「現代に生きる人間の倫理」
第3節「民主社会と自由の実現」
5.ヘーゲルと自由の哲学
だから、カント哲学では人間が考えられる「人間の真理」を追究した
でも、それだとなんだか科学的じゃない
「理性的であるものこそ、現実的であり、現実的であるものこそ、理性的である」
意味(哲学は歴史に遅れて、その時代の意味を把握する)
(後に説明。ヘーゲルは意識一元論として見ていく)
(超読解!『精神現象学』p16)
- ヘーゲルの弁証法
- ヘーゲルと自由論
- ヘーゲルと国家
- ヘーゲルと「理性の狡知」
参考文献 「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」「超解読!はじめてのヘーゲル『法の哲学』」(竹田青嗣、西研著)、新しいヘーゲル(長谷川宏著)、哲学用語図鑑、ヘーゲル・セレクション(廣松渉・加藤尚武 編訳)、「自由」はいかに可能か(苫野一徳)
ヘーゲルの弁証法
ヘーゲルは「主観ー客観」(意識ー対象)というデカルトやカントによる根本図式を変更しました。
なぜなら、「主観ー客観」という認識図式は、「主観」と「客観」の一致こそ真理であるという考えを前提し、しかし同時に、「主観」と「客観」は決して一致しないという論理的に解けない難問(アポリア)を生みだすからだ。
(超解読!『精神現象学』)p28
ヘーゲルは世界を意識一元論として見ることにしたのです。
ヘーゲル認識論の基本図式
「意識〈主観ー客観〉」
つまり、「主観ー客観」という対立構図は、すべてわれわれの「意識」のうちで生じている対立であることを示しました。
この構図をヘーゲルの弁証法と共に物語で説明していきます。
弁証法と意識の物語
物語として見ていくために「知」と「真」を登場させます。
今までの認識の営みは、この知と真(概念と対象)が一致するかどうかを確かめることでした。
しかし、難問といわれている通り、どこまでいってもこの知と真が一致しているかどうかはわかりません。
なぜなら、知と真が一致していることを外から見る視点がないからです。
だから、神様が必要だった
- 〈主観ー客観〉
主観と客観の一致を見れるのは神 - 〈主観(知ー真)〉
知と真の区別は主観の中でおこなわれている
ヘーゲルは一致がわかる外からの視点に主観を置いたのです。
知を知覚としてみます。
知覚は真になろうとして、さまざまな真の性質を発見していきます。
例えば、食塩の結晶は、白い、辛い、立方体である、といった諸性質です。
知覚はさまざまな諸性質を発見した後、疑問を発見します。
(物それ自体としては一つだ、という見方)
あ、「知覚」も「真」も私の意識の産物だ!
何かおかしい…と思った時点で、私は知覚であって意識でもあることに気が付いていたんだ!
悟性(知性)は、彼岸のほうを「本質」と考えて感性的な世界をその「現象」とみなすが、「われわれ」からみると、むしろ現象のほうがもとになっている。われわれは感覚的な現象を説明するために本質(彼岸)をつくりあげるのである。
「超読解!『精神現象学』p48」
われわれ(思考の運動を外からみているもの)は自分で本質を作り上げていた
弁証法の特性
ヘーゲルの弁証法は、対立・矛盾する二つのものを、ともに生かしながら、より高い次元で総合(止揚)することをいいます。
自然のままの意識は、知はこういうものだと頭に思いうかべているだけで、実際になにかを知っているわけではない。が、にもかかわらず、意識は自分が実際に知識をもっているとつい思ってしまうから、知への道は自分を否定するような意味合いをもち、本来の知の実現が意識にとっては自己の喪失だと思えてくる。知への道は、意識の思いこむ真理が失なわれていく過程なのだから。したがって、知への道は疑いの道であり、もっといえば絶望の道である。
「新しいヘーゲル」p45ヘーゲルの抜粋
弁証法を繰り返すうちに、意識は自己意識だということを発見するのです。
