ヘーゲルと自由の哲学

ヘーゲルと自由の哲学|高校倫理1章3節5

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第3節「民主社会と自由の実現」
5.ヘーゲルと自由の哲学
を扱っていきます。
ヘーゲル(1770-1831)は近代哲学の完成者。
カント(1724-1804)に始まりヘーゲルで完成した人間の精神の哲学をドイツ観念論といいます。
カント哲学を少し復習。
カントは世界を現象界(私たちが見たり聞いたりする世界)と英知界(物自体の世界)と呼びました。
コペルニクス的転回(対象が認識に従う)によって、世界は私たちが見ているままではないことを明らかにしたのです。
物自体(対象そのもの)は人間にはわからない(各動物は他の見え方)。
だから、カント哲学では人間が考えられる「人間の真理」を追究した
現象界と英知界。
しかし、世界が二つに分かれていると考えるのは、現実の一つの世界に住んでいる私たちからすれば違和感があります。
英知界に行ってみたいなぁ
その世界を考えると、プラトンのイデア界みたいな感じになるね。
でも、それだとなんだか科学的じゃない
この違和感を解決したのがヘーゲルです。
「理性的であるものこそ、現実的であり、現実的であるものこそ、理性的である」
ヘーゲルは世界にあらわれるものはすべて精神(理性)のあらわれであるとしました。
「ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ」は有名。
意味(哲学は歴史に遅れて、その時代の意味を把握する)
ヘーゲルは現実と理性は関係しているものとして、世界を二元論的に見ることを否定した。
(後に説明。ヘーゲルは意識一元論として見ていく)
ヘーゲルは、哲学における認識論の難問(アポリア)は「絶対的なものの認識(真)」と、「相対的なものの認識(真)」との区別がはっきりするにつれて解かれていくようになる、と述べています。
(超読解!『精神現象学』p16)
彼は難問を解決するために、物自体(絶対的な真)と現象(相対的な真)との関係を捉え直したのです。
ヘーゲル哲学は近代哲学の完成という見方の他に、現代の自由論においても欠かせないものになっている
ヘーゲル哲学は膨大なので、倫理の教科書でのトピックを主に説明していきます。
ブログ構成
  • ヘーゲルの弁証法
  • ヘーゲルと自由論
  • ヘーゲルと国家
  • ヘーゲルと「理性の狡知」

参考文献 「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」「超解読!はじめてのヘーゲル『法の哲学』」(竹田青嗣、西研著)、新しいヘーゲル(長谷川宏著)哲学用語図鑑ヘーゲル・セレクション(廣松渉・加藤尚武 編訳)「自由」はいかに可能か(苫野一徳)

ヘーゲルの弁証法

ヘーゲルは「主観ー客観」(意識ー対象)というデカルトやカントによる根本図式を変更しました。

なぜなら、「主観ー客観」という認識図式は、「主観」と「客観」の一致こそ真理であるという考えを前提し、しかし同時に、「主観」と「客観」は決して一致しないという論理的に解けない難問(アポリア)を生みだすからだ。
(超解読!『精神現象学』)p28

ヘーゲルは世界を意識一元論として見ることにしたのです。

ヘーゲル認識論の基本図式
「意識〈主観ー客観〉」

つまり、「主観ー客観」という対立構図は、すべてわれわれの「意識」のうちで生じている対立であることを示しました。

この構図をヘーゲルの弁証法と共に物語で説明していきます。

ヘーゲルの『精神現象学』は「意識」を主人公とした物語としてみていくとわかりやすい

弁証法と意識の物語

物語として見ていくために「知」と「真」を登場させます。

それぞれ「知」君、「真」君というようにキャラクターに見立ててみる

今までの認識の営みは、この知と真(概念と対象)が一致するかどうかを確かめることでした。

しかし、難問といわれている通り、どこまでいってもこの知と真が一致しているかどうかはわかりません。

なぜなら、知と真が一致していることを外から見る視点がないからです。

一致がわかるのは外からの視点のみ。
だから、神様が必要だった
この難問を、ヘーゲルはクリアします。
この「知」と「真」という区別自体が、じつはわれわれの「主観」のうちで生じている区別だということに気が付いたからです。
  • 〈主観ー客観〉
    主観と客観の一致を見れるのは神
  • 〈主観(知ー真)〉
    知と真の区別は主観の中でおこなわれている

