「現代に生きる人間の倫理」
第2節「科学・技術と人間」
4.イギリス経験論と大陸合理論
- イギリス経験論とは
- 大陸合理論とは
- 経験論と合理論の統合
参考文献 ヒューム 人と思想(泉谷周三郎)、自然宗教をめぐる対話(ヒューム著 大塚元訳)、スピノザ(國分功一朗)、はじめてのスピノザ(國分功一朗)、知性改善論(スピノザ 畠中尚志訳)、哲学用語図鑑
イギリス経験論と大陸合理論|イギリス経験論とは
経験論はおもにイギリスで発展し、合理論はおもにヨーロッパ大陸で発展しました。
文化背景や、誰の哲学を参考にしたかによって、その論がどのように発展していったのかは異なります。
ただ2つの思想は人間の認識能力(感覚や理性)を信頼する点で、近代の人間中心主義に根ざしています。
演繹法(一般論を個物に当てはめる)だと、新しい発見は導き出せないと考えられていた
ロックの知識獲得方法
人は生まれた時は白紙。
白紙から人はどのように知識を獲得するのかを、ロックは考えました。
経験論の基本は五感(聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚)による経験です。
すっぱい、甘い、痛い、硬いなど、五感から得られる印象をロックは単純観念だと考えました。
- 一次性質⇒人間の五感に関係なくそのものに備わっている性質。
人間がいなくても成立する(大きさ、形、個数といったものは成立している)。
デカルトの「延長」と類似した概念 - 二次性質⇒人間の五感によって捉えられる性質。
人間がいないと成立しない
これに目を付けたのがバークリです。
バークリの知覚論
バークリ(1685-1753)はロックの一次性質に疑問を覚えました。
バークリ「存在するとは知覚されていることである」
- 人間の知覚が先
- 物の存在が後
バークリはロックの一次性質を否定し、世界の存在根拠を「知覚」だけに求めました。
ヒュームの「因果関係の否定」
ヒューム(1711-1776)はバークリの考えを受けつぎます。
人間は「知覚の束」だと考えました。
一次性質の否定は、私を物質的にも存在しない、と考えることになります。
物質の否定は「ゆえに我あり」の部分の否定にもなる。
デカルトは「ゆえに我あり」を説くために生得観念を持ち出していた。
つまり、私の物質的存在否定は、生得観念の否定にもつながる
(友人はヒュームだということを隠して家に招いたら、母親にあの好青年ならまた連れてきても良いと言われた)
- 「ロックこそが、信仰は理性の一種にほかならず、宗教は哲学の一部分にとどまると公然と主張した最初のキリスト教徒」p17
- 「わたしたちの観念は、わたしたちの経験を越えることはありません」p43
- 「わたしは習慣にもとづいて、一方の存在を見ればいつでも、他方の存在を推測することができます」p58
- 「一般的になされていた区別には根拠がない」p61
- 「『似た結果は、似た原因を証明する』これが経験的論証です。しかも、あなたはこれこそが唯一の神学的な論証であるとも言いました」p87
- 「生長や生殖が、自然において秩序を生み出す原理であることが経験される。‐理性が生殖を生みだすのは、けっして見たことがない」p117
- 神の存在という事実問題は、ア・プリオリ(生得的)な論証で扱うことはできず、経験や観察によって推論するほかないp249(著者解説の部分)
次に、大陸合理論について紹介していきます。
イギリス経験論と大陸合理論|大陸合理論とは
大陸合理論。
- 人間は死ぬことを知っている
- 完全か不完全かは生まれつき知っている
- 平行線が交わらないこと、「1+1=2」という知識は、経験によって知ったわけではない
- 善悪の区別や道徳を生まれつき知っている
このように、経験によらずに持っている知識が生得観念です。
デカルト哲学の第一定理「私は考える、それゆえにわたしはある」(コギト=エルゴ=スム)も、演繹法の前提になります。
デカルトはこの前提の後に神の存在証明をしました。
この前提に対し、批判を加えながら独自の哲学を構築したのがスピノザ(1632-1677)です。
スピノザの批判
デカルトは「わたしは考える、それゆえにわたしはある」(コギト=エルゴ=スム)という原理から、物心二元論を説きました。
