NO IMAGE

「生きること、死ぬこと」を読んでの感想

おはようございます。けうです。

 

私たちはどう生きるのか-コロナ後の世界を語る2」を読みおえました。

今回は誰かにシフトするのではなくて、私はどう思うのかを文章にしてみたいと思います。

この本の中の「生きること、死ぬこと」を読んでから、自分なりの死生観を考察してみました。

「生きること、死ぬこと」を自分にあてはめる

私は、ウィルスに関して実感ができていません。

とても混んでいるスーパーのレジ仕事につきながら、それほどお客さんの数も減らない、ということを感じているだけです。

人は今の現状に慣れる。

その意味で言えば、私の日常生活において人の流れに変わりはないんです。

ただ、アルコール消毒したり、マスクをしたりといったことが増えただけ。

 

でも、ニュースは違います。

連日、感染者が増え、死者も増えている。

データとしては、対策に乗らなくてはいけないと思います。

なので、私は対策をとる。

マスクをしたり、アルコールをつかったり、不要不急の外出をそこまでしない。

そうした中で思うことは、どこか私からするとウィルスが他人ごとになってしまう。

私は本心から、この危機に取り組まなきゃ、と思っているわけではないとどこか気が付いてしまっています。

「生きること、死ぬこと」ウィルス以前の問題

そう思ったときに、私の問題はウィルスだけだったのだろうかと思い当たりました。

もしかしたら、もともと自分を生きていなかったかもしれない。

そのように思ったからです。

最近、「自分の考え」がわからなくなっています。

本をたくさん読み、その要約をしたり、そこから読み取れることを話す。

そうしたときに、これは私ではなくてもできると感じます。

でも、一方で、「自分の考え」というのもそういうものなのではないか、とも思うようになってきました。

 

何かに刺激されて考えさせられる。

その時に浮かんできた思考を、ただ文字にして起こすだけ。

この時代に生きている私は、その思考を自動的に文字にする。

「自分の考え」にアイデンディディーがあると思っていた私は、それがなくなりつつある。

この時代の恐慌や不穏な出来事に流されながら、その中で誰もが思うだろうことを代わりに文字に起こそうとしているだけだ、と思うようになっています。

 

そして思うのは、そういう仕事の方が需要があるということ。

私個人が書いたものよりも、誰か有名人の文章や、統計や実験結果を参照に話していって、そこから読み取れるものを書いた方が需要がある。

自分を消していった方が、私は文章を書いていられると思いました。

 

そうなると、私の仕事は、それらを紹介することです。

ただ私を介することにはなっていくのですが、介することの利点は何か、は考えることになります。

私は現実に起きている問題に対して、このような疑問を持った。

あなたも同じ問いを思うだろうか?

あなたはどう感じるだろうか?