ヘーゲルは一致がわかる外からの視点に主観を置いたのです。

知を知覚としてみます。

知覚は真になろうとして、さまざまな真の性質を発見していきます。

例えば、食塩の結晶は、白い、辛い、立方体である、といった諸性質です。

知覚はさまざまな諸性質を発見した後、疑問を発見します。

知覚
あれっ?諸性質をたくさん発見したけど、食塩の結晶は一つのはず。
(物それ自体としては一つだ、という見方)
しかし、知覚自体は自分自身と「真」の姿を外から見ることができない(一致しているかわからない)ので、ずっと「真」の諸性質を発見しているだけです。
知覚は諸性質しかわからないのです。
意識(知覚)
何かおかしい…。
あ、「知覚」も「真」も私の意識の産物だ!
何かおかしい…と思った時点で、私は知覚であって意識でもあることに気が付いていたんだ!
つまり、知覚だけだとしたらずっと諸性質を発見しているだけで、違和感を感じないのです。
違和感を感じることを問いただしていくと、知覚はそれを外からみる視点の「意識」でもあることに気が付きます。
悟性(知性)は、彼岸のほうを「本質」と考えて感性的な世界をその「現象」とみなすが、「われわれ」からみると、むしろ現象のほうがもとになっている。
われわれは感覚的な現象を説明するために本質(彼岸)をつくりあげるのである。
「超読解!『精神現象学』p48」
意識
そっか、私が真と思っていたのは、自分の思考の運動だったんだ!
われわれ(思考の運動を外からみているもの)は自分で本質を作り上げていた
このように知と真を外から見られることに気が付くと、知と真の対立がじつは錯覚だったことがわかります。
そこから弁証法が描かれます。
知と真は対立することをやめて、二つを外から見る視点である「合」になります。

弁証法の特性

ヘーゲルの弁証法は、対立・矛盾する二つのものを、ともに生かしながら、より高い次元で総合(止揚)することをいいます。

ヘーゲルの弁証法⇒矛盾する事柄を総合することで高い次元の結論へ導く思考方法
物語化してみます。
あなたはウサギです。
あなたはカメと競争することになったのですが、余裕だと思って道端で寝ているうちにカメに負けてしまいました。
ウサギがカメに負ける。
ウサギのあなたにとっては屈辱的なもので、もうウサギの世界では生きていけないくらい、ウサギの友達にもバカにされるようになりました。
ウサギとして傷を負ったとき、あなたはその傷がそこまでのものではないことを発見します。
そう、あなたは童話「うさぎとカメ」を読んでいる読者であることに気が付いたのです。
あなたは物語を読みながら俯瞰して、そこから教訓を得ます。
「何ごとにも余裕の持ち過ぎはいけない」とか。
さて、あなたは日常生活においてもかけっこ勝負で、余裕だと思っていた友達にも勝てなくなってしまいました。
自己悲観する日が続きます。
けれど、これも弁証法的に考えれば、これを上の視点からみることで高次の考えに移ることができます。
「余裕だと思っていたのがいけなかったのかもしれない」とか。
ヘーゲルの弁証法における総合は止揚(しよう、アウフヘーベン)とも呼ばれます。
アウフヘーベンという語にヘーゲルは「捨てつつもちあげる」という矛盾した意味をこめました。
アウフヘーベンはドイツでは「捨てる」という意味で多用されているらしくて、ヘーゲルが独特の意味を与えている
ウサギもそれを読む私も、アウフヘーベンするためにはその自己を否定する過程が必須になるからです。
例えば、ウサギは主人公であったけれど、全体の意味を見るためにウサギである自分を否定して、その読者としての視点を獲得しています。
ヘーゲルは弁証法を人間の思考の進化だけでなく、自然や社会など世の中すべての進化の原理原則だと考えました。
また先ほどの「知」と「真」と「意識」の物語を想定してみます。
自然のままの意識は、知はこういうものだと頭に思いうかべているだけで、実際になにかを知っているわけではない。
が、にもかかわらず、意識は自分が実際に知識をもっているとつい思ってしまうから、知への道は自分を否定するような意味合いをもち、本来の知の実現が意識にとっては自己の喪失だと思えてくる。
知への道は、意識の思いこむ真理が失なわれていく過程なのだから。
したがって、知への道は疑いの道であり、もっといえば絶望の道である。
「新しいヘーゲル」p45ヘーゲルの抜粋
「意識」はこの絶望の中で、ある発見をします。

