の物と関係をさせずに、自分にとってこの牛の価値を決めるのです。
何か一つの絶対的な価値基準を自分に持っています。
ソフィスト➡相対的価値を教える。
では、この哲学者とソフィストを他の哲学者はどのように分けているのでしょうか。
ここで、ショーペンハウアーを例に、ソフィストと哲学者を分けてみます。
哲学者とソフィストの違いーショーペンハウアー
ショーペンハウアーは思想家には二つのタイプがいるといいます。
つまり一般に思想家を、第一に自分のために思索する者と、いきなり他人のために思索する者との二つに分類することができるが、第一のタイプに入る人々が真の思想家であり、二重の意味で自ら思索する者である。
「読書について」参照
①自分のために思索する者
②他人のために思索する者
このように区分けた場合、彼は①を真の哲学者であり、②をソフィストだと説くのです。
では、細かく見ていきます。
哲学者は自分のために思索する者
ショーペンハウアーが①の哲学者について語る個所です。
すなわち第一に彼らのみが真剣に自分を打ちこんで事柄を知ろうと努めており、第二にまたこの知を得る努力、言い換えれば思索にこそ彼らの存在の楽しみも幸福もあるのである。
つまり、その楽しみや幸福に対して他人が登場してきません。
自己本位です。
ソフィストは他人のために思索する者
ショーペンハウアーがソフィストに対して語る個所です。
彼らは世間から思想家であると思われることを念願し、かくして世人から得ようと望むもの、つまり名声の中に幸福を求める。
つまり、自分の幸福に対して他人を基準にします。
他人本位です。
それでも、他人の為になにかを尽くそうというのは、良い面が見えてきます。
では、なぜショーペンハウアーは①が本物の哲学者であり、真の思想家。
さらには、真に価値を持つのは自分で思索した思想だけだというのでしょうか。
具体例を元に考えていきます。
哲学者の思索が「真の価値」を持つ理由とは
では、例から考えていきます。
1+4はいくつでしょうか。
答えは簡単、5です。
では、子どもに1+4を教えてください。
他人のために思索するとは
あなたは今、他人のために考えました。
このとき、どのように考えたのかを見ていきます。
おそらく、まずは答えを探します。
答えが5。
これを分かりやすく教える方法は何か。
答えを元にわかりやすい伝え方を探します。
相手の為に考える場合、その説明のためにまずは答えを見つけようとします。
相手の要求にはまず答えがあるからです。
相手の頭の中では答えを求めている問いでいっぱいなので、まずあなたは答えをあげようとします。
場合によって、考えさせようとして答えを後に言いますが、あなたはその答えに基づいた問いかけを考えつきます。
他人のために考える思考法はこのようになります。
自分のために思索するとは
では、次に自分のために考えてみましょう。
先ほどの例と同じことをやってみます。
1+4を自分に説明してみましょう。
答えは5というのがわかっているのですぐにでてくるでしょう。
そうなると、この問いから私は何がわからなくなってくるのかを考えます。
すると、ふと疑問が浮かんでくるかもしれません。
この場合、答えを教えることを要求されないので、足し算の成り立ちを考え出すかもしれません。
さらに、5以外の回答を考えるかもしれないのです。
このように考え出したとして、困る他人はでてきません。
それは自分のために考えているからであり、答えも自分のためだけにあるからです。
答えに従わなくてもよくなります。
子どもによく思われようとか、評価を下げないようにしようという発想からは解き放たれ、自由な思想をするようになります。
既存の回答を探そうとしない分、そのような価値を持ちます。
ショーペンハウアーはこの回答に縛られない思索に価値を置いたようです。
さらに、思想に対してのオリジナリティに関しても考えてみましょう。
思索のオリジナリティについて
例えば、自分がずっと考えていた思索の結果が、すでに本に書いてあったということはよく耳にします。
その場合、他人の為だとか、他からの承認欲求のために考えていた人はひどく落胆するかもしれません。
自分のオリジナリティが否定されたと思うからです。
一方の自分のために考えていたタイプの人は、そうなりません。
評価される軸を自分に持っているので、同じであっても良いからです。
逆に、自分の考えていたことがまちがっていなかったと納得するので、嬉しくなるかもしれません。
偉大な哲学者が言っていたことと一致したと思うと、嬉しい気持ちもわきます。
多くの場合、自分で考え付いたことは、すでにだれかが考えていたということは往々にしてあります。
そして、思索で求めようとするものは「真理」。
「真理」を探そうとしているのが哲学者です。
他の哲学者の思想と一致していた場合、それは普遍性を持ちうることになります。
思索として間違っていなかったと自分で自分を認められるのです。
あなたが思索でオリジナリティを求めて虚無感を感じているとすれば、それはソフィストになります。
そして、この二つのタイプはきっちりとは分けられない、ということはまた言えます。
人間は社会的な生き物でもあるからです。
哲学者とソフィストの違いーまとめ
⇔
ソフィストは相対的な価値基準を教える人。他人のために思索する人。
プラトンとショーペンハウアーの思索から、このように分けました。
哲学者の思想が「真に価値を持つ」と、ショーペンハウアーが述べた意図。
それはそこに自由な発想が現れてくるからだと言えます。
さらに、思索の結果を他人と比較して落ち込むことがないので、知を愛することが出来ます。