自由意志論と決定論の違いを今をときめく哲学者マルクス・ガブリエルの見解から見ていきます。
世間一般で言われている論のとらえ方
- 自由意志論⇨人間は自発的に意志を生み出すことができるという考え方。
- 決定論⇨世界で起こる出来事には原因が存在する。自由意志で決めていると言うのは錯覚だとする考え方。
マルクス・ガブリエルは「自由意志」という言葉を最初に述べたのは哲学者ショーペンハウアーだといいます。
ショーペンハウアー哲学では、自由意志を否定します。
ですが、人は自分の自由意志があると思っています。
例えば、私が決めた、といっても違和感はありません。
あれ、私の意志ってどこから出てきたんだろう…
では、どのようにショーペンハウアーは自由意志を否定したのでしょうか。
具体的に見ていきます。
自由意志のパラドックスとは
自由意志のパラドックスとは、人は自由意志をもっているようでそれが実は自由意志ではなかったという考え方です。
欲望は満たすことはできるが、欲することはできない。
この言葉はどのようなことを表しているのでしょうか。
『「私」は脳ではない』(2019,マルクス・ガブリエル著)を参照にこの言葉を分解していきましょう。
自由意志のパラドックスー正の側面
1・私は欲することが出来る。
2・私は、自分に意思を形成することで、自分の欲することに影響を与えることが出来る。
3・自分に意志を形成することは、行為である。
4・つまり、自由な意志というものがある。
このやり取りでは、自由意志があると思われる側面をみていきました。
決めたことを遂行したり、してはダメなことを決めているので自由意志がある気がします。
では、次に負の側面を見ていきましょう。
自由意志のパラドックスー負の側面
2・すると、私は自分の欲することを為すことができるだけでなく、自分の欲することを選び出すこともできるに違いないだろう。
3・だが、私は自分の欲することを選び出すことができない。
やっぱり食べたい。
4・したがって、意思は自由に形成されるのではなく、よって不自由である。
チョコなどの自分が好きな食品で考えると分かりやすいかもしれません。
なぜそのものを好きなのかは無意識であり、意識しただけでは好物を嫌いにはなれません。
食べない!と決めていたとしても、匂いを嗅いだり、近くにあるのを見たりするとまたそれを食べたいと言う欲望が出てきます。
この欲望はコントロールが効かないのです。
そんなときに、邪魔する何かがあるから自由意思はないと考える
人は自分が意識するより前に体を動かす電気信号が出ているという結果です。
例えば、コップを取ってと命令されたら、それを意識する前にコップに手を伸ばそうとしているそうです。
この実験からも、一見すると自由意志がないように思われます。
さらに、ショーペンハウアーの自由意志がないという見解をみていきます。
ショーペンハウアーの盲目的な生への意思
ショーペンハウアーは、人の行動やそれによってもたらされる歴史の変化に何か特別な意味はないと言います。(哲学用語図鑑 参照)
細胞はつねに戦いながら生き延びている。
体を細胞レベルで考えてみます。
そうなると、細胞は「生き残りたい」という生への意思で成り立っています。
人間の行動は存在したいという意志が起こす衝動にすぎないのだ、と。
ショーペンハウアーは、歴史はより「進歩」しているわけではなく、「変化」しているだけだと言います。
細胞が引き起こす行動は「変化」だけなのです。
ショーペンハウアーの「盲目的な生への意志」は決定論です。
決定論は、今起こっていることがすべて、自然の法則の結果になります。
太陽が昇るのも私が手をあげるのも、それは必然的に起こるのであって自由意志によるものではない、という見解です。
ただ「存在したい」という「盲目的な生への意志」によって意志が発生します。
そこに実際の意思決定はないというのが、自由意志のパラドックスです。
つまり、決めさせられている意志決定がでてくるだけと考えます。
パラドックスとは正しそうに見える前提と、妥当に見える推論から、受け入れがたい結論が得られることを言います。
自由意志といいながら、決定論になるというパラドックスです。
ここまでは、ショーペンハウアーの自由意志への見解を見てきました。