弁証法を繰り返すうちに、意識は自己意識だということを発見するのです。

あらゆる対象が、そして「世界」のすべてが、じつは’自分にとって’存在しているものだ、という感度が現れてくると、そこで人間は、もはや単なる「意識」ではなく「自己意識」として生きているのだ。
「超読解!『精神現象学』」p56

世界はさまざまに変化するけど、「私は私(自己同一性)」を確信していく

ヘーゲルと自由論

人間が自己意識を持つ過程を、弁証法の説明とともに見てきました。

ヘーゲルはこの自己意識は人間に特有のものだと定義します。

私は「自己意識」として世界に向き合っている。

このことの意味は何だろうか。

さしあたりは、どんな外的対象も「私にとっての何か」(対象)であるということだ。

しかしこの意味は、「私」とは単なる「意識」、つまり「対象についての単なる知」ではなく、すでにつねに、何らかの関心や欲望をもって対象に対している存在ということである。
「超読解!『精神現象学』」p57

動物も「意識」は持っているけれど、人間は自分がどのような欲望であるかを自覚し、対象化しているからこそ、人間の「意識」は「自己意識」になります。

そして、人間は自分が生き物の類の一つということを知っているけれど、「自己意識」を持つことによって、自分が独自の存在(個体性)であることを意識しています。

人間はこの自己否定や絶望の末に獲得した「自己意識」(個体性)を大切にしたいんだね

意識が自己意識に到ることにおいて、人間と動物の区別が出てきました。

ヘーゲル哲学において、人間はこの自己意識の成立過程において自由が根本的なものだと実感していきます。

ヘーゲルの自由論は近年とても注目されている

ヘーゲルの自由

ヘーゲルは自由を根本的なものだと説きました。

ヘーゲルの自由は人間の欲望のことです。

人間の自由(欲望)の例

  • 「自己の自律性の確証」(私は私だ)を求めること
  • 「自由」(自律性)を相手に承認させようとすること
  • 動物的でもある生存への欲求
  • 善を叶えようとする欲求

自由は人間の欲望のことなので、善悪すべてを含みます。

欲望と聞くと悪いイメージがあるかもしれないけど、ここには良いことも含まれていて、善悪がないとも言える

ヘーゲルはルソーの社会契約論にも影響を受けています。

ルソーは「人間は自由な存在であり、自分が理想に思う一般意志に従うことが自由だ」と考えていました。

ホッブズの原理

さらに、ヘーゲルの自由はこの意味で社会契約説の原理にも寄り添います。

ホッブズは「我々は平等である、ゆえに争う」と考えました。

「あの人があれを望むのなら、私もあれをのぞんでいいはず」という争いです。

この争いは人間の欲望が基礎になっています。

この欲望は自由に置き換えられる
社会契約説の流れで見るならば、ヘーゲル「我々は自由である、ゆえに従う」という原理を設定できるかも
それでも疑問に思うかもしれません。
争いや自己生存に勝つ自由を目的とした場合、他者の死(暴力)へと働いても仕方がないのではないか、と。
ここには自由の弁証法が見て取れます。

自由の弁証法

ヘーゲルは始めの自己意識は他者の死へと向かうかもしれないと考えました。

けれど、そうなると自分を認めてもらうという欲求(自由)が叶えられないことに気が付きます。

そうなることで、他者との共存を望むようになるのです。

他にも、自由は様々な弁証法を描きます。

例えば「主と奴」の物語。

(イメージとしては主人と奴隷)
主と奴は争いをして、主が勝つことで主人となります。主は奴に対して、主のために労働することを強いる。

一見、自由は主だけにあるように思われます。

奴に対して絶対的な自立存在として立ち塞がるからです。

そうなると、主は自由です。

あらゆる束縛がないことが自由、というイメージは主からくるイメージだよね

けれど、実は奴にも自由があるのです。

しかも、思考においては高次の次元に位置する自由が。

奴は主の欲求を労働によって叶えていきますが、その過程で、主が奴の労働に頼っていることを発見します。

奴隷をこき使う主人って、やってもらえばもらうほど自分では何もできなくなる
いつの間にか奴の方に「本来の自立性」(生きる力)があることに、奴が気が付くようになるのです。
労働は人間の真の自由(自立性)にとって本質的なもので、実際は主の方が奴に依存しているにすぎない、と。
奴は思考の次元において、主の自由(崇拝されているとか、自分が認められているという思い込み)よりも高次の段階に行くようになります。
ここで、奴の自由は実現されているのです。
ヘーゲルはその時代にあった奴隷制度について否定している。
でも、奴隷の方に主人より自由であるという意識がないと、高次の段階に行かないと考えている。
「理性的であるものこそ現実的」というように、自分が行動したり、自分で自由に気が付く必要があると説いている

