おはようございます。けうです。
昨日は「フィヒテの知識学の第三原則」をブログにUPしました。
今日はこれを具体例と一緒に説明したいと思います。
知識学の第一原則
知の第三原則を述べます。
まずは第一原則。
私は私。
これを言えることが第一原則になります。
ぱっと聞くと当たり前に思えませんか?
私は私だし、私があなただったら変だよね?と。
人が当たり前にその通りだ!と思えるものが第一原則になります。
でも、ここで例外を出してみます。
幽霊は幽霊である。
ドーナツの穴はドーナツの穴である。
今の日本の大統領は女性であるということは今の日本の大統領は女性である。
四角い丸は四角い丸だ。
これに共通すること。
それはその物自体が存在していないかもしれない、ということです。
ドーナツの穴を私たちは言葉として使いますが、それを見ていません。
穴が存在していないことを私たちはわかっています。
幽霊は幽霊だ。
と言い切ることに違和感を覚えませんか?
ある人はいると思っているけれど、ある人はいないかもしれないと思っている幽霊。
またドーナツの穴は想像できるけれど、現実にはないもの。
最後の四角い丸は想像すら難しい。
そういったものをあると言い切るのは違和感が生じます。でも、私は私といったときに違和感ってないですよね。
それが知識学の第一柱になります。
知識学の第二原則
では、知識学の第二柱にいきます。
私は私ではないものではない。
私≠わたしでないもの
という記述になります。
これはなにをいっているのかというと、私と私でないものを区別しています。
でも、ここで例題で考えてみます。
私でないものを肩書だと考えてみて下さい。
私は女性。
これって捉え方によっては私は女性だよ!と言い切ることができます。
でも、ここでは、私は女性ではないとするんですよね。
これは言葉にして表した方が違和感があるかもしれません。
ここで、私は女性だと思っていないのは誰かと言うとそう思っている私です。
私は自分のことを女性だと思っていないんですよね。
女性というのは知識だと思っている。
辞書で女性をひくと
インド‐ヨーロッパ語系の文法で、名詞・代名詞・形容詞などの性の別の一。男性・中性に対する。
私は名詞の一つではありませんよね。
ここでは女性と言う知識とイコールではない、ということを表しています。
もう少し第三原則とからめて説明していきます。
知識学の第三原則
では、次にいきます。
知識学の第三柱はちょっと複雑です。
私は「私」の中でわかちあえる「私」に対してわかちあえる「私でないもの」を対立させる
という文章です。
私はすでに第二原則、私は女性ではない、という説明でそのことを説明しているんですよね。
私は知識としての女性ではない。
肩書として女性というものはあるかもしれないけれど、私イコール私でないものではないんですよね。
例えば、あなたは母親ですよね!
と言われたとします。
私の中の母親のイメージがあり、相手から言われた母親のイメージがあります。
この場合、母親のイメージが二つあります。
でも、私は私のイメージの母親とも、相手のイメージの母親とも自分をみなすことができないんですよ。
理想的な母親に憧れるけれど、それとイコールではないんです。
どうしても自分の中で対立させてしまうんですよね。
私はある意味母親なんだけど、ある意味母親じゃない、と。
理想の、とつけるとわかりやすいかもしれません。
ここで出てくるのは私の中だけなんですけど、私が母親だとイメージしたものって、私以外のものからきています。
知識は獲得していくからですね。
母親という名詞を私は知識として知ったから使えることができます。
私は知の主体
そして、この第三原則があるから、私は私しか知らないことがあるし、あなたはあなたしか知らないことがあると言うんです。
私でないものは知識からきます。
それは私たちが会話するときに使う知識ですよね。
それを原則に出来るから、私は知の主体であると言うことができる。
だから、どんな人と話しても、その人にはその人しか知らないことがあるんです。
私のイメージとその私が違うのに、私は私を知っているからです。
情報と知識を区別する
例えば、本で情報を得ますよね。
そして、その情報は本当なんだろうか?って実験したり、ノウハウを聞いたからとそれを実行したりします。
それは、私が得た情報がその本に書かれている情報と一致しているのか確かめる行動をします。
情報から知るに移行するとも言えます。
情報を私の知識します。
前頭葉を説明して!とか言われたら、情報として私はその言葉をしっていたかもしれないんですけど、説明しようとするととたんにできなくなる。
それはまだ私が知らないからなんですよね。
ただ見聞きしたものがそこにあると思っている状態。
そこから私が前頭葉を自分で説明できるくらいになったとします。
そのとき、その説明している文言というのは私しかもってないですよね。
私がその知の主体になるからです。
よく情報は経験すると自分のものになるといいますけど、ただある言葉「前頭葉」が、自分の知識になることができるんですよね。
知の主体として知識を吸収できると考える。
だから私たちは情報を聞いたときに、それをやってみたいと思うんです。
私はそれを理解したのか、私の見解と一致するのか、と考えて情報を知識にしようとする。
こう思うと、機械と私を区別できますよね。
機械はその機会独自の表現ができないかもしれない。
できる未来もあるかもしれませんけど、そのような場合はドラえもんのように擬人化されていますよね。
では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。