>>「ノーカリキュレーション」という造語を作った理由
私はこの言葉を使って、長年の自分の悩みに答えたいと思っていたから作ったのです。
悩みは「私は他人を愛することができず、自分しか愛せないのではないか?」です。
実はこの悩みは、社会契約説などを書いたルソーも持っていたのです。
哲学者はどのように悩んでいたのか、そして、それをどうやって後の哲学者は論じたのか。
そして、私はなぜ「ノーカリキュレーション」という造語で悩みを解消しようとしたのか。
それを書いていこうと思います。
- 愛と自己愛とは
- ルソーはどのように自己愛に悩んでいたのか
- ノーカリキュレーションを論に導入
- ノーカリキュレーションで、どのように悩みに答えるのか
このような構成になっています。
この文章は同じように「自己愛」に悩む人に向けました。
自己愛と愛を分けて考える
これは、道徳から愛を考えてみようという試みです。
愛には多くの面があります。
例えばこの2つ。
- 道徳的な愛⇨「広く、人間や生物への思いやり。」
- 恋愛的な愛⇨「(男女間の)相手を慕う情。恋。」
(広辞苑 参照)
広辞苑での愛には「自己愛」が含まれていません。
人間だったり、相手だったり何かしらの対象がいます。
「自己愛」に陥るとは、その対象を自分におきかえてしまうことです。
「自己愛」に陥っていた哲学者ルソー
まずはなぜルソーが「自己愛」に陥ったのかを、西洋哲学と東洋哲学を比較してみてみます。
- 西洋哲学⇨個人主義的
- 東洋哲学⇨私と他者を分けない考え方
ルソーはフランス人なので、西洋哲学になじんでいます。
ルソーを西洋哲学的としてみていきます。
まずは、この2つを簡単につかみましょう。
西洋哲学とは
西洋哲学はデカルトから始まる「私」を中心とする哲学。
(デカルト〈1596~1650〉は近代哲学の父と言われている)
「我思う、ゆえに我あり」が有名です。
何もかも疑うことはできるけれど、この思っている私はいる、ということを表します。
私の意識を基礎とする哲学です。
私と他者をしっかりと分けます。
東洋哲学
一方、東洋哲学は私と他者をしっかりとは分けません。
日本に「哲学」という概念が導入され、最初の哲学者と言われたのは西田幾太郎です。
西田幾太郎(1870~1945)は和辻哲郎(1889~1960)に影響を与えました。
和辻哲郎は人間とは単独では成立できず、人と人との関係でのみ人間と成りうる間柄的存在だと考えます。
個人は社会がないと成立しないし、社会は個人がないと成立しないという関係です。
つまり、私と他者を分けない見方が前提となります。
整頓しましょう。
- 西洋哲学⇨私と他者を分ける
- 東洋哲学⇨私と他者を分けない
西洋哲学をやるルソーは、私と他者を分けます。
それがなぜ「自己愛」に悩むことになるのかを見ていきましょう。
ルソーの自己愛
ルソーは道徳における最初の現象は「憐れみ」だと言いました。
ルソーにおける憐れみとは「苦しんでいる人の立場に身を置く」ことです。
私たちは想像によって、他人の不幸を自分のこととして感じるのです。
ところが、このように定義すると憐れみは利己的になってしまうのです。
憐れみにおいて、私が「自分に似た人と自分を同一視し」、「いわば自分をその人の中に感じる」としても、それは実際には「自分が苦しまないためにこそ、その人に苦しんでほしくない」のだ。
別の言い方をすれば、「わたしがその人に関心を抱いている」としても、それは単に「自己愛のため」である。
「道徳を基礎づける」p61フランソワ・ジュリアン 中島隆博、志野好伸 訳
ルソーはこのように自己愛に陥っていました。
どのように憐れみから道徳を考えたとしても、自分に結びつけて考えてしまい、それが自己愛になってしまったのです。
ルソーは他者を自分との関係によってしか、記述できませんでした。
そして、それは自己愛になってしまうことで他人を愛することにならなかったのです。
次のような場合も、自己愛になってしまいます。
自己愛の具体例
例えば、私はこの人を好きだ、と自分の中で思ったとします。
その場合に、私がこの人を好きなのは、自分に似たところがあるからだと思ってしまうのです。
すると、もうその人を好きなのか、自分が好きなのかがわからなくなってしまいます。
自分と他人を同一視する。
そして、一度これに陥ると堂々めぐりをします。
愛⇨自己愛⇨愛⇨自己愛…というように自己愛になってしまいます。
愛が自己愛になってしまうのです。
自己と他者を分けたがゆえに、一緒になってしまうという逆説がおこります。
さらに自己愛を具体的にみていくために、ルソーの思想を受け継いだといわれれる時期のショーペンハウアーの自己愛をみていきます。