つまり、人間は実際に抑圧されていても、思考の力によってそこにも自由を見いだすようになるとヘーゲルは説くのです。

思考の段階ではこうなることもある
「権力の自由<従う中での自由」
(従うことによって、この構図全体を俯瞰できるようになるから)
ちなみに、ヘーゲルは現代における「ニヒリズム的な自由」についても言及している。
例えば、あらゆる善(正義反対論)や美(ルッキズム)を俯瞰して見られる私は、思考的にまさった存在だ、とか。
これはある種の自由。
けど、ヘーゲルは理性と現実との関係をみている。
奴隷が俯瞰してまさっているという思考をその自分の中だけに閉じこめるとき、それは現実にあらわれてこない

自由と自由意志

また現代において、「自由な意志なんてない!」と語られることがあります。
ショーペンハウアーは自由意志を否定していた
>>自由意志とは
この自由意志の否定は、例えば心理学実験で人が手を挙げることを意志する前に、体が反応していたことが脳スキャンからわかった、などとして語られます。
僕の意志より体のが先に動いてたから、僕は体に操られている…
しかし、このような自由意志のとらえ方は、ヘーゲルの自由意志の否定にはなりません。
(デカルト的な心身二元論と前提が違っている)
ヘーゲルは人間は意志する存在だと述べました。
人間が動物と違うのは自己意識(意識が欲望によって確信したもの)があるからだと説明したからです。
そして、人間の自由の契機はこちら。
  1. 意識における「否定の自由」。
    「頭の中だけの自由」であり、自分を規定する現実を内的に否定できる自由
  2. 「否定の自由」から進んで、自己の現実関係を対象化し、これを意味づつつ理解できる自由
  3. 自己をこの規定されたもの(欲望や感情に条件づけられたもの)を克服する主体性として把握する

まず自己が欲望と現実によって規定されていることを自覚し、そこからこの規定性を超え出ようとすること、このことによって人間の意志は、本質的に自由な意志となる。
「超読解!『法の哲学』」p43

ヘーゲルにおいて、人間は自己と世界の限定を超え出ようする存在なのです。

超え出ることは出来ないかもしれないけれど、思想には自由がある。
ショーペンハウアーはほんとうの世界の外に自分の思考があると考えていたから、ほんとうの世界と自分の思考との違いに苦しんでしまうと説いていた。
自由意志問題は契機③を問題にしているということ
わたしたちは自由のために「思考」を必要としています。
「知性」は「運命」を無効にする。
人間は考えるかぎり自由なのだ。
「自由はいかに可能か」p175『運命』からの抜粋

自由と歴史

ヘーゲルによれば、世界を成り立たせ、その歴史を動かすのは精神です。

精神は、主人公だった「意識」が最終的になるもの。

「意識」の冒険は最終的に精神になり、それは絶対精神と呼ばれるようになる

意識は自己意識、自己意識は理性、理性は精神というように弁証法的に進みます。

「意識」は経験によって自己意識、理性となってきたのですが、これ以降は精神という共同的な意識である「精神」が歴史における主人公になるのです。

精神こそが『自分自身を支える絶対的で実在的な本質』であって、これまでの意識の諸形態(意識・自己意識・理性)は、すべてこの精神から抽象されたものであり、もともとは精神のなかにその根拠をもつものだったのである。
「超読解!『精神現象学』」p140

例えば、「知」は「意識」であることに気が付き、「意識」は「自己意識」であることに気が付き、というように弁証法は、そのそれぞれをすべて取り込んできました。

ちなみに理性とは、「個別性と普遍性の統一(私の考えと皆の考えが調和しうること)を確信し、その確信を実現しようとする意志である」。(超読解『精神現象学』p87)

例えば、理性の段階で人は自分自身が褒められるよりも、「ほんものの作品」を作ったことを評価されたり、「真に意義のあること」をしたことを評価されたりすることをより喜ぶようになる、ということ。