意識と身体は別々に存在していると考えたのです。
しかし、スピノザはこの原理で導き出す前提は間違っていると考えます。
つまり、ある別の命題を前提にしていることになる
スピノザは「考えつつ存在するわたし」というあり方(属性)が前提だと考えました。
そして、「私は存在する(スム)」が出発点になると考えたのです。
スピノザの汎神論
デカルトの物心二元論に対し、意識と身体はつながっているはずだとスピノザは批判します。
- 意識が腕を動かしたければ腕が動く
- 意識が悲しいと思ったら涙が出る
というように、意識と身体は連動していると考えました。
そしてスピノザが導いた前提は「汎神論」です。
神と世界は同一であるという考え方で、一元論。
スピノザは私たちの意識も身体も自然もすべてまとめて一つの神だと考えます。
そして、人間も自然の一部であり、自然も神そのものだという思想です。(神即自然)
スピノザ哲学の演繹法
スピノザ哲学の前提から導き出されることを考えてみます。
定理11は神を定義した上でそれが存在することを述べている。(定理1から始まって定理11で神が定義される)‐
ある物が適切に定義されたならばそこから多数の特性が結論されるのと同様に、神の本性からは無限に多くの物が無限に多くの仕方で生じ、また導き出されると述べられている。
(スピノザp132)
真理は無限にある
「知るためには知っていることを知る必要がなく、まして知っていることを知っているということを知る必要はなお更ない」(知性改善論p31)
知るためには知ることが必要だと考えるのは帰納法的な考え方です。
しかし、演繹法はそれを否定します。
私たちは初めから知っているのです。(「真の観念の保証とは真の観念を持つことそのものである(スピノザp93)」)
(「意識とは、身体の変状の観念の観念である。‐それは〈我々がそれであるところの観念〉から区別された〈我々が有する観念〉である。」(スピノザp184)
(演繹法的に言えば、一般的真の観念と、それから導き出される私たちが思う真の観念があって、私たちが有するのは導き出される個別的な真の観念))
つまり、思ったものが真でなくて(疑問が生じる段階)、これが真だと確信できれば真
真理とは、自分でそれを獲得した時に、真理自身によってそれが真理であることを告げられる、そのようなものでしかありえない。(スピノザp94)
永遠の相の下
スピノザ哲学で有名なのは、「汎神論」に続いて「永遠の相の下(えいえんのそうのもと)」です。
永遠の相の下⇒神の視点から世界を見るということ
(理由の理由を発見するというように無限に続く)
帰納法に比べ、演繹法は新しいものの発見がないと言われています。
そのことから、スピノザは人間の自由意志を否定します。
しかし、意志の否定といっても、ネガティブな意味では言われていません。
人間の自由意志否定のポジティブな面
- あなたの身に起きていることは自然現象の一部で、永遠の中の一コマにすぎない。
けれど、その一コマはあなたがいないと成り立たない(あなたは神の様態の一部)。 - 私たち一人ひとりが世界の「仕方」や「やり方」や「様式」
- 真理を獲得するために、主体の変容を求める(精錬の歩みを求める)
- 人間精神は厖大な情報を処理しているので、意識にあがるものはその一部であり、人は結果と原因を混乱しやすいだけ
(もし自由意志の否定に悲観したとしても、その悲観対象が間違っている場合がある) - 意識は常に道徳的である
- スピノザ哲学の理性の基礎は概念であって、あくまでも一般的なもの(言葉の領域を超え出ているものを別に思考している)
今でもフランス語の辞書には、conscienceの項目に意識と良心の二つの意味が書かれている
ライプニッツの哲学
次に、合理論で有名なもう一人はライプニッツ(1646-1716)。
ライプニッツによれば、世界は分割可能な精神的実体である「モナド(単子)」からなると考えました。
世界を形づくっている最小の点がモナド。
モナドは世界が最善になるようにあらかじめ神によってプログラミングされています。
経験論と合理論を統合したのはカント
経験論と合理論を統合したのはカント(1724-1804)です。
カントはヒュームによって「独断のまどろみ」から目を覚まされたと語っています。