おはようございます。けうです。
武器になる「法学」講座を読み終えました。
終わって考えさせられたこと。
この本では、法とは関係がない人でも思考法として身につけてもらいたいという筆者の思いがあります。
そして、そもそも論だとかを見たり、悪いことをされたけれどこれは法に照らし合わせて罰則されたりするのか、ということも。
その考え方で行けば、そもそも罰則に関係しないことが多くかかれているのはどうしてなのか。
ということも思いました。
実際に罰則されないこと、例えば道徳に近いものも書いてあります。
なぜ罰則だけではないものも書いてあるのか、ということを解釈という面から考えてみました。
法の解釈とは
図書館での禁止事項をめぐって解説されていたときになるほど、と思いました。
罰則とは関係がない部分は解釈に関わってくる。
例をたどっていきます。
解釈の説明に関してでてきた例です。
「図書館の廊下で、携帯電話を使用することを禁止します。」
この張り紙があったとします。
①Aさんは図書館の廊下でスマホを使って電話をした。
②Aさんは図書館の廊下でスマホを使って、YouTube動画を大音量で視聴した。
③Aさんは図書館の廊下でスマホを使ってLINEをした。
これを文章のまま判断します。
すると、この123はすべてルール違反になります。
でも、もう一方で目的論的解釈をしてみましょうと筆者はいいます。
目的論的解釈とは
目的論的解釈とは、そもそもどうしてここにこのルールがあるのか、ということです。
このルールの目的を考えていくと、
図書館の廊下で「携帯電話」の「使用」を禁止するのは、図書館で本を読んだり勉強してたりしている人の「静かな環境を確保」するため
とのべられています。
ということは、携帯電話の使用を縮小解釈していいのではないか、と考えられます。
その場合、図書館の静かな環境を確保している③のLINEを返すというのは、ルール違反にはならないのではないか、と考えます。
ルールには解釈の余地がある。
本質は捉えきれないものだけれど、本質としたようなことはある、と。
「正確に伝えるためには言ってくれないとわからない」、ということはあるように思います。
なので、その「図書館の廊下では携帯電話の使用を禁止します。」という文章にどんどんルールをつけ加えて言ったらどうだろうか、ともいわれます。
アメリカの訴訟のような考え方ですね。
アメリカでは注意書きがたくさんあって、それが書いていないからと裁判がおこされたりするようです。
でも、日本ってそこまで言葉であふれていませんよね。
そして、筆者も言います。
では、仮に文意を確定させるために禁止項目をあげていくとどうなるのか、と。
「図書館の廊下で、携帯電話(いわゆるガラゲーだけでなく、スマートフォンやPHSなどの通話機能のある機器をすべて含みます。)及びタブレット端末やノートパソコン等を使用し、館内の図書館利用者に迷惑をかけ、館内の静かな環境を害するような通話(ビデオ通話などのオンライン使用も含みます。)をすることを禁止します。」
このように言い換えができるそうなのです。
よくよく読むことで詳しく意図は伝えられるかもしれません。
読んで聞いただけでは理解できないですよね。
図書館の廊下にいるのはそんなに長い時間ではない人もいます。
その人にとっては廊下を通っただけなのに、そのような文意を理解する必要まではない、ということもあります。
「禁止のメッセージがかえって届かなくなるおそれがあります。また、いろいろ書き尽くそうとしたため、かえって『解釈の余地』が起きてしまった箇所も、じつはあります」
確かに、迷惑ってなんだろう、害ってなんだろう、とそちらに思考がとられてしまって目的を忘れてしまうかもしれません。
ここでは、考えるな、感じろ、ということを意識するのとどめておいたほうがいいのかもしれません。
そもそものこの廊下で騒いだ場合の罰則がない、あるいは少ない場合というのはあります。
解釈と納得
なら私たちは何に規制されているのか。
そういったところでは、道徳とか倫理によって私は判断しているんだろうな、と考えます。
最高裁に行くような裁判というのはそこまでないそうなのです。
人はある時点で納得をしているのだ、と。
哲学でも責任について考えるものがあります。
その場合、刑が受刑者にかかったとしても、本人が反省していなければあまり意味がないともいわれています。
受刑者が刑務所にはいっていたとしても、そこから出てきたときに同じような犯罪を犯してほしくないと私たちは願います。
そして、重い罪を犯した人の反省が被害者の心をやわらげたりもします。
では、その法にあてはめるまでにあるもの、と考えると道徳や倫理なんですよね。
だから、法にもあえて拘束力や罰則を持たない訓示規定と効力規定があるのかな、とも思います。
そして、哲学では言葉は時代とともに移り変わっていくという考え方をしていますが、法律でも「『法』は『生き物』である」と筆者はかたります。
だから、日々判例がでたり、新しく改正法を学んだりして、一生勉強なのだ、ということを自覚するのだそうです。
私は法に詳しくないけれど、その専門家が毎日勉強しなければ追いつかないような法というものをまったく知らないで過ごしているというのはもったいないのかな、と思いました。
そして、このような法に関したこと以外のことでも、このようなことはたくさんあるんだろうな、とも。
そして、意外だなと思ったのは法律にも良心という言葉がそのまま載っていて、裁判官の良心に従う場面もあるそうです。
ということは、その法に直接は関係しない良心とか、倫理だとか道徳だとか、哲学で扱うものも考えておくと法律にも役立つのではないかと思いました。
私にとって、法律の基礎の基礎だよ、と言われた本ですがなかなか難しかったかな、と思います。
けれど、主要な点、おおまかな実生活で役立てる視点は持てたと感じました。
では、お聞きいただいてありがとうございました。