「自己愛」を考えたショーペンハウアー
まずは西洋哲学の解釈からショーペンハウアー(1788~1860)を見ていきましょう。
彼は道徳的な行動をした後に思考すると、それはすべて利己的な行動にしたてあげられると示しました。
(マルクス・ガブリエルの本を参照したのですが、何の本だったのか思い出せません。ただショーペンハウアーの思想を読み解いていくとそう解読できる面があります。)
例えば、「井戸に落ちそうになった子どもをとっさに助けた。」
通常ならそれが道徳だと言われそうなのですが、思考することで道徳ではなくなるのです。
私がその場面でそうしなければ、後から非難を受けただろうという利己的な部分を指摘します。
親は子を保護する義務があり、これを破ると社会的に不利になるという考え方です。
これを裏づけるような心理学もあります。
ラタネ(1937~)が提唱した「傍観者効果」です。(心理学用語大全 参考)
傍観者効果
この効果はある事件がきっかけで判明しました。
1964年、ニューヨークの住宅街でキティ・ジェノヴィーズという女性が殺害されました。
住宅街で起こった事件なので、傍観者はたくさんいたそうです。
多くの人はキティさんの叫び声を聞いています。
もし、みんなが道徳心を持っていたとしたら、殺されそうな彼女の元へ駆けつけたでしょう。
ところが、誰一人として助けに向かわなかったのです。
ラタネは傍観者が助けなかった主な理由を3つ考察しました。
- 自分の援助行動が失敗した場合を考えて助けなかった
- 誰も助けていないので、大ごとではないと考えて助けなかった
- 周りに多くの人がいるので個人の責任ではないと考えて助けなかった
このような思考によって、人々はキティさんを助けに行かなかったと理論づけたのです。
これはショーペンハウアーの道徳観を後押しします。
ショーペンハウアーは行動を起こした後で、その嫌な面を考察することで道徳ではなくなると言うのですが、傍観者効果では助けに行くまでに思考をする時間がありました。
遠くで人が困っている様子に対して、思考が働くことでも道徳が実行されなくなったのです。
思考によって道徳が道徳ではなくなる。
道徳を実行したとしても、道徳を実行する前だとしても、思考によって道徳は道徳的な面を失います。
このように述べたショーペンハウアーはルソーを引き継いだと言われています。
(ショーペンハウアーは西洋哲学の基礎から愛を捉えなおします。
なので、日本人から見る「愛」の印象自体とは違ったものになることは想像ができます。)
誰かが説く愛には、何が基礎になっているかを考察する必要があるのです。
では、この自己愛に陥らないためにはどうしたらいいのか。
東洋哲学には愛があります。
「私と他者を分けない見方」をすることで、愛を感じることができるのです。
つまり、西洋哲学の基礎を変えることが「愛」を論じる点での基礎になります。
(基礎を変えずに、愛を変えるということもありますが。)
次に東洋哲学から「私と他者を分けない見方」を見ていきましょう。
>>哲学的に考える
東洋哲学から見るノーカリキュレーション
私と他者を分けない見方は、日本人に身近な仏教観によく現れています。
日本に古くからある仏教の主な人物、親鸞(1173~1263)の考え方で言えば私は器になります。
個人が器のように受動的になるのです。
好きが私にやってくるものになり、私が受け身の器になります。
そこでは個人というものがなくなってくる。
中身と器があってこその本体というイメージです。
モノを入れるための器としたときに、中身がなければ器は機能しません。
そして逆に、受け止める器がなければ中身は流れていってしまいます。
私(器)と他者(中身)があって成り立つと考えるのです。
そして、東洋的な道徳の捉え方はノーカリキュレーション(計算のないとっさの行動)です。
(ようやくノーカリキュレーションを導入です)
井戸に落ちそうな子供をとっさに助ける。
その行動自体が道徳になります。
「直観主義⇨善いものは善い」
これにあやかって行為が道徳になるのです。
- 東洋哲学的:行為がある⇨道徳そのもの
- 西洋哲学的:行為を思慮⇨道徳を疑う
ここでの理論の飛躍が気になった人は、こちらを読んでみてください。
>>ノーカリキュレーションを導入した理由
これが道徳かどうかと疑うことはなく、道徳が存在しているとして扱うのです。
(西洋哲学でものちに現象学がでてくるので、道徳がそこに存在していることが前提となり、東洋的・西洋的とわける意味はないかもしれません。)
ノーカリキュレーションを導入してみよう