この弁証法の過程の中で、個人を貫いている普遍的なものを、ヘーゲルは絶対精神と呼びました。

ヘーゲルはナポレオンを見て「世界精神が馬に乗って通る」と言った。
世界精神(絶対精神が歴史の中にあらわれたもの)
ナポレオンはフランス革命において第一統領になり、フランス民法典や教育システムなど、近代国家の基盤をつくりました。
フランス革命の核心をなしたのは「人間の内面性と自由」であり、「哲学を出発点とする」革命だと、ヘーゲルは考えたのです。(新しいヘーゲルp167)
ナポレオンは世界精神(自由を実現しようとする精神)
絶対精神は、自己の抱く理念(理想)を現実の世界の内に表現し、実現していきます(自己外化)。
自己外化⇒精神は自己の理念を外にあらわすことで、自己を実現する。
たとえば、画家は自分の考えを絵に描くことで、はじめて画家になる。
それゆえ精神はあらかじめ確立しているのではなく、自己の理念を現実に形にすることで、形成され、実現される。
(倫理の教科書p151)
例えば、画家になるということは、自然な生まれつきの自己(自己意識)を否定することとも言える。
この自然な自己外化は「教養」と呼ばれている。
つまり、身分(職業など)に属していない人間はたんなる私的人格であり、現実的普遍の中に位置を占めていない、ということです。
ヘーゲルは「歴史」とはすべての人間が自由を手に入れるまでの進歩の過程だと考えました。(哲学用語図鑑p176)
ヘーゲル「世界史は自由の意識の進歩である」

ヘーゲルは歴史を根柢で動かしているものは、人間が絶対精神を手にいれて自由になりたいと思う意識であると考えたのです。

ヘーゲルと国家

ヘーゲルは、すべての人間が自由を手にする時代へと歴史を推し進めたその先に、最終的には人倫と言われる共同体を誕生させると主張しました。

人倫とは生きている善である
「人倫は、生きている善としての自由の理念である」
(超読解『法の哲学』p175)

人倫とは道徳(主観的な信念)と(客観的な自由を保障するもの)がアウフヘーベン(止揚)されたもので、真の自由が実現されたものです。

  • 法⇒人間を外側から規制する
  • 道徳⇒人間を内側から規制する
  • 外的な法と内的な道徳の対立が総合されて人倫が成立し、人間を全体として規制する

人倫は自由が実現される共同体のことで、家族・市民社会・国家という三つの段階からなっています。

この人倫の国では、①個々の自己意識は承認しあっており、さらに②個人は全体のために働き、全体もまた個々人を支えるという相互性が成り立っている。

そして③そこでの習俗と掟は、個々人にとって疎遠なものではなく、むしろ個々人の意志の表現となっている。
「超読解!『精神現象学』p105」

ヘーゲルはここでカントの道徳を批判している。
良心による道徳は主観性をでない、と

人倫と国家

家族と市民社会が止揚して国家になる弁証法を説明していきます。

国家への弁証法

  • 家族⇒人間が自由な愛情でむすばれた共同体。
    ただし、人々は家族の一員として生きているので、意識は独立していない。
  • 市民社会⇒独立した人間からなる共同体。
    個人として扱われるけれど、お互いの欲望のために競争から逃れられない。
    「欲望の体系」であり「人倫の喪失態」
  • 国家⇒国家の一員として生きる(家族的)であると同時に、自立した個人として扱われる。
    「人倫の完成態」
家族は愛であり、感情的な一体性が本質。
でも、人々は教育によって、独立性と自由な人格性を求めて社会へと行く
またヘーゲルは個人が結合して国家が設立されるのではなく、国家が成立して個人が結合すると論じました。
個人にたいする国家の優位を唱えたのです。
法の哲学は、「自由を欲するなら、かく為すほかなし」という哲学原理に基づいている。
つまり、「自由の相互配慮」としての国家が必須だということ
個々人の所有と安全を守るために国家がある、とみなすとき、国家は個々人のための手段となる(社会契約説への批判)。
しかしヘーゲルの考えでは、国家の一員として生きる、つまり国家全体を配慮しつつそれに役立つことをして生きる、ということこそが、人間の本来の生き方だということになる。
「超読解!『法の哲学』p266」
『法の哲学』の『法』はドイツ語のレヒトの訳です。
レヒトは英語で言うとライト、日本語でいうと正しさとか、法、抽象的な正義、権利などになってきます。
ヘーゲルは「善」の理念を定義して、こう書く。
『善は実現された自由であり、世界の絶対的な究極目的である』
では、「善」とは何か。
『ただ、正義(レヒト)を行なうこと、そして福祉‐自分の福祉と普遍的な規定における福祉、他の人たちの福祉‐のために気づかうこと、これだけである』
「超読解!『法の哲学』p15」
福祉は訳によって幸福としても訳されている。
人々と自分の幸福のため、とも読める

