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「女性のいない民主主義」からジェンダー問題を4つ紹介

おはようございます。けうです。

 

前田健太郎「女性のいない民主主義」を読んでいます。

ジェンダーは日本では特に意識したいこと。

オリンピック開幕を受けて、日本が世界からどのように見られているか。

日本は女性差別の強い国だとみられている面があるそうです。

それは、データからも見て取れます。

2019年の議会下院における女性議員の割合としては世界192か国中163位。

OECD諸国の行政機関の上級管理職に占める女性の割合の平均は33%であり、日本は29か国中最下位。

つまり、日本の政治には、まず何よりも、男性の手に権力が集中しているという特徴があると本で述べられています。

 

世界から日本がどう見られているのかというと、女性差別の強い国という見られ方。

それをうけて、筆者は女性のいない民主主義という議題をとりあげることによって、なぜ女性が社会的に差別を受けることが多いのだろう、という疑問に取り組んでいます。

ジェンダー規範とは

その中で前田さんは日本における独特な社会におけるルールを取り上げています。

「男性は男らしく、女性は女らしくなければならない。」

このルールを、一般にジェンダー規範と呼びます。

 

例えば10年ほど前のジェンダー規範はこのようなものです。

「男性は冷静沈着に、女性は感情豊かに振舞うこと。男性はズボンを、女性はスカートをはくこと。男性は髪を短く切り、女性は髪を長く伸ばすこと。男性は仕事に行き、女性は家で子どもを育てること。つまり、男性に何かしらの行動を求める規範は、同時に女性には別の行動を求める。」

 

そして、このジェンダー規範は生物学的な男女ではなくて、何らかの形で社会的につくられたものだとする構築主義的な要素が強いと言われています。

家庭や学校、メディアとの接触などを通じて、人は男らしさ、女らしさを学んでいくのだ、と。

 

私たちは社会生活でのこうしたジェンダー規範とともにあって、それが構築されたものだと気が付かない。

気が付かないから、ジェンダー問題が発展しないのではないか、日本が各国に比べて女性差別の要素を含むランキングが低いのではないか、という問題提起です。

 

では、私たちが気が付かないジェンダー問題とはどのようなものがあるのか。

筆者はそこに目を向けます。

ジェンダー問題を4つ取り上げる

私も意図していなかったのですが、このようなことがジェンダー問題としてあがりやすい。

その4つをあげます。

マンスプレイニング「一方的な発言」

マンタラプション「発言の遮断」

ブロプロプリエイション「発言の横取り」

・組織の男女比とクリティカル・マス

マンスプレイニング

まずマンスプレイニングからいきます。

マンスプレイニングのマンというのは男性、プレイニングは説明すること、この二つを組み合わせた造語です。

女性はあまり世の中のことについて詳しくないだろうという思い込みによって、男性が女性に対して一方的に自らの意見を説明することを言います。

会話をリードしようとがんばること自体がそうなってしまうこともある、ということです。

次にいきます。

マンタラプション

マンタラプションのマンも男性。

それにインタラプションという「遮る」という英語を組み合わせ得た造語で、男性が女性の発言を遮って自分の話を始めることをいいます。

政治的な発言をしようとする女性を男性が遮ったことからつけられたそうです。

政治的な発言をするのも女性にとって大変だったと言う歴史からきています。

ブロプロプリエイショ

ブロプロプリエイションとはマンスプレイニングとマンタラプションをくぐりぬけて女性が意見をいったとしても、その発言がその女性の意見として認めてもらえないことを意味します。

これは周囲が男性の発言を女性の発言よりも重視することによって生じることが多いそうです。

有名な哲学者、例えばミルの自由論などでは妻の功績が強いらしいのですが、その事実はあまり伝えられていないそうです。

手伝ってきた人に女性は多そうです。

組織の男女比とクリティカル・マス

最後の組織の男女比とクリティカル・マスというのはその場面で作用する組織規範が男性を優位に立たせやすいことをいいます。

男女比がものをいっていて、男性が多ければ男性が発言しやすい。

もちろん、女性が多い場面では女性が発言しやすいということを表します。

クリティカル・マスは元々、核物理学の用語であり、その質量を超えると連鎖的に核分裂反応が起きる最小の質量を指す、と言われています。

ある程度、女性は女性がいないと発言しずらいということをさします。

 

これらの概念がジェンダーにあたるのだ、という指摘が私にとっては意外でした。

人間の活動の場を「公的領域」と「私的領域」に分けたとすると、これは私的領域に入るのではないか、と思われてしまったからです。

私が発言しずらいというのは私の悩みなのではないか、と。

しかし、筆者は述べます。

この公私区分が女性の抑圧を生んできた、と。

「女性が自らの私的な悩みだと考えているものは、実は本来、政治共同体全体で取り組むべき問題なのである。」

このような認識があれば、私は女性なのにこんな発言をしている。

良い母親でいなければいけないのに、それが両立できていない。

このような個人間の悩みは公で取り扱う悩みに昇華できるのだ、という視点です。

ジェンダー問題と常識

昔ながらの文化に育っていると、それが当たり前と見なしていて問題に上らないことがあります。

このジェンダー問題というのはまさにそのような問題で、昔の方が女性差別はひどかった。

それが近年ましになってきたのに、取りざたされるようになっている。

それは、問題を問題として扱える視点がでてきたのだ、ということ。

当たり前と思うものに問題意識は持ちにくいのだ、ということになります。

哲学でも常識を疑っていくと、その哲学ができたりします。

 

私もよくこの女性らしさには苦しめられるのですが、そうしたときに自分の文化と照らし合わせたり、社会的な問題になっていないかと俯瞰する視点を持ちたいな、と思いました。

 

では、聞いていただいてありがとうございました。

 

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