人は考えますが、考えとは違った感情があります。
例えば、井戸に落ちそうな子供を助けることを考えてみましょう。
ルソーの憐れみで考えれば、自分が井戸に落ちそうになったとき助けて欲しいと思うから助ける、となります。
利己的に考えたものしか、私は採用しなくなってしまうのです。
しかし、利己的という理由で考えたとき、矛盾する点がでてきます。
それは、助けることで自分が死んでしまうかもしれない。
このような自分の利益と反する点です。
これが利己的だと考えたときに、論理的に矛盾してしまうのです。
- 考察することで道徳でなくなる
- しかし、考察したとしても利己的と矛盾する部分がでてくる
私が何を一番の利己的としているかを考察しなければいけませんが、人間ということで「生きる」ということは生物学的にも重要視しなければいけません。
私が考えたことが道徳だとすると、道徳を制限してしまうことになったり、感情と現象とが不一致になるような行動(笑いなど)が説明できなくなります。
道徳がそこに存在していることが前提。
直観的にそれは道徳だという前提から、「自己愛」に陥る悩みを解決してみましょう。
ノーカリキュレーションで悩みを解決してみる
実験的に、ノーカリキュレーションを感じて下さい。
小説を読んだり、歌を聞いたり、映画を見たり。
計算のないとっさの行動を起こそうとして、私の心に響くような何かをしようと試みます。
しかし、ここで注意が必要になってきます。
ノーカリキュレーションが「何か」を分析しようとして考えてしまうと、また自己愛に陥る場合があります。
とっさに沸き上がったもの、とっさに行動したものを受け入れましょう。
強く言うならば、分析はいらなくなります。
この音楽を聴いて震えた、この場面を見て涙した。
その事実だけを覚えておく。
そうすれば、自分はこういう人なのだ、ノーカリキュレーションではこんな行動を起こす人だと、知ることができます。
なんでも論理的に考えてしまう人は、お酒に一度頼るというのもいいのかもしれません。
お酒で論理的思考を阻害します。
ただ私はこんな行動をとった。
さらにいうならば、その記憶も外部にたよってもいいかもしれません。
酔った行動を録画したり、録音しておいたりして、私を知るということです。
東洋的にいえば、その行動に私の道徳があらわれます。
そして、ここで当初に戻って愛をみていきます。
愛をみるノーカリキュレーションの例
自分の愛を知るために、その対象を目の前にしてみます。
例えば、母親の場合で言えば、自分の子どもを抱きしめます。
もし、子どもがいなくなったら、と思いながら抱きしめてみればいいかもしれません。
そのときに涙がながれてきた。
そのときにその手を掴んで離したくなくなった。
それを示す行動をしたとすると、子どもを好きだということがわかります。
もし、これを自己分析という自分のフィルターにかけていくと自己愛になってしまいます。
なので、そこでは考えずにただわかればいいのです。
私はあえて、好きと言うことがわかると述べました。
感情がわかるわけではなくて、好きと言うことがわかると。
私が行動を起こすような何かが私にとってわかる、ということです。
この例で言えば、母親はノーカリキュレーション的に「好き」ということをただわかったとしか言えない。
感情まではいかない、「好きと言うこと」がわかるのがノーカリキュレーションにおける知り方です。
なので、私は冒頭で愛を知る第一歩と表現しました。
まだここにはさらなる問いは隠れていますし、ショーペンハウアーのようにとことん個人を前提とした愛を考察していくのもおもしろいと思います。
(後年のショーペンハウアーは仏教観も入っているといわれています)
自己愛とノーカリキュレーションまとめ
まとめます。
- 愛と自己愛とは
西洋哲学的に考察していくと、愛が自己愛にかわる - ルソーはどのように自己愛に悩んでいたのか
すべての考えを自己愛に結び付けた - ノーカリキュレーションを論に導入
ノーカリキュレーションは東洋的で、直観主義的 - ノーカリキュレーションはどのように悩みに答えるのか
体感を多くして、これが愛なのか、とわかる
私と他者を分ける見方は自己愛に陥りがちです。
自己愛を避けるには東洋的な見方をしていきます。
その一例としてノーカリキュレーションで愛をわかっていきます。
問いは残るかもしれません。
ノーカリキュレーションはどこから出てきたのか。
道徳的な愛と恋愛的な愛との違い、感情とはなど、多くの問いが残ります。
ここから愛を知る第一歩として、なんでも考察すると自己愛になる見方の基礎を少し変えてみれば、悩み解決の一歩になります。