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言葉の意味を説明するとは-「人に自由意志はない」は何を意味するのか。

おはようございます。けうです。

 

「はじめてのウィトゲンシュタイン」を読んでいます。

この本は、今まで私が説明できなくてもやもやしていたことを言語化してくれている部分が多いな、と感じます。

今日は、言葉の意味を説明するとは何か、について話そうと思います。

言葉の意味とは

「人間に自由意志はない」

このことは何を意味するのだろうか、ということを例に出してみます。

確かに、近年の脳科学の研究結果から、私たちが意識で選択する以前に何かしらの無意識なものが意識するように仕向けていると分かりました。

無意識から意識に移行する。

この意味で自由意志は存在しない。

実験結果から端的にそう言うことができます。

 

ところが、それが何を意味するのか?

となったときに、それが意味をもつ問いをだせなければ、それは無意味なのではないか?

言っても意味がないのではないか?と。

 

では、部分を限定してみよう意味をもたせてみます。

あなたが奴隷のような生活をしていたとする。

自分がしたいことがたくさんあるのに、それが出来ないでいる。

そのとき、「人間に自由意志はない」と言ったとしよう。

その意味は、あきらめ。

自分をその環境に置くことのあきらめを意味するのかもしれない。

では、それを言う目的は何かと言うと、「人間に自由意志はある」ことを主張することになってくる。

だって、私は奴隷のような生活をしたくないと思ったから、そのあきらめとしてそれを意識したのならば、それを覆すことが私がそれを言った言葉の意味なのだ、と。

 

ある意味で、その言葉を言ったとき、私はその言葉の否定をしたくてその主張をしているのかもしれない。

「自由意志がない」という例題は科学実験とか、人間のを扱った心理実験からはたくさんでてくるけれど、「自由意志がある」とする実験結果がなかなかでてこない。

では、そこに自由意志があるとして、私が意味したい事柄は達成されるのか?

別にそこは無意識から意識が生じてもいいのかもしれない。

 

私は、例えば仕事をして!といわれてその仕事がしたくなくて自由意志がある!と主張していたとする。

その場合、私の無意識の後にやってきた意識によって選択をするという自由意志は役にたたない。

仕事をして、といわれたときに嫌だ!と言える自由意志を私は求めているはずだから。

 

では、この嫌だ!と言う場合の自由意志が発揮できないのはなぜか。

私の生活がかかっているから。

私は仕事を辞めると生活に困るだろう、と。

だって、人間の義務だから、と。

この結論に落ち着いたとき、「自由意志がないけど、自由意志を手にしたい」と思った言葉の意味することを、自分の中で無意味なものにしてしまう。

 

だから、もうちょっと考えてみる。

じゃあ、この自由意志を手にするには、生活がかかっているという状態を脱すればいいんだ、と。

具体的には、じゃあ不労所得を得て自由意志を手にしてみようじゃないか!なんて考えたりする。

そのようにして具体的な副業を考えたり、お金を得る具体的方法を実現していったときに「自由意志なんてない」と主張した意味がでてくる。

あきらめだけだったとしたら、現状維持だけなのでその文は自分に慰めをするという意味でしかない。

 

自由意志が本当は私の中でなんの意味を持っていたのかを私はそう理解できる。

 

では、一般的に「自由意志なんてない」というときは、私はどんな効果を狙っているのだろうか。哲学で形而上学的なことを語る理由は?

それはある意味、私がその原理を考えてしまうことについて、自分の存在意義を見出しているのであって、その主張をすることが関心を持たれる。

どちらか一方が両極端になったときに、それで困る人が出てくるから、私の主張は支持されて、きっと私はその支持が得たいからそんなことを言っているのだ、と。

 

私はこのように解釈したときに、哲学とは泥沼に人を引きずり込む作業だ、という哲学に対する一つの説明がしっくりきてしまうことがあります。

私と同じことをしようよ!という主張。

仲間がいないから、それに引き込む作業。

でも、これは泥沼にしなくてもいい。

サッカーをやろうよ!と誘われたとき、人は初め嫌だなとは思ってもやってみると楽しいね!ということは多い。

それは哲学にしても同じで、哲学をしようよ!と自分の土俵に人を連れ込んだときに、その人が楽しんでくれると、私もそれが満足だったりする。

 

このように言葉の意味を考えていくとき、その問いは消滅しない。

自由意志なんてない⇨自由意志があることを主張したい⇨ではどうしてそう思った?⇨

自由意志がないと、従わされるから⇨では何に従っている⇨義務とか法律とか⇨

でも、それを変えるともっと不利益になることがあるよね?⇨自分だけそうありたいと思ったんだけど、それだと一般性を持たなくなる⇨一般性は必要だと思う

⇨あ、問いがずれたけど、私が支配されている固定観念がたくさんあることを発見する。

 

私は自由意志なんてない!

を考える時に、

自由とは?意志とは?意味しているものとは?一般性は持ちうるのか?私がこのことを意識した理由は?じゃあ、主張しても困らないの?義務とか法律ってなんであるの?

といった問いに答えなくてはいけなくなるし、それぞれが重要視される意味を知識としてもつけなければいけなくなる。

 

主張を一つすることは、多くの問いを発生させる。

そして、哲学をする一つの理由は自己肯定だな、なんて自分で思ったりもする。

そこを自分が生まれながらに持っているものにしようとするけれど、なぜ経験に先立っていることを主張しているのか。

そのように問いを立てたときに、アプリオリだからと言葉を消滅させることができなくなる。

アプリオリを持ち出す意味が議論をやめるという意味が付け加えているかもしれないから。

かつ、問いを辞める時、問いを持っている間に存在意義を持つのだとしたら、それがなくなってしまうかもしれない。

 

私はよく無意味で、文脈の繋がりもわからなくなることを言うことが多いのだけれど、それを論理的に考えようとしたときに、少しだけはそのことが関わっていることがある。

その文脈にそくしてでてきた言葉だから。

これももしかしたら、自由意志はある!にかかわるかもしれない。

自由意志を個人のアイデンティティとかオリジナリティととっていた場合に、その意味不明なことが私にとっての意味になる可能性もあるから。

 

そして、その意味不明なことに私がなんでも意味をつけられるとしたら、人になにかを触発させる、ということはあるかもしれない。

だれかがこれを聞いて反応してくれることに意味を持っているのだ、と。

 

混乱回ですね。

問いを立てる意味

最後に意味を持たせる例えを出しておこうと思います。

タピオカが流行っている。

なんで?美味しいから。後は、何かそれを発生させた人がいるのだろう。

私はタピオカを飲むけれど、それを辞めようと思う。

なぜならば、タピオカを飲む意味のメリットデメリットを考えてみたからだ。

タピオカはカロリーが高い。

原料が芋だから。

タピオカをファッションの一つとして捉えている。

でも、元のファッションをたどってみよう。

今だとスタイルが良いことが一つにある。

タピオカを飲みすぎることは、スタイルを悪くする。

流行りが元の私の価値観を壊すかもしれないから、だからやめておこう。

意味を考えてそれが意味をもつとすれば、このようなこと。+

私が言葉を発する意味を考えてみよう。

そして、それを実践するとこんな感じになるよ、ということかもしれません。

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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