あらゆる対象が、そして「世界」のすべてが、じつは’自分にとって’存在しているものだ、という感度が現れてくると、そこで人間は、もはや単なる「意識」ではなく「自己意識」として生きているのだ。
「超読解!『精神現象学』」p56
ヘーゲルと自由論
人間が自己意識を持つ過程を、弁証法の説明とともに見てきました。
ヘーゲルはこの自己意識は人間に特有のものだと定義します。
私は「自己意識」として世界に向き合っている。
このことの意味は何だろうか。
さしあたりは、どんな外的対象も「私にとっての何か」(対象)であるということだ。
しかしこの意味は、「私」とは単なる「意識」、つまり「対象についての単なる知」ではなく、すでにつねに、何らかの関心や欲望をもって対象に対している存在だということである。
「超読解!『精神現象学』」p57
動物も「意識」は持っているけれど、人間は自分がどのような欲望であるかを自覚し、対象化しているからこそ、人間の「意識」は「自己意識」になります。
そして、人間は自分が生き物の類の一つということを知っているけれど、「自己意識」を持つことによって、自分が独自の存在(個体性)であることを意識しています。
意識が自己意識に到ることにおいて、人間と動物の区別が出てきました。
ヘーゲル哲学において、人間はこの自己意識の成立過程において自由が根本的なものだと実感していきます。
ヘーゲルの自由
ヘーゲルは自由を根本的なものだと説きました。
ヘーゲルの自由は人間の欲望のことです。
人間の自由(欲望)の例
- 「自己の自律性の確証」(私は私だ)を求めること
- 「自由」(自律性)を相手に承認させようとすること
- 動物的でもある生存への欲求
- 善を叶えようとする欲求
自由は人間の欲望のことなので、善悪すべてを含みます。
ヘーゲルはルソーの社会契約論にも影響を受けています。
ルソーは「人間は自由な存在であり、自分が理想に思う一般意志に従うことが自由だ」と考えていました。
ホッブズの原理
さらに、ヘーゲルの自由はこの意味で社会契約説の原理にも寄り添います。
ホッブズは「我々は平等である、ゆえに争う」と考えました。
「あの人があれを望むのなら、私もあれをのぞんでいいはず」という争いです。
この争いは人間の欲望が基礎になっています。
自由の弁証法
ヘーゲルは始めの自己意識は他者の死へと向かうかもしれないと考えました。
けれど、そうなると自分を認めてもらうという欲求(自由)が叶えられないことに気が付きます。
そうなることで、他者との共存を望むようになるのです。
他にも、自由は様々な弁証法を描きます。
(イメージとしては主人と奴隷)
主と奴は争いをして、主が勝つことで主人となります。主は奴に対して、主のために労働することを強いる。
一見、自由は主だけにあるように思われます。
奴に対して絶対的な自立存在として立ち塞がるからです。
そうなると、主は自由です。
けれど、実は奴にも自由があるのです。
しかも、思考においては高次の次元に位置する自由が。
奴は主の欲求を労働によって叶えていきますが、その過程で、主が奴の労働に頼っていることを発見します。
でも、奴隷の方に主人より自由であるという意識がないと、高次の段階に行かないと考えている。
「理性的であるものこそ現実的」というように、自分が行動したり、自分で自由に気が付く必要があると説いている
つまり、人間は実際に抑圧されていても、思考の力によってそこにも自由を見いだすようになるとヘーゲルは説くのです。
「権力の自由<従う中での自由」
(従うことによって、この構図全体を俯瞰できるようになるから)
例えば、あらゆる善(正義反対論)や美(ルッキズム)を俯瞰して見られる私は、思考的にまさった存在だ、とか。
これはある種の自由。
けど、ヘーゲルは理性と現実との関係をみている。
奴隷が俯瞰してまさっているという思考をその自分の中だけに閉じこめるとき、それは現実にあらわれてこない
自由と自由意志
>>自由意志とは
(デカルト的な心身二元論と前提が違っている)
- 意識における「否定の自由」。
