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感情を3つに分けて考察-「言葉と脳と心」を参照

おはようございます。けうです。

 

私はたびたび感情とは何かについて考察したいな、と思っています。

そのヒントになりそうなものがこれまでやってきた「言葉と脳と心」のエピローグにあったので参照にしたいと思います。

 

まず感情を分析するために、筆者の定義に基づいて意識と認知をわけます

意識と認知を分ける

認知⇨入力情報の高次処理

(外来情報を知覚して、正しく反応する能力)

意識⇨知覚し、反応する

(自分の心の動きに気付く能力)

これは右脳と左脳を分離実験したときにわかったことが前提として定義されています。

私たちは右脳で認知していることを意識していません。

例えば、右脳左脳分離患者は右脳で「笑って」という紙をみたときに笑いますが、左脳にそれが伝わっていない場合になぜ笑ったのかを意識できません。

ただ笑ったと言うことで認知しているということだけが表現されます。

笑っているけれど意識できていない場合を認知。

そこから、意識出来たときに言葉によって「笑ったという紙を見たから笑ったのだ」と言えます。

私たちは「認知活動を必ずしも常に意識しているわけではなく、意識しない場合も多い」とのべます。

このように定義すると、「動物は意識を持っている」とは言えなくなります。

外部からみて、動物が意識しているか、気がついているかどうかはわからないからです。

ただし、何かに対して動物が痛がっている様子を見せたときに「動物は認知している」と私たちは表現することができます。

 

この認知と意識の区別が一つ。

意識は創発であり、心は時間を抱え込む

さらに。

筆者は神経内科医ブラウンの言葉を参照に言います。

「意識というのは創発(イマージュエンス)」だと。

元来がそこにあって見えるようになるのではなくて、そのときそのときに出現するのだ、と。

さらに、「心は自らの中に時間を抱え込んでいる」と。

この2つ。

意識は創発。
人間は自らの中に時間を抱え込んでいる。

これらをまずは前提とします。

感情を3つに分ける

このことから筆者は感情を3つにわけます。

・「情動性感情」
・「感覚性感情」
・「背景感情」

この3つです。

情動性感情

情動性感情。

内臓活動や筋肉運動など身体由来の神経情報を起源とする感情

愛・憎しみ・妬み・喜怒哀楽・などさまざまなニュアンスを帯びた人間的感情や動物のような攻撃感情や逃走感情のようなものも含みます。

心の内部のゆれ。

この感情はカタチを作っていないためになかなか自覚しにくいモノだと筆者はいいます。

愛にカタチはない気がします。

嫉妬にカタチはない気がします。

内部のゆれなので、カタチをつくっていません。

感覚性感情

感覚性感情。

感覚性感情は感覚そのものの経験です。

視覚や聴覚など感覚器由来の神経情報を起源とする感情

視覚処理系や聴覚処理系など、異なった神経入力系を基盤に発生する主観的経験と述べられています。

「見えている」「聞こえている」という知覚処理系に固有の感情です。

これが心の中に出没するイメージである心像のもとになります。

心が外部とつながってあらわれるもの。

なので、情動性感情にカタチをつけるとすれば、こちらになるのかもしれません。

背景感情(経験性感情)

背景感情。

積みあがってゆく経験を自分の経験であると感じさせる感情

「昨日のわたしと今朝のわたしが同じである、という感じ」をさせてくれる感情。

ここでは先ほどの二つの感情を記憶のプールに投げ入れる感じです。

これはすべてカタチの前段階のまま背景感情(経験性感情)として蓄えられているといいます。

 

簡単に言えば、感情は内部でも発生する。

外部でも発生する。

そして、私たちは心の中に時間を抱え込んでいるから、記憶から感情をひっぱりだすことができる。

 

一見、なぜ情動感情と感覚感情を分けるのだろうと私には思えたのですが、例で考えます。

子どもがおもちゃを破壊されているのをみて怒りました。

表現として怒ると私は使いましたが、どの程度起こっているのか文字からは判断がつきません。

怒りくるっているのかもしれませんし、あっさりとした怒りかもしれません。

本人がどの程度怒るのかというのは本人が表立って表現したものでしか周りの人は感じることができませんが、内面では表現されない怒りが渦巻いているのかもしれません。

それを内部の心の動きとして表すために情動と表記します。

そして、ただ入力したものとか出力するカタチとなるときには感覚性感情とします。

 

この3つは深く結びついています。

外部から何かを感じる。

それをカタチにする。

痛みでも、怒りの元でも。

それを心像にする。

でも、その心像の度合いは内部でしか図ることができない。

そして、それは記憶とともに必ず結びついている。

 

時間はない、なんて現代でいわれていますが、ここでは心の中に時間を抱え込んでいると前提にしました。なので、感覚と感情を分けることもしないんです。

その場で痛いと思った事と、後になって痛かったと思い出すことは同じく人間の心の動きと捉えることができるからです。

 

認知と意識の両方に感情はある

心は感情から心像を作り出し、さらに、心像の特殊型として言語心像を作り出してきた。

無形の感情→有形の心像→感情や心像の記号化(言語心像)

これが言葉として出てくるのですが、私たちは意識する前の認知に感情を含めています。

 

 

私たちは意識していない、認知段階のものを感情といいます。

さらには、言葉によって意識しているものも感情と言います。

この二つを認知と意識でわけているのですが、感情はその2つにあらわれてくるものだと言えます。

 

ショーペンハウアーは感情をネガティブなものといいました。

〇〇じゃないものが感情だ、と。

人は意識をします。

そこから意識じゃないものが感情だ、と昔はそう表しました。

でも、言語哲学を私たちがするようになって、言葉にする感情も感情だとみなされるようになります。

意識にも感情が入り込んでいるのです。

感情分析のまとめ

感情を考慮するのには、右脳左脳という分離は押さえておきたい事柄です。

そのうえで、認知と意識を分けることができる。

そして、時間を抱え込んでいるから感覚と感情を分けられない。

表現としてはわけているのかもしれない。

それは、時間はあるものとして捉えられてきた古来からの時間の認識だと感覚と感情はわけられるかもしれないけれど、時間はなくて人間の内部にだけあるものだとすれば、感覚と感情をわけられない。

 

3つを分けて捉えることができるけれど、表出されるのはその3つが結びついているのが感情と捉えられます。

また結びついたものを観念とか、心の動きだとか、それを超知覚性心像だとか本では述べられています。

 

また感情については考えていきたいのですが、とりあえず本のエピローグからのまとめになります。

では、お聞きいただいてありがとうございました。

 

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