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言語論的転回の意味ー感情を知識にする。

おはようございます。けうです。

 

最近哲学ブログのリライトを進めていて、昨日は言語論的転回をリライトしていました。

昔の自分はこの意味をちゃんと理解していたのか?

というような欠点を指摘しつつ、大幅に内容を変えたりもしています。

言語論的転回の意味

そんな中、言語論的転回の意味をそこまで考えていなかったことに気がつきました。

言語論的転回とは、今まで主観的な見方をしていた哲学を、客観的な見方ができるようにしたもの。

例で言えば、神様というのを主観的な見方をしていたときは祈りと言うジェスチャーで表わしていたり、大自然を指さしたり、といった自分独自の表現をしていたこともあったんです。

でも、言語論的転回が起こって、神様というのを言葉から分析するようになりました。

この文脈で使われていると分析したり、とか、他には辞書を引いて意味を得ることができるようになりました。

 

なんと、広辞苑って哲学者ラッセルの考案によってできたらしくて、1935年頃のようです。

それまでは広辞苑をみたくてもなかったんですね。

なので、主観的に判断するしかなかったという事実があります。

それでも、私たちは辞書が日常から出来上がったことを忘れて、辞書の意味を絶対視してしまうこともありますけど、辞書は元々日常から出来上がっています。

そして、この言語論的転回は私たちに根付きすぎていて、それ以前の哲学は主観的だったことに気がつきにくいのかもしれないと思いました。

分析哲学から知識と感情を考えてみる。

例えば、ショーペンハウアー哲学を私は読んでいましたけど、その言語論的転回を意識できていなかったんです。

例えば、ショーペンハウアーは知と情を分けました。

 

つまり、私たちは理性じゃないものは情にしてしまっている、とショーペンハウアーは述べています。

 

でも、分析哲学で言えば、〇〇でない、としか言えないような感情というのは分析できないんです。

だから「情とは?」

と問うことを辞めて、情の意味とは?になるんです。

 

他の言葉と比較してから見てみます。

神様とは?

と問うことをやめて、神様の意味とは?と問う。

もう今は辞書になれすぎていて、神とは?という問いが、意味を問うものになっていたりします。

人にとっての神様の意味が浮かび上がってきますし、それが辞書に載っています。

神の意味を哲学で分析する。

こうなると、分析すること自体が考えることなので、この神も知によって得られるものになります。

 

それを踏まえて、感情とは?

といったそのものを問うことをやめて、

感情の意味を調べてみます。

そうなるとまずは感情も分析できるものになるので、知に分類されます。

哲学で分析できるものは知識です。

まず否定形だけで存在するものではなくなる。

辞書で感情をひくと、ヒトなどの動物がものごとや対象に対して抱く気持ちのこと。

喜怒哀楽、諦め、驚き、嫌悪、恐怖、好き嫌い、などがあります。

 

前期のウィトゲンシュタインにすれば、事実と対応しないことは言語化できないとしました。

まず初めに感情の意味がある人の主観によって作り出されたものだとしたら、その主観的な意味を分析する意味はないのです。

前期ウィトゲンシュタインからすれば、分析する意味はない。

 

しかし、言語が成立するには人がいることによって相互にできている、日常に即していると後期ウィトゲンシュタインは考えました。

主観的だと思っていた言葉も、実は事実と対応させて言語化できると考えたのです。

なので、感情の意味とは?と問うのと一緒に、その言葉が出てきた日常言語での使われ方を私たちは考えるようになります。

 

分析哲学とは、具体例に即してみんなが客観的に調べられる物ごとにすることです。

ということは、分析哲学で言えば、○○はこう言っていたからこうだ、とか、○○理論に従えば、という誰かの主観的な根拠ではなくて、日常的な具体例をだします。

 

感情は知ではない、という定義があったとすれば、その意味がでてきた具体例を述べていくのが分析哲学だということ。

だから、現代の形而上学は思考による論理が言われます。

仮想世界とか、脳の中の水槽だとか、経験機械だとか、一般的にイメージできる手法がでてきます。

日本でも最近は昔の哲学書ではなく、現実に即した対話形式が増えてきています。

これも具体的です。

そして、実際に日常の中で使われている感情を分析できるということ。

感情を分析する

 

例えば、私がある事に対して喜んでいたとします。

今日は休みだから嬉しいな、と。

そして、私は無意識にうきうきしていたらしく、他人に言われます。

なにかあったの?嬉しそう!と。

そのときに私は嬉しくしていた理由を思い出します。

今日はお休みだから、無意識に喜んでいたんだよ、と。

 

そしてこの感情の使われ方をみると、感情と言うのは一面的には理由が必要なんだと言うことがわかってきます。

他人に自分の感情を説明する時には、何かの物事と一緒に説明するんですよね。

その理由づけを考えると、さらに感情と言うのは感覚をまとめ上げる知的作業のように思われます。

どうして嬉しそうなの?

という答えを探したり、考えたりする言語化は知的作業なのではないかと思うからです。

 

そして、この作業は分析哲学でも日常言語派のやる分析です。

分析哲学においても、科学的なものを重視する派と日常なものを重視する派とでわかれているんですよね。

哲学のあり方

哲学では否定は当たり前。

だから私はある意味心地いいし、ある意味つらいのかなと。

ウィトゲンシュタインは哲学に必要なのは勇気と言ったようです。

自分を変える勇気。

認める勇気。

間違いは間違いだと認めて、その度ごとに自分を変えていかなければいけない。

それでも見方が変わる事自体はとても面白くてアハ体験になるんですよね。

見方の閃き体験。

 

ちょっと話がそれましたが、感情も知的作業なのだとしたら、私は否定して嫌な気持ちになっていることも、自分が作り上げた事なんだと思えます。

そうなると、自分の偏見を見つめなおして、さらに変えていける勇気になるのかな、と思いました。

自分の感情は絶対ではない。

そう思うと、変える勇気というのは持てるのかな、と。

そして、自分の根源、今までは喜び悲しみで判断していた事柄もさらに根源に遡れるようにもなるのかな、と考えました。

分析的手法によって、さらに客観的に自分を知ることにつながる、と思いました。

自分をそこまで深く分析しても意味がないよ、といわれてきた形而上学にさらに分析哲学によって深みや見方がつけ加わるというのはおもしろいなと思いました。

 

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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