「頭の中だけの自由」であり、自分を規定する現実を内的に否定できる自由 - 「否定の自由」から進んで、自己の現実関係を対象化し、これを意味づつつ理解できる自由
- 自己をこの規定されたもの(欲望や感情に条件づけられたもの)を克服する主体性として把握する
まず自己が欲望と現実によって規定されていることを自覚し、そこからこの規定性を超え出ようとすること、このことによって人間の意志は、本質的に自由な意志となる。
「超読解!『法の哲学』」p43
ヘーゲルにおいて、人間は自己と世界の限定を超え出ようする存在なのです。
ショーペンハウアーはほんとうの世界の外に自分の思考があると考えていたから、ほんとうの世界と自分の思考との違いに苦しんでしまうと説いていた。
自由意志問題は契機③を問題にしているということ
「知性」は「運命」を無効にする。人間は考えるかぎり自由なのだ。
「自由はいかに可能か」p175『運命』からの抜粋
自由と歴史
ヘーゲルによれば、世界を成り立たせ、その歴史を動かすのは精神です。
精神は、主人公だった「意識」が最終的になるもの。
意識は自己意識、自己意識は理性、理性は精神というように弁証法的に進みます。
「意識」は経験によって自己意識、理性となってきたのですが、これ以降は精神という共同的な意識である「精神」が歴史における主人公になるのです。
精神こそが『自分自身を支える絶対的で実在的な本質』であって、これまでの意識の諸形態(意識・自己意識・理性)は、すべてこの精神から抽象されたものであり、もともとは精神のなかにその根拠をもつものだったのである。
「超読解!『精神現象学』」p140
例えば、「知」は「意識」であることに気が付き、「意識」は「自己意識」であることに気が付き、というように弁証法は、そのそれぞれをすべて取り込んできました。
ちなみに理性とは、「個別性と普遍性の統一(私の考えと皆の考えが調和しうること)を確信し、その確信を実現しようとする意志である」。(超読解『精神現象学』p87)
この弁証法の過程の中で、個人を貫いている普遍的なものを、ヘーゲルは絶対精神と呼びました。
世界精神(絶対精神が歴史の中にあらわれたもの)
自己外化⇒精神は自己の理念を外にあらわすことで、自己を実現する。
たとえば、画家は自分の考えを絵に描くことで、はじめて画家になる。
それゆえ精神はあらかじめ確立しているのではなく、自己の理念を現実に形にすることで、形成され、実現される。
(倫理の教科書p151)
この自然な自己外化は「教養」と呼ばれている。
ヘーゲル「世界史は自由の意識の進歩である」
ヘーゲルは歴史を根柢で動かしているものは、人間が絶対精神を手にいれて自由になりたいと思う意識であると考えたのです。
ヘーゲルと国家
ヘーゲルは、すべての人間が自由を手にする時代へと歴史を推し進めたその先に、最終的には人倫と言われる共同体を誕生させると主張しました。
人倫とは生きている善である
「人倫は、生きている善としての自由の理念である」
(超読解『法の哲学』p175)
人倫とは道徳(主観的な信念)と法(客観的な自由を保障するもの)がアウフヘーベン(止揚)されたもので、真の自由が実現されたものです。
- 法⇒人間を外側から規制する
- 道徳⇒人間を内側から規制する
- 外的な法と内的な道徳の対立が総合されて人倫が成立し、人間を全体として規制する
人倫は自由が実現される共同体のことで、家族・市民社会・国家という三つの段階からなっています。
この人倫の国では、①個々の自己意識は承認しあっており、さらに②個人は全体のために働き、全体もまた個々人を支えるという相互性が成り立っている。
そして③そこでの習俗と掟は、個々人にとって疎遠なものではなく、むしろ個々人の意志の表現となっている。
「超読解!『精神現象学』p105」
良心による道徳は主観性をでない、と
人倫と国家
家族と市民社会が止揚して国家になる弁証法を説明していきます。
国家への弁証法
- 家族⇒人間が自由な愛情でむすばれた共同体。
