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ミソジニーは物語に潜んでいる?女性が主人公の物語からジェンダーを読み解く

おはようございます。けうです。

 

前田健太郎「女性のいない民主主義」を読み終えました。

政治の話になると私はうといのですが、ある物語を導入されたときに身近に感じました。

 

前田さんは政治学を超えて、心理学、社会学の視点からもフェミニズムやジェンダー規範を見ていました。

私が興味をひかれた点からみていきます。

 

ミソジニーという視点。

ミソジニーとは女性嫌悪や女性蔑視という観点です。

ミソジニーから物語を読み解く。

前田さんははカナダの批評家サーキージアンが述べた批判を引用します。

批評家の彼女はゲームに対して批判しました。

「なぜ、ピーチ姫は自力でクッパ城から脱出しなかったのだろうか。」

20世紀を代表するテレビゲームの「スーパーマリオブラザーズ」(1985年)のキャラクターへの疑問です。

マリオがクッパに捉われているピーチ姫を助け出すというストーリー。

そのストーリーなのですが、囚われている間のピーチ姫が何をしていたのかという場面がほとんど描かれていない、というのです。

「例えば、同じように王女が誘拐されることから始まる物語を作るにしても、その王女はただいたずらに救出を待つ必要はない。」

必要はないのに、救出をただ待っている。

このような批判です。

彼女はゲームが大好きで、それゆえにジェンダー・バイアスの批判をしました。

ところが、彼女の批判に腹を立てたゲーム愛好家の男性たちが、インターネット上で彼女に対する攻撃を開始したそうです。

2014年に起きた通称「ゲーマーゲート」事件。

フェミニズムの立場から批判を展開していた数人の女性たちが執拗な誹謗中傷のターゲットとなり、彼女たちの個人情報がインターネット上に晒されただけでなく、最後には殺害予告までされたそうです。

わたしたちも他人事ではなく、なにかフェミニズムという用語を使う時にセンシティブに取り扱わなければいけないのではないか、という心配があります。

「この一件が示すように、社会の主流派とは違う視点から世界を見る人は、時に厳しい敵意の対象となる」

なので、もしフェミニズムという言葉が使いにくいとしたら、それはまだまだ女性進出が一般的な視点ではないということも言えます。

ジェンダー規範から物語を見る。

政治の視点は、私的領域に潜んでいると昨日述べました。
>>ジェンダー問題の4つ

その中でこのゲームの話をされたとき、私はある一つの物語が思い浮かびました。

私の一番好きな物語。

ダイアナ・ウィン・ジョーンズ「魔法使いハウルと火の悪魔」です。

ジブリでも作品化された有名作品です。

 

私は彼女の日本語訳の本をほとんどすべて持っているのですが、その主人公の多くは勇敢な女性が多いのです。

代表されるのがこの作品の主人公ソフィーです。

 

ソフィーは初め、シンデレラのような人物です。

長女は出世しない。

3人兄弟の末っ子が物語の主人公になることが多いのだから、私はわき役に徹しよう。

そのようなバイアスをソフィーは持っていました。

そして、運が悪く、勘違いからソフィーはおばあさんにされてしまいました。

ソフィーはあきらめの境地にいたります。

私の人生なんてそんなものだったのだ、と。

 

そこから、長女の役割を降りたのだからもう好きな役割を演じよう。

そう思ったおばあさんソフィーは帽子屋さんを離れます。

それまでは、義母のために毎日劣悪な環境下でせっせと働いていて、口出しもせずに良い長女を演じてきたのです。

でも、その必要がなくなって、彼女は旅にでかけます。

その中で、自分の内に込められていた力を知っていきます。

自分はわき役で、何の力もないという思い込み。

そのバイアスが解放されたとき、ソフィーは魔法が使えたし、愛する魔法使いハウルと結ばれることができました。

童話のバイアス

シンデレラのように待っているだけではなく、自分で得たいものを掴んで行ったのです。

童話によくあるようなシンデレラ、白雪姫、というようなお姫様。

このようなお姫様といわれる人物は物語の中では受け身に描かれることが多く、それがバイアスになります。

 

そんな童話のコンプレックスを、ソフィーは行動することで打ち破っていきます。

囚われのピーチ姫が自力で脱出するかのように。

 

ダイアナさんは作品全体を通しても、そんな力強い女性をユーモアたっぷりに描いています。

昔ながらの童話ではなく、女性が主体となって活躍していく物語が展開されていけば、このようなジェンダー・バイアスも世代と共にかわっていくのかもしれません。

政治学とジェンダー・バイアス

政治学の話からそれてしまいました。

しかし、なぜジェンダー・バイアスが重要なのかという根拠を抜粋します。

「つまり、今日の日本では、男性と女性が同じように有権者として政治に参加しているにもかかわらず、当選する政治家のほとんどが男性となっているのである。」

 

「男性の方が女性よりも政治指導者に向いている」という同意比率が日本では高いというデータを参照にこのようにも述べます。

「日本の女性議員が少ないのは、日本の有権者が他の国に比べて男性優位のジェンダー規範を強く内面化しているからかもしれない。」

 

これは女性の政治家が少ないことの理由の一つだと筆者は述べます。

「自分の能力に自信を持てない女性ほど、男性に比べて立候補を思いとどまる傾向が強かったと言う。これは、社会化を通じてジェンダー規範が植え付けられるメカニズムを示している。」

 

ダイアナさんはイギリスの人なのですが、彼女の本が日本でこれほど翻訳され、ジブリでヒット作品になった理由の一つには、女性が自信を持つことに共感する人が多かったのではないか、という視点も見られます。

 

政治を政治だけとしてみるのではなくて、そこに潜んでいる文化背景にも焦点を当てる。

筆者はジェンダーという視点を文化に導入することで、今までの歴史の視点も違って見えるようになる、といいます。

その点から言えば、民主主義が始まったと定義するときの視点すら違ってくるのだ、と。

 

なかなか政治学の視点からだと私は語りにくいのですが、社会学の視点や心理学の視点からでもこのジェンダーに関する考えを発展することが可能なのだと感じました。

 

私たちは知らない間に常識を持っているのですが、その常識は視点を変えることで常識ではなくなっていきます。

このジェンダー視点というのは、女性差別が根強い国と見られている日本においても重要な視点になってくるのではないかと思っています。

 

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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