それは、元々にあった文章を問いかけに直すという作業だけなのかもしれない。

ただ作品の言い直しをして、私はあなたとコミュニケーションを図ろうとしているだけだ、と。

情報を伝えあうことをしているだけだ、と。

それでも矛盾した行為として、私はいつもどこかで、文の中に私を発見しようとしています。

文字を書くと、私がいるような気になってくる。

ただその文字を追っていって、私を捉えようとするとどこにもいないのではないかと感じてしまう。

「生きること、死ぬこと」私の限界

最近、自分が発見できていないのに、社会にある「私」に限界を感じてきています。

一生懸命取り繕って作ってきたけれど、その「私」は社会に馴染まない。

どこかがおかしい。

これが普通だろうと思っていると、世間では悪い人になってきてしまう。

「良い私」が作れない。

例えば、昨日は2件ほどスーパーで苦情を受けてしまいました。

ギフトカウンターにいて、並んでいるのか並んでいないのかわからない人がいた。

声をかけるのが遅くなってしまったんです。

すると、「なぜ並ばせておいたんだ!」と怒られることになった。

「俺は店長と知り合いだから、後であなたの名前を店長に言っておくよ」そういわれて、「わかりました、申し訳ございません」とだけ謝った。

謝る以外の対応が思いつかなくて、他はいつもどおりの接客をしました。

こういうとき、他の人なら他にどんな対処法をするだろうかと考えたけれど、思いつかなかった。

他には、レジのお客さんがビニール袋におにぎりを5つくらい詰めてきた。

私は、それに対して袋から許可なく出して、いつもの通り商品登録をしていました。

すると、「袋にいれていたのに、かごにバサッと出すとか、不衛生で信じられない。」

このように怒られました。

「申し訳ございません」と謝って、これも謝るだけで従業員が持って欲しいだろうお客の心持ちになるということが出来なかった。

表面的な従業員としての「私」が文字通り、「従業員の私」としてしか機能していない。

「良い従業員」を考えるならば、「お客を不快にさせないように気をつけなきゃ」と思う心持ちがでてこなかったのです。

失敗してしまったな、といったことは感じましたが。

 

私たちは誰も「私」(自分)を作り上げている。

しかも、多くの人はそこに感情ものせて作り上げていられるだろうと思います。

その場ではきちんと表情を取り繕って、誠意をみせて謝る、そんなことを社会的に成熟できている人ならばやってのけれるだろうと私は思いました。

ここで言えば、取り繕うという行動を私は取らなければいけなかったと感じました。

こうしたことに無感情になってしまっていた私は、自分の作り方にも違和感を覚えてしまったんです。

「生きること、死ぬこと」社会的不適合とは

先日、カウンセリングを受けて、あなたは言葉がしっかりしているから、支離滅裂ではないから、カウンセリングの対象ではない。

そのように精神科医や産業カウンセラーの方からは言われていました。

けれど、他の教育の先生から、「論理的に話しているのに表情と声が一致していなくて、話しながら泣いているのは精神が不安定かもしれない。」

そういわれました。

「精神科は病気の前の人も扱ってくれる。だから、また受診してみてはどうだろうか。」

そういわれたので、受けることにしました。

 

精神病と普通の境目もわからなくなります。

ただ、もしかして元からわかっていなかった。

それが考えることによって、「わからない」ことが明確になったのかもしれません。

 

このウィルスでも、気が付かなければスルーされていたことが、発見されたから重要に取り扱われるようになりました。

病気というのは、命名されるとそれが語れる明確な問題になってくる。

哲学の仕事の一つは、問題を明確にすること。

わからないことをわかるようにすること。

今回は考えていった先に、「わからない」ことが「わからない」こととしてが明確になった。

表面的には正しいのだけれど、そこには模範的な正しさではなくどことなく正解とは違ったものがある。

わかっていた方がいいことが「わからない」ことになったから、問題になったのかもしれません。

ただわかった先に何が待っているのか。

 

わかるというのは、私がもっていた私特有のわからなさを、現実にわかるものとして呼び込むことかもしれない。

それが病気としてわかるものになるのかもしれない。

そして私はどんどん、私の特有さをなくしていく。

「個性的」だと言われる自分を、社会に溶け込ませようとしている。

 

哲学者ルソーの言う「私は生きることなく死んでいく」

この言葉をたびたび思い出します。

文章や表現にのめり込むことは、私を一般化しようとする行為かもしれない。

そうなれば、私は生きないようにしている。

「生きないようにしながら死んでいく」

そうしたときに、理性的な自分と、その他の自分との軋轢が、精神不安定にもなるのかな、と思いました。

 

「私たちはどう生きるか」から、私は今どう生きているんだろうと考察してみました。

おそらく、またカウンセリングを受けたり、人と触れ合ったりすれば、考え方もかわっていくのかもしれません。

一般化するためにレッテルを貼るならば、精神科を受診する前の不安定な状態とはどういうものか。

その人が感じる心持ちと、この世界状況とは関係があるのだろうかという考察という題をつける。

こうなるのかな、とも感じました。

では、お聞きいただいてありがとうございました。

NO IMAGE
最新情報をチェックしよう!
>けうブログ

けうブログ

哲学を身近に