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脳は否定を理解できない理由を説明

おはようございます。けうです。

 

では、今日なんですが、否定について話そうと思います。

人の脳は否定を理解できない、とか、否定を受け入れにくいと言われています。

否定を肯定的に説明する方法

まずは否定とはどのような使われ方をするのかを見ていきます。

 

哲学をするときに、哲学は否定から説明する方法があります。

〇〇じゃないのが哲学。

この〇〇には多くは学問をいれるんですけど、例えば、数学じゃないのが哲学だ。

とか、国語じゃないのが哲学だ、とか。

それでこの場合は否定なんですが、肯定的な良い意味でも伝えることができます。

例えば、子どもに教えてという意味でも子供の興味がありそうなことを〇〇にいれます。

お菓子じゃないのが哲学だ、とか。

すると、お菓子が何かを考え出しますよね。

こういう意味では否定は良いと思うんですけど、一般的には否定はだめだといわれているのには理由があります。

(ちなみに、この否定形で考える方法は否定神学と言われています。

抽象的な神にたいして、神の概念は人間が考えうるかぎりのいかなるものにも当てはまらないことを説明するための方法論として使われています。)

 

否定はダメだといわれる理由

 

私たちの脳は否定文をまずは肯定文として理解してします。

だから、否定文は脳が理解できない、というのが人に元からあったようなのです。

例で説明します。

「シロクマのことを考えないでください!」

 

私がこうあなたに強く言ったとします。

すると、あなたはシロクマのことを思い浮かべますよね。

私の言葉を強く間にうけたのなら、さらに強く想像すると思います。

 

シロクマのことを考えちゃいけないと思えば思うほど、シロクマのことを考えてしまうんです。

心理学者の植木先生が出した本のタイトルでもあるんですけど、否定されてることに対して否定ではないことを想像してしまうんですよね。

 

そして、そもそも「シロクマのことを想像しない」ということが出来ない。

おそらく、シロクマのことをわかっている人ならば、頭に勝手にイメージとしてシロクマが浮かび上がってくる、と言う原理です。

 

脳は無意識的に否定を理解できないんですよね。

 

否定を良くないことと初めから決めつけるのはいけない、と言われます。

でも、初期段階として無意識的な操作が1つあるということですね。

無意識に否定とは逆のことを想像してしまう。

 

そして、人間は理解できない事とか、知らないことを嫌う傾向があります。

「でも」という否定の言葉

私の話にとぶんですが、私はよく文中で「でも」という否定形を使ってしまいます。

意識して使わないようにはしてきているんですけど、昔は口癖でした。

 

この、「でも」って否定形になりますよね。

でも、なんですけど、・・って普通に使ってしまいますね。

 

私はこの「でも」を使ったとしても、相手の発言を否定していたり、全く違うことを言っているわけではないんですよ。

哲学でいう〇〇ではない。

そんな肯定的な「でも」なんです。

 

それでも、脳にとってはまずは否定系として無意識に受け取られてしまうということがあります。

 

そして、これは表現の問題でもあります。

「でも」を使う文脈でも、他の接続詞に言い換えることはできないかな、と考えると意外と他でも代用がききます。

 

人に嫌われないようにする私に負担のないやり方としてはこんなことを意識しています。

それでも、こういうことを分かってくれて、否定を言ったとしても受け入れてくれる人はいますよね。

こうやって否定形であっても、肯定的な意味であったり、その人を否定しているわけではない、ということを意識的にわかってくれる場合です。

 

そんな場合は、哲学って〇〇じゃない。

という〇〇に対してとても楽しめるのではないかと思いました。

楽しめるというか、いろいろな意味解釈ができます。

否定形が役立つ場面

この否定形の強いところは、シロクマのことを考えて下さい、と言うよりも、シロクマのことを考えないで下さい、と言った場合のほうがシロクマを考えるらしいんです。

 

これは心理学用語でもあります。

心理的リアクタンスといいます。

人は何かを禁止されると脳はその禁止を嫌います。

自由選択権が阻害されたと思って、禁止されたことを強く思うことがあるようです。

自由は阻害されたくない、という人間心理があります。

否定形と哲学の関係

だから、シロクマのとこを強く考えてしまうんです。

考えないようにしなきゃということが逆に作用するらしいんですよね。

そうなると、哲学って考える過程なので、哲学をすすめるときには良い手になるんです。

誰かに哲学を教えたい場合、〇〇じゃないのが哲学。

そして、〇〇にはその人が興味のありそうなことを入れる。

すると、その人は考え出してくれるので、哲学をしていることになるんじゃないかな、哲学が伝わりやすくなるんじゃないかなって思いました。

哲学は当たり前のことを疑う学問でもあります。

そして、〇〇にいれるものって、その人に馴染んでいるのでその人の当たり前なことですよね。それをさらに強く意識するときに、その基盤を疑ったり考えたりします。

どうして、〇〇が好きなんだろうとか、そもそも〇〇ってなんだ、とか。

そんなことが哲学をする、ということにつながっていくんじゃないかなって思いました。

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

 

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