ヘーゲルと理性の狡知

ヘーゲルは、この世におけるいかなる偉業も情熱なしには成就されなかったと述べます。

ナポレオンも理念と情熱によって、偉業をなしたのです。

そして、その情熱によって生じた人間の行為は、当の関心とはおよそかけはなれたものが実現されてしまいます。

ナポレオンは最後には島流しになってしまった
理性が情熱だけを勝手に作動させ、その際、理性がそれによって自己を現存にもたらすところのもの(つまり理性によって手段として使役されるもの)が損害を受け危害をこうむるということ、この事態を理性の狡智と呼ぶことができる。
‐理念は、生存と無常の貢祖を自分では納めずに、諸個人の情熱に支払わせるのである。
「ヘーゲルセレクション」p265
(ちなみに、自由な思惟が世界のありようの「本質」を正しく認識することが「概念」。
この「概念」がさらに普遍的な形をとったものが「理念」。
この「本質」、「概念」、「理念」はどれも「本質」と置き換えられるが、ヘーゲルでは徐々に普遍性が高くなる階層性を示している。
「超読解『法の哲学』p30」)
理性は有力であるとともに狡智にたけていて、理性は過程に直接には入りこまないで、自分の目的をのみ実現するという媒介活動をします。
つまり、精神は自分を個物としても見なすので、自己理念と一致しない個物(人間)を没落させていくのです。
ヘーゲルは理性の狡智という面を考慮していました。
しかし、ヘーゲル哲学はこの点において批判されています。

ヘーゲル批判

ヘーゲル哲学の弁証法は「あれもこれも」と取り込むのですが、現実問題ではどちらかを選択する場面が現れます。
例えば、トロッコ問題。
トロッコ問題とは。
トロッコのレバーを引くと4人が助かり1人がひかれ、引かないと1人が助かり4人がひかれるという問題。
ヘーゲル哲学では、この結果からこの問題を倫理的に検証します。
しかし、その瞬間の出来事は考察されていないのです。
キルケゴールはこの選択によって傷を負いながら生きている人間個人に主体的真理(自分だけの真理)を見いだしました。
ヘーゲルのような全体を俯瞰する立場も必要なのですが、それだと「人間を数として扱うデータ社会」や「人間をサンプルとして扱ったナチスの悲劇」を検討できないのです。
理性は弁証法の過程で私をものとみなしたりする
実存の視点は、その後の哲学の課題になっていきます。
しかし、ヘーゲルの自由の哲学や緻密な考え方(客観的真理)は現代社会において見直されるべきものなのではないか、と考えられています。

ヘーゲルのすごさ

ルソーの社会契約論は民主主義の元になっています。

ルソーの原理

人々が「自由な世」を望むのであれば、自由の相互承認にもとづく「社会契約」、またその帰結としての「一般意志」による統治が必須である
「超読解『法の哲学』p330」

ルソーは自由を、「自分自身の主人であること」と定義しました。

そして、こう問います「では、それが可能であるような結合の仕方は?」。

ヘーゲル哲学はそのルソーの問いに答えた形をとる、と「超読解!『法の哲学』」(p345)では述べられています。

  1. みずからの意志で人生を営むという〈自由〉が実現されなくてはならない、とする。
    そこで、自由意志の相互尊重、相互承認が、共存のための約束=正義の根本にすえられる。
    (しかし、このままでは相互不可侵でしかないので、そこから発展する)
  2. 「私の利益」を求めるだけでなく、「みんなの利益」を求めるところまで‐〈一般意志〉とは何かを考え配慮するところまで‐人の意識は成長していくことが必要であり、またそれは可能である、とみなす。

ルソーの問いに、自由な社会が可能になるための条件をヘーゲルは考え詰めていったのです。

ヘーゲル『法の哲学』の最大の功績は、ルソーによっておかれた「万人の自由」を実現する社会という構想を、人間の「自由」の本質論として哲学的に基礎づけなおし、これを「近代国家」の根本理論、つまりその「正しさ・権利・法」の公準の理論としてはじめて哲学的に定義した点にある。
「超読解!『法の哲学』p11」

ヘーゲルは自由を徹底的に考え抜いた哲学者!
自由の相互承認を基礎におくことで、今の社会を改めて考察することができます。

ヘーゲルと自由の哲学をやりました。

次回は、アダム=スミスについて取り扱います。

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