このショーペンハウアーの思想はペシミズム(厭世主義)と呼ばれます。
自由意思はない⇒世の中を悲観的に思う
というように当時の人々が見て取ったからです。
では、マルクス・ガブリエルがどのように考えたのかを見ていきます。
自由意志論と決定論の両立
自由意志のパラドックスをなくすためにはどうしたらいいのか。
マルクス・ガブリエルの見解を元にここでは2つのことを見ていきます。
- 自由意志と決定論は両立する
- 主体と客体を分けない
①決定論の中に自由意志をみる
決定論は、今起こっていることがすべて、自然の法則の結果になります。
ショーペンハウアーの哲学では、私たちが決定論に従っているから、自由意志がないと言っています。
しかし、マルクス・ガブリエルは自由意志と決定論が両立すると言うのです。
例で見ていきます。
あなたが今考えていることも、その行動をとっていることも、すべて自然法則の結果。
「決定論での内容は語りつくせのか?」と。
食べるのやめようかな、一口にしようかな、とか。
私たちはさまざまな物体からなる複雑なシステムの一部です。
アイスを食べた理由は、味蕾、遺伝子、宇宙、進化までさかのぼって説明ができます。
めずらしいアイスは知的好奇心を刺激した。
暑かった。
アイスが溶けそうだった。
私はアイス好き。
そのすべての条件を満たしていれば、どんなことでも起こるというのが決定論の内容です。
これによれば、私が何かをすることも自然に起こることの一部になります。
けれど、決定論の中にいながらも、私は自己決定しています。
私の行動が語りつくされたとしても、私はその中で自己決定をしている。
その結果、食べるという行動を起こしています。
その自己決定を自由意志と考えればいいとマルクス・ガブリエルは考えます。
そうすれば、決定論と自由意志は両立します。
決定論に必要な条件の中に、私の自由意志を含める。
このように、自由意志論と決定論は両立すると考えます。
それを選択しているということを自由意思ということにすればいい。
- 太りたくないから食べる
- 太りたいから食べる
- 目の前にあったから食べる
- 目の前になかったから食べる
矛盾することでも人によっては、その行動を起こす理由にできます。
無限にある意思決定の理由に「自由意思」をみることもできるのです。
次に主体と客体を分けないと言う理由にいきます。
主体と客体を分けない
これは、先ほど述べた心理実験で説明すると分かりやすくなります。
最近の心理学実験では、人は自分が意識するより前に体を動かす電気信号が出ているという結果が出ていました。
これに対して、自由意志がないと考えるのは、主体と客体を別なものと考えているからです。
この電気信号が出るより前に動いている体も自分だと考えます。
そうすると、結論として自由意志がないとは言えなくなります。
認識するものが主体、認識されるものが客体という区分けが間違っていることをマルクス・ガブリエルは指摘します。
ポイント
電気信号が出る前にそのように決めている体も、自分が決めたこと。
ただ意識に上ってはいないけれど、私はいつも自分を意識しているわけではありません。
「私」と「他者」の二面性を持つものが私だとすれば、私が意識できない私も「私」なのです。
私⇒私と他者によって成り立つ
私が思うことができるのは、言葉が想起されるからです。
デカルトの「われ思うゆえにわれあり」というのは論破されていて、私は私の意識だけではない。
私から言葉を切り離すことができないと考えれば、私はすでに社会性をおびています。
自由意志論と決定論-まとめ
自由意志のパラドックスはショーペンハウアーの哲学、「欲望は満たすことはできるが、欲することはできない。」で表されます。
自由意思のパラドックス⇒自由意思と言いながら、決定論になる
そのパラドックスをなくすために、2つの論を見てきました。
- 自由意志と決定論を両立可能だと考える
- 主体と客体を分けない
自由意志とは自分自身のイメージに照らして行動する能力のことであると、マルクス・ガブリエルは定義しています。
参考文献
欲望の時代を哲学する2 自由と闘争のパラドックスを越えて マルクス・ガブリエル
「私」は脳ではない マルクス・ガブリエル