ただし、人々は家族の一員として生きているので、意識は独立していない。 - 市民社会⇒独立した人間からなる共同体。
個人として扱われるけれど、お互いの欲望のために競争から逃れられない。
「欲望の体系」であり「人倫の喪失態」 - 国家⇒国家の一員として生きる(家族的)であると同時に、自立した個人として扱われる。
「人倫の完成態」
でも、人々は教育によって、独立性と自由な人格性を求めて社会へと行く
つまり、「自由の相互配慮」としての国家が必須だということ
個々人の所有と安全を守るために国家がある、とみなすとき、国家は個々人のための手段となる(社会契約説への批判)。しかしヘーゲルの考えでは、国家の一員として生きる、つまり国家全体を配慮しつつそれに役立つことをして生きる、ということこそが、人間の本来の生き方だということになる。
「超読解!『法の哲学』p266」
ヘーゲルは「善」の理念を定義して、こう書く。『善は実現された自由であり、世界の絶対的な究極目的である』では、「善」とは何か。『ただ、正義(レヒト)を行なうこと、そして福祉‐自分の福祉と普遍的な規定における福祉、他の人たちの福祉‐のために気づかうこと、これだけである』
「超読解!『法の哲学』p15」
人々と自分の幸福のため、とも読める
ヘーゲルと理性の狡知
ヘーゲルは、この世におけるいかなる偉業も情熱なしには成就されなかったと述べます。
ナポレオンも理念と情熱によって、偉業をなしたのです。
そして、その情熱によって生じた人間の行為は、当の関心とはおよそかけはなれたものが実現されてしまいます。
理性が情熱だけを勝手に作動させ、その際、理性がそれによって自己を現存にもたらすところのもの(つまり理性によって手段として使役されるもの)が損害を受け危害をこうむるということ、この事態を理性の狡智と呼ぶことができる。‐理念は、生存と無常の貢祖を自分では納めずに、諸個人の情熱に支払わせるのである。
「ヘーゲルセレクション」p265
この「概念」がさらに普遍的な形をとったものが「理念」。
この「本質」、「概念」、「理念」はどれも「本質」と置き換えられるが、ヘーゲルでは徐々に普遍性が高くなる階層性を示している。
「超読解『法の哲学』p30」)
ヘーゲル批判
トロッコのレバーを引くと4人が助かり1人がひかれ、引かないと1人が助かり4人がひかれるという問題。
ヘーゲルのすごさ
ルソーの社会契約論は民主主義の元になっています。
ルソーの原理
人々が「自由な世」を望むのであれば、自由の相互承認にもとづく「社会契約」、またその帰結としての「一般意志」による統治が必須である
「超読解『法の哲学』p330」
ルソーは自由を、「自分自身の主人であること」と定義しました。
そして、こう問います「では、それが可能であるような結合の仕方は?」。
ヘーゲル哲学はそのルソーの問いに答えた形をとる、と「超読解!『法の哲学』」(p345)では述べられています。
- みずからの意志で人生を営むという〈自由〉が実現されなくてはならない、とする。
そこで、自由意志の相互尊重、相互承認が、共存のための約束=正義の根本にすえられる。
(しかし、このままでは相互不可侵でしかないので、そこから発展する) - 「私の利益」を求めるだけでなく、「みんなの利益」を求めるところまで‐〈一般意志〉とは何かを考え配慮するところまで‐人の意識は成長していくことが必要であり、またそれは可能である、とみなす。
ルソーの問いに、自由な社会が可能になるための条件をヘーゲルは考え詰めていったのです。
ヘーゲル『法の哲学』の最大の功績は、ルソーによっておかれた「万人の自由」を実現する社会という構想を、人間の「自由」の本質論として哲学的に基礎づけなおし、これを「近代国家」の根本理論、つまりその「正しさ・権利・法」の公準の理論としてはじめて哲学的に定義した点にある。
「超読解!『法の哲学』p11」
ヘーゲルと自由の哲学をやりました。
次回は、アダム=スミスについて取り扱います。